6.九条坂 その2ー②
最悪を回避する事前予測より、現実がより耐え難いことは人生でどれだけでもある。
「頭、痛くなってきた……」
「なによ、もしかしてそれって、ここがうるさいってこと?」
「ああ……お前は平気なのか?」
「平気なのかって、その質問の意味がよく分かんないんだけど」
「若さのせいか……」
「はぁ? 久吾だってまだ二十代でしょ?」
「まぁ一応……」
「なんだかなぁ……どうにもこうにもこの人ジジイ臭いんだけど。あのね久吾、喉元過ぎれば熱さを忘れる、郷に入っては郷に従えよ、私、ちょっと踊ってくる」
言うとケイラは人の波に飛び込み、それに呑まれた姿はすぐに見えなくなる。
先程『ヴィラン』には到着し、顔見知りというケイラのつてでオーナーに会う約束は取りつけることができた。しかしそれを待つために案内されたボックス席はフロア中央に陣取り、落ち着かないことこの上ない。大音量の音楽が鳴り響く中、久吾は耐え切れず呟いていた。
子供の頃から騒々しい場所が苦手だった。
片方の視力が弱いせいか、音ばかりが際立つ場所にいると平衡感覚や距離感覚が次第にまともじゃなくなってくる。明滅する照明がそれらを増長させ、覚醒時でもあの血の幻覚に襲われそうになる。ここにいつまでも留まっていれば、知らぬ間に現実と幻惑の狭間が曖昧になりそうだった。
周囲を見回せば、若い男女が溢れている。彼らの中には櫂ぐらいの未成年者もいるようだが、少年課や風紀課ではない自分には管轄外の光景にしか映らない。だが櫂がここにいる考えたくもない想像をつい巡らせれば、不必要な頭痛がぶり返した気がした。
「どうも、待たせたみたいだな」
その声は喧噪を縫って届いた。
顔を上げると自身と変わらぬ上背、年齢の男が立っている。長めの黒髪に黒いシャツ、首と手の甲に漆黒のタトゥー。表情は鋭いが、ケイラが言ったとおり商売は商売だと割り切る手堅さも垣間見える。
「
男は名乗り、二つ隣の席に腰を下ろす。相手からは強い酒と外国製の煙草の香りが漂った。久吾も名乗ると相手は頷き、「蔓橋は?」と訊ねた。
「蔓橋? ああ、ケイラのことか。彼女は今フロアに行ってる」
「……蔓橋とはどういう知り合い?」
「まぁ……友人だ」
答えるが相手は特に反応せず、それ以上何も言うこともなかった。
喧噪と光が明滅する中、向かい合う表情はこちらを吟味しているようにも、こちらに対する無関心を顕しているようにも見える。
呉は寡黙と言うより、対峙する相手に常に緊張感を与える男だった。そのことによって相手の度量を計っているようでもある。そんな相手に対して久吾は嫌悪とは逆位置にあるものを感じ取っていた。手の内を見せて笑顔で距離を詰めてくる相手ほど、信用ならないものはない。その手の内が本心かどうかなど当人しか分からず、笑顔が単なる釣り餌の可能性もある。
十五の頃から表面で謀ろうとする輩を大勢見てきた。でもそのセオリーに従うなら、あの
「あれ呉、もう手が空いたの?」
張り詰めた沈黙を破るように大波から逃れたケイラが戻っていた。彼女は席に着くと、早速呉の腕に自分の腕を絡ませた。
「悪かったな蔓橋、待たせたみたいで」
「ううん、いいって、忙しいんでしょ。それで……彼の名前は聞いた?」
「ああ、聞いた」
呉とケイラ。二人の間には友人関係でも男女関係でもない気配があるように見える。
呉は絡ませたケイラの腕はそのままに、変わらぬ表情で問いかけた。
「それで九条坂、俺に訊きたいこととは?」
「早速で悪いが、この男を見たことは?」
久吾は写真を差し出した。相手は精緻なタトゥーの入った手で受け取ると、数秒も経たずに返事を戻した。
「これは川西だな。川西映」
「知ってるのか?」
「ああ、態度は非常に悪いが金払いのとてもいい、素敵なお客様だからな。でもこのひと月ほどは姿を見ていない」
「……そうか」
「だが九条坂」
「なんだ?」
「川西は見ていないが、奴のお仲間なら今も頻繁に店に来ている。今日はどうやら見えないようだがな」
「それは川西の医大生仲間か?」
「いいや、違うだろう。見れば分かる」
微かに笑んだ相手は写真を差し出した。
久吾はそれを受け取って、暫し今後の出方を思案した。
所在不明の川西が一ヶ月前まで生きていたことはとりあえず確認できた。今後ここを訪れる可能性もあるが、それがいつになるかは未知数すぎる。だが頻繁に訪れる川西の仲間がいる。彼らから何らかの情報を得ることができれば、捜索の展望も開けるはずだった。
「呉、悪いがその川西の仲間という連中が来たら俺に連絡をもらえるか? もし川西本人を目撃した時も同様にしてもらえると助かる」
「ああ、構わない」
こちらの事情でしかない申し出には、ためらいない返事が戻った。続けて相手は連絡先を、と告げる。口頭で伝えた番号を入力する相手を見据えながら、久吾は僅かな疑念を抱いていた。
ケイラの友人というだけで随分協力的な態度に疑いを感じる。でもそれが杞憂でしかないのは分かっていた。今夜の出来事が今後どんな展開を迎えようと、直面した時に適切な処理をすればいい話だった。最悪を回避するために事前予測をすることは、誰にとっても必要必須であるはずだった。
「忙しい時間に手間を取らせて悪かったな」
久吾は礼を告げ、席を立った。捜索の行方はまだ見えないが、その欠片は掴むことができた。ようやく音の氾濫からも逃れられると思うが、背後の男の声が追うように届いた。
「九条坂、お前プラシーボと呼ばれるドラッグを知ってるか?」
その声に足を止め、久吾は振り返った。
こちらを見据える黒い男を再度目に留めた。
「ああ、名は聞いたことがある。最近若い奴の間で出回ってるライトドラッグだ」
「それの過剰摂取でこの数ヶ月で客が二人死んだ。ライトドラッグなのは間違いないが、いずれ死に至らないドラッグなど存在しない」
「その質問の意図は一体なんだ、呉。俺に訊いたのは川西とそのドラッグに関係があるからか?」
「関係? 俺は一介の子供の遊び場のオーナーにすぎない。ついでに言うと店の裏で野垂れ死んだ薬物依存者にも特に感想はない。関係あるかどうかを探るのはあんたの仕事だよ、九条坂刑事」
喧噪から解放され、歩み出た路地はいつものように湿り気を帯びていた。
空で瞬く星も澱んで見え、夜道に吹くぬるい風が剥き出しの感覚を撫でていく。
久吾は路地を歩きながら、呉が最後に放った言葉を蘇らせていた。
彼は自分の素性を知っていた。ケイラが必要のない情報を告げる訳はなく、そうなればあの男が見た目以上の相手であった結論が残るのみだった。
「ねぇ、こうして夜道を二人で歩いてるとデートみたい」
こちらを見上げたケイラが腕を絡めながら言う。嫉妬がある訳では無論ないが、彼女の腕を組むという行為は随分と安い接触行為に成り下がったものだ。
「デートだ? アホらしい」
「なにそれ、ちょっとひどくない?」
「今更」
「あー、本当にまったくあんたって、ひどい男」
ケイラが毎度のように繰り出す言葉の後には、沈黙が流れる。
彼女が口ずさむ歌が耳に届いた。母親の故郷の歌なのか、知らない言語のそれはぬるい風と同じように鼓膜を撫でていった。
「久吾」
「なんだ」
「……私のこと、本当はどう思ってる?」
「はぁ? いきなり何言ってる?」
「私はあの子と違って、いつも久吾だけを見てるよ」
ケイラが腕に寄り添い、再び見上げる。
その瞳がいつもと違う色に見え、背筋にやや冷たいものを感じる。
彼女が『あの子』と指すのが、誰かは分かっていた。
彼女は自分が『彼女』に、特別な感情を抱いていると思っている。隠しても隠し通すことのできないものがあることを自分でも本当は分かっている。けれど彼女のようにそれを直視するつもりは今後もなかった。
「なーんちゃって、今の冗談、嘘。本気にした?」
黙っているとケイラの戯けた笑いが届く。しかしその横顔には見たこともないものが掠め、絡められた腕が急激に冷えた気がした。
漂う静寂を震わせて携帯電話が鳴り出していた。呉からかと期待したが、表示されたのは病院の名だった。
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