2.櫂 その1ー①
寒くもなく暑くもなく過ごしやすいが、失っていく何かを追いかけるような初秋の雰囲気が好きだった。
午前の最後の授業中、櫂は窓際の最後尾の席から随分高くなった空を眺めていた。
どこまでも続く空を見ていると、兄は今頃どうしているだろうと過ぎる。
昨晩は遅くに帰宅したと思ったら、またすぐに出かけてしまった。戻った気配を感じた頃には日付を越えていた。朝食の時もまだ顔に疲れが残っている感じだった。
兄の仕事が不規則なものであることは理解している。理解しているからこそ、もっと心配かけずに自立できたらと思っている。けれどそう思っても、何より自分自身に自信と確信が持てなかった。
「う……」
その呻きは隣の席から届いた。
そこにはピンクの髪をした同級生が座っている。彼女は机に頬をつけて、両腕をぶらりと垂らした状態で苦悶の表情を浮かべている。相手のためにできることを考えてみるが、自分がやれることといえば声をかけることぐらいだった。
「留可、大丈夫……?」
呼びかけに彼女、霧原留可が反応を見せる。
人形のように整った顔は苦痛で歪み、それには心がざわつく不安を覚える。
余計なことはするなと叱責されたことを思い出すが、櫂は周囲を窺うと隣にある手を握り取った。柔らかな掌は汗でじっとりし、酷く冷たい。自分の手もいつも冷たいが、それよりも冷たかった。
「櫂……」
微かに呟く留可の息は荒く、何かに耐えているのが分かる。
前学期出席日数ぎりぎりだった彼女は今期もそれを突き通していた。今日も久しぶりの登校だったが、午前中はほとんど居眠りに費やされていた。それでも休み時間に「お腹空いた……」と呟いていたから、目はもう覚めたのかもしれない。しかし今度は長時間同じ場所に座っていられない彼女の中で限界が来たようだった。
「留可、大丈夫だよ、あと五分で授業は終わるし、嫌じゃなかったらずっと手も握ってる」
「……櫂」
「何? 留可」
「……あんた、何勝手なことしてんの……? 私に関わるなって前に言ったろ。あんたってほんとむかつく……」
彼女がドラッグに依存していることを櫂は知っていた。
『そんな時』と『そうでない時』の彼女は別人のように見える。
『そんな時』の彼女は、直情的な小さな子供のように映る。『そうでない時』は、『そんな時』以上に直情的で攻撃的で口が悪かった。でも櫂は本来の姿にも見える今の『そうでない時』の彼女の方が好きだった。
むかつくと言いながらも彼女はそれ以上拒絶せず、繋いだ手には次第に体温が取り戻されてくる。黒いマニキュアが塗られた彼女の左手が、ぎゅっと握り返してくる。
しかし終業のベルが鳴り響くと、まるで不要物のようにその手は振り払われてしまった。
******
「あのさ雨宮。どうしてここに呼び出されたか、あんた分かってる?」
その日の昼休み、櫂は校舎裏に立っていた。
目の前には同じクラスの田倉
ここにいるのは彼女達に呼び出されたからだが、そう問われてもどう答えればいいか分からずに、櫂はただ困惑していた。
彼女達に好かれていないのは知っていた。軽い嫌がらせをされているのにも気づいていたが、それは学校生活に支障があるものでも、自分の中で酷く心を痛めるものでもなかった。もちろん多少の悩みに繋がるものではあったが原因は自分にあるかもしれず、それを解消するために日々努力するようには務めていた。
「あんたさ、亜依の彼氏に色目使ったよね?」
「え?」
詰め寄った田倉が言い放った。けれど意味が分からず、櫂はより困惑するしかなかった。三村に彼氏がいたことも知らなかったし、それが誰かも分からないし、それ以前に誰かをそんな目で見たこともなかった。再び惑っていると、機嫌を損ねた田倉に肩を押されていた。
「あんたさ、何知らない振りしてるの? 本当に図々しい」
彼女の嫌悪に満ちた声が響いた。
その言い分に答えようもないが、もしかしたら気づかない間にそんな素振りをしていたのかもしれない。時折記憶が曖昧になる自分が何もしてないとは、今もこの先も言い切れなかった。
「亜依が可哀想でしょ? 本当に酷い女!」
相手の表情は怒りに満ち、声も大きくなっていた。
櫂はふと、認めれば状況が変わるかもしれないと過ぎらせるが、だとしてもその先をどう振る舞えばいいか分からなかった。きっと黙っていれば現状は益々悪くなるばかりだ。こんな時兄や秋や留可なら、すぐ対応できるのだろう。そう思えばいつも戸惑ってばかりの自分が本当に嫌だった。
もう一度窺い見た田倉の表情には嫌悪と怒りがある。彼女の思いを想像すれば、友達のために
「えっと、ごめんなさい」
「何? 今もしかして謝ったの? 謝ったってことは認めるってこと? 二組の
言いながら田倉が再度詰め寄る。同時に疑惑の相手を知れたが、やはりどんな人か分からなかった。
「はぁ……やっぱりそうなんだ。前々からあちこちに手を出す尻軽な女だって噂は聞いてたけど、本当だったんだね……ねぇ雨宮、あんたは軽い気持ちだったかもしれないけど亜依のこと、結局は傷つけたんだよ? そのことは一体あんたどうやって責任取るつもり? ねぇ!」
より強く肩を押され、櫂はよろける。
不正解という文字が過ぎるが、謝ることで収まるならこれはこれでいいようにも感じた。そうやって事実を有耶無耶にすることがこの先の悪循環に繋がっていくようにも感じたが、事態を収拾する他のやり方を思いつくことができなかった。
「ねぇ! いつまでも黙ってないで、ちょっとは何か言いなさいよ!」
再度肩を押した田倉が、続けて業を煮やしたように頭を叩いてくる。すると倉科と三村も倣って、背や腕を叩いてきた。それを皮切りに彼女達の乱暴が始まった。
結果としてこんな結末になってしまったが、なってしまったのだから仕方がない。でもこんな状態も少しの間耐えればいいと思えば、それほどつらいこととは思わなかった。
「前から気に入らなかったのよね。ちょっと可愛いと思ってさ、いい気になってるのよ」
そんなつもりはなかったが、相手がどう感じるかをコントロールできる訳でない。だからこそ人間関係は自分にとって困難であると櫂は心で憂うが、それを今嘆いても仕方がなかった。
校舎裏で繰り広げられる乱暴は続いたが彼女達も暴力に慣れておらず、しばらくして叩くのにも飽きたのか田倉が髪を引っ張ってきた。それには少し驚いて、つい手を振り払ってしまう。けれども力が強すぎたのか相手がバランスを崩して、地面に尻餅をつくことになった。
「痛った……」
「ご、ごめんなさい!」
櫂は急いで駆け寄ると、謝罪を口にした。避けようとしただけで傷つけるつもりは毛頭なかった。座り込む田倉は転倒時に擦り剥いた掌を気にしている。櫂はハンカチを取り出して傷口を押さえようとするが、それよりも早く自身の視界を酷く動じさせるものがあった。
滲む相手の血の色が目の前で弾け飛んでいた。
欲しい欲しいと、あの時の欲望が急速に頭を駆け巡っている。
他の思考は消え、血を求める以外の全てがどうでもよくなろうとしている。
激しく身を襲うこんな衝動は初めてだった。
残り少ない理性でどうにか場を取り繕うとするが、兄から与えられる血の味が喉奥で蘇る。縋り寄る理性の残り火も抵抗少なく、彼方へと消えていった。
「な、何……?」
こちらの異様な気配に気づいた相手の震え声が届いたが、やめようと思わなかった。
欲望から逃げられず、櫂は伸ばした手で相手の腕を握り取った。
顔を近づければ、頭上からごくりと唾を嚥下する音が響いた。
それには一段と感情が昂ぶり、櫂は掌に滲む血を舌で掬い取る。
ざらりとした砂の感触と鉄錆びた味が喉奥に到達し、全てを満たす甘美なその味覚には気が遠くなる。しかしそんな許されざる快楽が続くことなどあるはずもなかった。
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