4.櫂 その2
「どうしてここに留可がいるんだ?」
「それ、私が邪魔だってこと?」
「別にそうは言って……」
「完全に言ってるよ。おしっこ漏らしのアホ兄貴の秋。臭い臭い。櫂にも嫌われればいい。ばーか」
櫂が秋と待ち合わせた夕方のファストフード店は、少し混んでいた。
舌を出した留可は背を向けると、人混みを掻き分けてオーダーしに向かっていく。その背に秋は何か言いたげな表情を残したが、ふと急いたようにこちらに向き直った。櫂が声をかけようとするその前に、秋は身を乗り出し気味に言葉を発した。
「櫂、今留可が言ったことは嘘だからな!」
「え? 今言ったこと……?」
「今留可が言った俺が漏らしたって話だよ。俺、絶対漏らしてなんかないからな!」
「えっと、うん、それは分かってるよ?」
「それ本当に?」
「うん」
「それ、本当に本当に本当だよな?」
なぜか必死な様子の秋に櫂は笑みを浮かべた。
秋と留可は仲がいい。櫂はそう思っている。いつも互いに言い合っているが、それがうらやましく感じる時がある。
「櫂、ほら」
ようやく納得したのか、秋が手にしたオレンジジュースを差し出していた。自分のために用意していたらしきそれを櫂は礼を言って受け取ろうとするが、相手の視線に気づく。それが腕にあるのに気づけば、今更隠しても遅いことにも気づいていた。
「なぁ櫂、その痣どうしたんだ? 昨日は……なかったよな?」
「えっと、これは今日もちょっと階段で転んじゃって……」
昼休みの出来事。彼女達に蹴られた時に怪我はしなかったが、腕と脚に青痣が残った。二、三日もすれば消える本当に僅かなものだったが、毎回嘘が下手すぎるのは自覚していた。
「はーい、秋。それはねぇ、櫂はクラスの三バカどもにいじめにあってんのー。でもバカみたいに何も言い返さないから、相手はよりバカ調子に乗る。あいつらが今後何もしてこなくなっても、櫂はきっとまた別のバカにいじめられる。バカだからー」
「おい、留可」
「なにー? だって本当のことだよ、櫂はいじめられるのが好きなんだー。ドMなんだよー、ドM。よかったねー兄貴、ドSだもんねー。これでドMとドSカップルの出来上がりだー。ああ、だけどこうやってこの世界は何事もなく回っていくんだねー。ぐるぐるー」
「おい、やめろって!」
「うるさいなぁ、秋こそうるさいよ。櫂のことになると五月の蝿くらいうるさい、バカ兄貴」
秋は声を荒らげるが、留可は手にしたアイスコーヒーのストローを噛むと、相手のことなどどこ吹く風でそっぽを向いている。
テーブルの上には気まずい沈黙が流れ始めていた。
先程はうらやましく感じたが、櫂としてはこんな状況は望んでいなかった。特に自分のことなんかで言い争うのは、穴の開いたバケツで水を掬い続けるように無駄なことだとしか思わなかった。
「えっと、ほら……秋は昨日お兄さんに会ってたんだよね。どうだった?」
口にしたのは気を利かせたつもりの話題転換だったが、場の空気がより重くなっただけだった。秋は「……別に」とだけ返すと、あとは目を逸らしている。
残念なほどに対人能力が低すぎる。櫂は自分の短所を痛いほど自覚していた。
話を聞くだけならまだできていると思う時もある。でもこちらから話しかけたり、関係を深めたりするような会話が致命的に得意事でなかった。もちろん改善には努めているが、それに反して生まれ持った特殊能力のように毎度微妙な空気を作り上げてしまっている。それは現状に於いても変わらなかった。
「あーあ」
留可が溜息をついて、頬杖をついている。
隣にいる秋もまだ気まずい表情でいる。
しかしテーブルに置いた手を同時に両側から掴まれていた。
「ねー、ここなんかうるさい。どっか別の場所行こ」
「あ。それ俺が今言おうと思ってた」
「うるさい、真似しんぼ。あとから言っても遅い、のろま秋」
「留可、お前なー」
留可は立ち上がると握った手を引いた。促されるように櫂も席を立つが、その背後を苦笑する秋も続く。
穴は塞ぐことはできなくてもバケツの水漏れは少し収まったかもしれない。櫂は微かな安堵を感じつつ先を行く留可に続こうとするが、店内の賑やかさも遮られるような怒号が響き渡っていた。
「おい! お前、どこ見て歩いてんだよ!」
「す、すみません、僕……」
目を向けると、一人の男性が別の男性に怒鳴り声を上げている。
「クソっ、びしょ濡れじゃねーか、お前これ、どう責任取るんだよ!」
怒鳴る男性は一方的に相手を責めている。どうやら互いの肩がぶつかり、飲み物が男性の黒いライダージャケットに零れたらしい。怒鳴られる男性は恐縮して謝っているが、相手の怒りは収まることがない。次第に店内にいたライダージャケット側の仲間らしき男達も集まり始め、しばらくの小競り合いの後、彼は外に連れ出されていった。
「あのさ、別にほっとけばいーよ。この街じゃ、あんなの日常茶飯事」
成りゆきを追っていたのに気づいたのか、留可が言う。この街の雑多な事情はその言葉どおりでしかないと櫂は思うが、微かな罪悪感が残る。だがその罪悪感を行動に移さなければ、それはそのまま偽善になり変わるものでしかなかった。
「ほら、行こ」
留可に促されて外に出ると、夕暮れがより濃くなっていた。
三番地と四番地の狭間にある通りは路地が入り組み、迷路のようになっている。男達に小突かれながら、路地に消える男性の姿が目の端に映った。横顔しか窺えなかったが、少し頼りなげな感じの人だった。
「なー、留可」
「なーに? 秋」
「櫂とちょっとここで待ってろ」
「はーい、りょーかーい」
秋は言うとすぐに駆け出し、路地の奥に姿を消す。
何をしに行ったか櫂は訊ねようと思わなかった。止めるのが本当は正しいかもしれないが、真逆の思いがあることを思えば、偽善と嫌悪が掻き混ざるだけだった。
「櫂」
呼びかけに顔を上げれば、そこには『そうでない時』を思わせる留可の表情がある。櫂はこの時の彼女が好きだが、本当は少し怖れてもいる。
「櫂、あんたって人の心を惑わしてる」
「……」
「田倉のバカも、秋も、あんたの無意識のエロさにやられてる。多分それも無意識にね」
「私は……」
「でもさ、私にはそんなことどうでもいい。どう転んでも全部私の範疇外で起きていることでしかない。私はね、誰かが破滅するのを、どっかの高い所から見てる。それが私の唯一の楽しみだから」
しばらくして秋が路地から戻った。手と服には僅かだが血がついている。
何をしてきたかは分かっているが、自分には何も言えないと櫂は思った。
「……あの、どうも助けてくれてありがとう。僕……」
「あー、別にいいって。ちょうどいい食後の運動にもなったし」
秋の背後には先程の男性の姿があった。
歳は二十才ほど、白いシャツにグレーのズボン。その雰囲気からは社会人ではなく学生のように見えた。中肉中背で主だった特徴もない顔立ちだが、どこか心をざわつかせる気配も持っていた。
「僕、奈津川といいます……奈津川葉月っていいます」
男は不意に名乗るとにこりと笑う。それは人懐っこい優しい笑顔にも見えたが、自らの表情が酷く無感情になっていることに櫂は気がつかなかった。
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