3.櫂   その1ー②

「あ、あんた、何やってんのよ……」

 見上げた場所には田倉の表情がある。

 その瞳は潤み、頬は紅潮している。酷似する欲望が彼女にもあることを知るが、次の瞬間には激しく突き飛ばされていた。


「な、何するのよ! こ、この、へ、変態!」

 田倉の声が校舎裏に再び響いた。

 だが先程と異なり、その声には動揺と怯えだけがある。

 張り詰めた静寂は消え、この場は驚きと畏れが溢れる空間になり変わっていた。

 立ち上がった田倉が何かから逃れるように、もう一度突き飛ばしてくる。

 地面に倒れ込めば、彼女は続けて身体を蹴り飛ばしてきた。それには同様の怯えを感じたはずの倉科と三村も即座に乗じることになる。

 櫂に彼女達に抵抗するつもりはなかった。でもできるだけ痛みを感じないよう感覚を集中させ、頭を庇い、身を丸める。


 これは自分が悪い。彼女達は怯えただけだ。

 人のようで人でない、自分の存在が悪い。

 いてはいけない場所にいて、してはいけないことをしたからだ。

 自らへの嫌悪に唇を噛めば、残存する血の味を感じ取る。それに感情が揺らいだ自分を知れば、より固く目を閉じることしかできなかった。


「あー、悪い悪い悪い悪い」

「きゃっ」

 その二つの声が届いたのは同時だった。

 悲鳴を上げた田倉が目の前で転倒する。

 続けて倉科、三村も同じように地面に倒されていく。

「ねぇ、あんた達、なにやってんのー?」

 顔を上げると、そこには『そんな時』の留可の姿がある。まばたきもしない大きな瞳が泳ぐように動いて、その顔に見取れるような笑みを浮かべた。

「いじめ? それいじめかなー? だったらさぁ、私も仲間に入れてよー。でもこれってどんなルール? それじゃさー、私が決めていい? えーっとぉ、んじゃ蹴りで二点、殴って三点、殺したら満点ってことにしよっかー」

 櫂は地面の上で何もできずにいた。しかし自分にできることが何もないのも分かっていた。

 彼女の耳には、何も届かない。過去、戯れに野良猫をいたぶっていた少年達が口答えした後にどうなったか、櫂は見たことがある。


「えっとー、これで二点! 次は三点! 続けて三点、そしてまた三てーん! って、あれぇ? あんた達もしかしてやる気ないのー? これじゃしょーぶになんないよー、つまんなーい」

 三人の同級生は欠片も動けずに、無邪気とも言える暴力をただ受け続けている。彼女達は突如現れた二つの畏怖に続けて襲われ、今もそれに囚われ続けていた。

「留可、もうやめて! みんな死んじゃう!」

「え? なになに? だってそれでいいルールなんじゃないのー? 櫂、あんただってやられてたよー。やり返さなきゃ永遠に終わんないよー。だから、皆殺し皆殺し!」


 櫂は立ち上がって背後から抱きつくが、華奢な身体のどこにそんなものがあるかと思うほど力が強い。だが一瞬動きを止めた隙を突いて、田倉達は逃げ出していた。彼女達は悲鳴を上げながら、陽が陰る校舎裏から去っていった。

「あーあ、逃げられた。でも、ま、いっか。またあとでやれば」

「留可……」

 遠くなる背から目を離し、留可はピルケースを取り出すと、淡い青色の錠剤を掌にバラバラとあけ、まるで甘いお菓子のように口の中に放り込んでいる。

 櫂はそれが何であるか知っていた。きれいな青い色だが、実情は真逆であることも知っていた。彼女にとっていいものでないことも知っていたが、自分にやめさせる度量がないことも分かっていた。


「ねぇ留可。それ、そんなに一度に食べていいの……?」

「はぁー? なにー? 櫂、もしかして私にお説教かなー?」

「そんなんじゃ……」

「櫂、あんたも兄貴達と一緒だねー。冬人も秋もうるさい。櫂、あんたもうるさい」

 相手からは錠剤をがりがりと噛み潰す音が届く。

 田倉達と同様に留可に好かれていないことを櫂は知っていた。でも彼女の好意を感じたことがなくとも、櫂は留可が好きだった。今もそのやり方が褒められたものでないとしても、彼女は自分を助けてくれた。

 それに留可だけでなく、櫂は田倉達のことも嫌いではなかった。櫂にとって同級生達は皆、一様にまぶしく見える。元同級生である秋もそうだった。


「留可、私……」

「あのさー櫂、あんたさ、何か勘違いしてない? 私、あんたのことなんか全然気にしてないからー。さっきだって単にあいつらのことが好きじゃないから、暇潰しにぶん殴ってやっただけー。櫂、あんたってさぁー本っ当にバカなんだねー。だってあんたのことを尻軽だって噂流したの私だよー。そんなことにも気づかないなんて、あんたって本当に愚鈍なんだねー。知ってる? そういうのって愚鈍って言うんだよー、愚鈍ぐどーん」


 言い捨てると、ピンク髪の少女はくるりと背を向けて駆けていった。

 その姿が消えた校舎裏は一段と陽の光を翳らせるだけだった。

 櫂は力なく校舎の壁に寄りかかると、隙間から見える狭い空を見上げていた。

 どんな言い方をされても、自身の気持ちは変わることがなかった。隣の少女はいつも怯えて傷ついているように見える。彼女を猛獣のように思う人もいるが、一番後ろの席で身を縮めて震える姿が自分には本当の姿のように見える。

 愚鈍だと彼女は言う。もし彼女にこの思いをそう呼ばれたとしても、それはそれで構わなかった。

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