8.秋   その3

 それが始まったのはいつからだったか、思い返せば三才か四才の頃だったかもしれない。

 気づくと異様に闇に怯える子供だった。

 至る所に存在し、明かりを灯しても必ずどこかに在り続ける闇が怖くて仕方がなかった。


 記憶を掘り返しても、そのきっかけに思い当たるものはない。

 ふと発症した病のように、それはある日突然自分の身に迫るものになった。

 しかし子供が闇に怯えること自体は至極当然のものとしてあるはずだから、周囲の者はただなだめるだけだった。

 無論一時いっときはそれでやり過ごせた。それに人は成長するもので、自分もいつまでも子供ではなかった。徐々にその傾向は薄らいでいくことになったが安堵の期間は僅かでしかなく、ある程度年齢を重ねると、今度はその闇に何かがいると感じ始めるようになった。

 それは自分にしか分からず姿も形も無いものでしかなかったが、間違いなくいつも傍に佇んでいた。自らでも理解し難いそれの対処は困難を極めた。だが努力しなければ、日々を生きていくことすら可能でなくなる。平然と毎日を送るために最終的に自らに打ち出した策は、原始的であり普遍的なものだった。


 そこにあるものだとしても見ないようにすれば、存在しないのと同じ。

 変わらぬ日々はそう思い込むことと、より年齢を重ねることで改善の兆しを見せていった。

 中学生になった頃には一日の大半を何事もなくやり過ごせるようになっていた。もっと安易なやり方として、ドラッグに頼ることは最初からしなかった。頼れば事態が悪化することは目に見えていた。自らを喪失させて無為に浸るのは簡単だが、自らを手放してしまえば闇からも無防備になる。気を抜けばいつでもそれが傍に擦り寄ってくるのは分かっていた。自制を常に求められる毎日が続いたが、異常も継続すれば正常になるのと同じだった。日々の中にそれはいつの間にか組み込まれていた。


 しかし、あの日は全てが噛み合っていなかった。

 、本当に何もかもが噛み合っていなかった。

 何気なく見た部屋の隅で、何かが蠢いていた。

 それは次第に大きさを増しながら、蠕動していた。

 一度目にしたそれを無かったことにするには、既に遅すぎていた。

 それでもそこには何もないと唱えながら目を逸らし、時間と共にそれが消滅していくことを望んだ。

 だがいつもより時の流れが虫が這うように感じられ、舐めるような気配が擦り寄ることにも、いつもより耐えられなかった。


 絶対振り返りたくない。

 暗がりの中で怯えだけが膨張し、見ないことに対する強迫観念が増していく。

 怖い怖い怖い。

 繰り返す言葉が自分が発したものなのか、鼓膜に谺する幻かも分からなくなっていた。

 そこにあるものを考えれば考えるほど、息が上がり、呼吸ができなくなる。

 体温が上昇し、脳味噌までもが茹で上がりそうになる。

 ついには部屋から逃げ出そうとしたが、駆け出した足がもつれて何もない場所で無様に転んだ。


 恐らくすぐに起き上がれるはずだった。

 しかしまるで呪縛にかかったように脚を動かせない。

 怖い怖い怖い怖い怖い。

 耳を塞いでも言葉が意味不明の呪文のように継続され、縮ませた身体が泥水に浸かった繭のようなものにずぶずぶと沈んでいく。

 欠片も動けず、生温かすぎる感触に肌がどこまでも粟立った。

 その時、左目に耐え難い熱さを感じた。

 頂点に達した怯えは何かがその左目に侵入したのだと感じさせ、思わせることしかしなかった。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 震える指は体内に入り込み、難なく左の瞳を抉る。

 垂れる血が床を染めていく。

 血溜まりに眼球がぽとりと落ち、閃光が部屋中を包んだ気がした。

 その目を眩ます光の後に、闇はもう無い。

 でも耳には絶叫が響く。

 耐え難い痛みに呻きながら、残った瞳で血溜まりの眼球と目が合った時、「ああそうなんだ」と思った。





「痛ぇ……」

 気づけば、床に大の字で寝ている。

 冷たい感触に顔を顰めれば、髪や背は酒瓶から零れた液体で濡れそぼっている。絶望にも似た不快さに舌打ちして、秋は散らかった床の上で身を起こした。

 痛みを放つ額に手をやれば、乾いた血がついている。

 見上げたベランダの窓ガラスにも血がついている。

 錯乱してガラスに衝突したのは理解したが、どうやら傷は大したものではない。ベランダに飛び出して落下しなかったことには感謝すればいいのか、がっかりすればいいのか。でもとりあえず十三階から落ちて潰れた死骸を思い起こせば、感謝が正解だろうと秋は思うことにした。


 部屋を見回せば、泥棒が荒らしたように乱れている。

 大半は留可の仕業だが、大方は自分も荷担している。起き上がり、キッチンから持ち出したゴミ袋を手に、目につくものから手当たり次第にぶち込んでいく作業に勤しむことにする。

 あの日のことを思い出したのは久しぶりだった。久しぶりであるが、昔の友人に再会したような懐かしさなど皆無だった。しかし昔の友人も今の友人も自分にはいないので、その感覚はよく分からないと言えばよく分からないものとも言えた。


 部屋中に転がる空き缶やゴミを拾い上げていると、床上に散らばる淡い青色の錠剤があることに気づく。

 思い出したのはこれのせいだった。

 錠剤の名はプラシーボ。

 ふざけた名のこのドラッグは、今街に多く出回っている。初めて使ったのは目を抉ってからだが、常習はしていない。確かに一時の安らぎは得られるが、毎度悪夢の再現つきなのは本当にいただけない。その理由もあってか入れ込むことはなかったが、妹の留可はキャンディのようにこれをいつも制服のスカートに忍ばせている。昨晩のように気の迷いで手を出す事例はあっても、身体の芯までずぶずぶに填る彼女のようになることは恐らくこれからもないはずだった。


 実りもなく功績も残らず、誰からも褒められることもない作業を続けていると、どうにか部屋は人間の住処の有様を取り戻していた。結果的に悪酔いはしたが前回のように小便を漏らさなかっただけマシだったと、秋は思い返す。漏らしていたら間違いなく、「汚い汚い汚い」を連呼する留可にキレられる。

 窓を開けたついでに、ベランダに出て明かりが明滅する街を見下ろす。

 片方で見る景色は両目で見ていた時より、美しく見える気がする。滅入る気分もこの街のどこかに櫂がいると思えば、晴れていく気もする。


 しかし突然足元がぐらりとふらつく。

 それを咄嗟に支えようとして柵を掴むが、身体はより重心を失っていくだけだった。

 全てを嘲笑うように根本から腐食した柵は闇へと落下し、寄る辺ない身体も同じ闇に落ちていく。

 その恐怖に滞りない叫びを上げそうになった時、頑丈な柵に寄りかかって座り込む自分に気づく。

「クソ……」

 ドラッグは嫌いだ。

 現実と幻覚の間を狭めるそれは、自分にとって自殺行為でしかない。

 だがジーンズのポケットを手探れば、まだいくつかの錠剤が転がり出る。偽薬でもないそれらをベランダの床に放り出し、秋は唾を吐きかけた。

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