9.九条坂 その4ー①
見上げたビルは自分を見下ろし、嘲笑っているようにも見える。
時刻は十九時を回ろうとしていたが久吾はその場に立ち、藤花重工業の本社ビルを見上げていた。
藤堂得蘭が最高経営責任者を務める藤花重工業は、輸出用戦闘機の製造を主とし、他にも旅客機や列車、高級自動車の製造、富裕層向けの百貨店の運営や高層住宅の施工を行っている。それに加え最近では、都市でも生育可能な生鮮野菜や養蜂の研究にまで手を広げていた。
藤花の名は国の至る所に散見できるが、見上げるビルには本社機能のみがある。周囲には大企業の本社社屋が同じく建ち並ぶが、ここが頭一つも二つも抜きん出ているのは間違いない。今から会おうとするあの男がこの国のトップとも渡り合える権力を持っているのは、確かな事実だった。
「気が進まない」
久吾は呟くが、それで現実が変わる訳ではなかった。しかし自らの事情を思えば感情も澱む。
父の理は藤堂に多額の債務を残したまま世を去った。血の繋がりがあろうと子に借金を返す義務はないが、父が借りた金銭はそんな道理と外れた場所にあるものだった。自分の死後も続くと思われる金額を思う度に気が滅入り、望んだ訳でもないあの男との関係には溜息以上のものしか出ない。その関係はすぐにでも断ち切りたいものでもあったが、そうできない理由も存在していた。
父の古い知人であった藤堂は常にそれを匂わし、巧みにこちらを思いどおりに動くよう誘導している。彼が窺わせるものに疑義はあり続けるが、底知れないものを感じさせるあの男が隠し持つ何かの可能性を、全て消し去ることはできなかった。
美怜が姿を消して十三年。彼女の行方は今も知れなかった。だがもし藤堂が知るその何かが行方に繋がるとしたなら、それが彼女に辿り着く唯一の道になるかもしれない。美怜との再会が叶えば、櫂にまつわる不安事の解決法を得られる道筋もできる。代わりに何かを犠牲にしても、それはいつか必ずこの手にしたいものだった。
「きゅーごー」
その声は突然届いた。
振り返れば、道路の向こうに鮮やかなピンクの髪をした少女の姿がある。
彼女はこちらに向けて大きく手を振ると、信号が青に変わると同時に駆け出していた。
「嘘だろ……」
久吾は今になってこの場に留まり続けた自らの行動を後悔した。
あの厄災は避けようにも方法がない。たとえ建物に逃げ込んでも、そこがどこであろうと彼女は追ってくる。それを咎められても彼女は咎められる理由さえ理解できない。
擦れ違う通行人を躱しながら駆ける少女の姿が迫る。彼女は最後に地面を蹴ると、相手が避けることなどまるで想定しない勢いで抱きついてきた。
「久吾、好き! 好き好き好き好き! 会いたかった!」
「……留可」
名を呟くと、大きな瞳が泳ぐように動く。そこには人形のように整った顔がある。人によっては歓喜できる場面かもしれないが、久吾はただ戦慄を感じただけだった。
「ねぇ久吾、こんな所で何してるの? これから何をしようとしてるの? これから私とどこに行くの?」
「……留可、俺は今から仕事だ……」
「えー、しごとぉー?」
「そうだ、だからお前と遊んでる暇はない」
「えー、何それそんなの絶っ対やだやだやだやだやだ! 私、絶対久吾と一緒にいる!」
留可は抱きついたまま子供のように駄々をこねるが、多分本物の子供の方がきっと物分かりがいい。
「おい、何やってんだよ、留可」
その上状況はより悪化の一途を辿ろうとしていた。
顔を上げれば、彼女を追ってきたのか表情に不機嫌さを顕す大柄な少年の姿がある。
「なぁ留可、一体誰だよ、それ」
「あんたこそ一体誰よ? 全然知らない人、どっか行け」
「はぁ? なんだそれ? 今夜はお前が遊びに行きたいって言うから、オレは他を断ってまで予定を空けたんだぜ。今更なんだよ、その言い草」
「あんた臭い。変な臭いがする。特に腋とか股間。だから嫌。分かった?」
「はぁっ? ふざけんなよ!」
「ほんとーのことを言っただけだよ。早く消えろ、馬鹿ゴリラ」
「あのなぁ! こっちこそ今のでマジギレだ! 金持ってるし可愛いから付き合ってやってたけど、お前なんか見た目だけが取り柄のクソ女だからな! 顔も金もなけりゃ猿だって付き合わねーよ、このバカキ×ガイ女!」
その瞬間、舗道を風のようなものが駆け抜けた。
ヒールの高い革ブーツが地面を蹴り、しなやかな身体が宙を舞うように伸び上がる。
「うげっ!」
漂う殺意が夜の舗道を覆い、対峙する
顎を砕く勢いで振り下ろされた少女の拳は確実にその場所を捉え、確実な破壊力を発揮している。相手をただ攻撃するという純粋な衝動が彼女を動かし、精緻な動作を実行させている。
呻いて地面に倒れた少年は、今の一撃のみで戦意を喪失していた。痛みに呻くだけで、反撃もしなければ起き上がろうともしなかった。
「邪魔な奴は片づけたよ。だからどっか行こ、久吾」
無邪気に笑む相手を前に、久吾は心の中で唸るしかなかった。
突然現れた厄災は確実に迫り、確実に逃れられなくなっている。しかしこのまま相手に付き添う訳にはいかなかった。
「留可、今日は駄目だ」
「えー、なんでー?」
「さっきも言ったろ? これから仕事だ」
「えー、仕事なんてどーでもいいよー」
「お前の方はそれでいいかもしれないが、俺はそうはいかない。だけど留可、今日は無理だが明日ならいい。だから明日の同じ時間にこの場所で待ってろ」
「えっ、それほんとに?」
無論嘘だった。
だが本能だけで毎日を生きる留可が明日まで約束を覚えていられるか、多分無理だった。それに万が一覚えていても、明日自分がここに寄りつかなければいい、それだけの話だった。
「やったー、それじゃ今日は仕方ないから、こいつと遊びに行くね。ほら、立てよ」
子供のように嫌々をする少年を無理矢理引き摺って、少女は去っていく。
その姿が視界から消えれば、嵐のような厄災の種も同時に消え去る。
腕時計を見ると、十九時半を回っていた。
今夜の重責はまだ残っているというのに随分と疲れてしまった。
久吾は自らを見下ろすビルを再度見上げると、深く長い溜息をついた。
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