6.秋 その1
ギザギザギザギザしたものが心と身体のどっかに引っかかって、常に平静でいられないでいる。
世の他人もこんな感じで、これが通常じゃないかと思ったことも過去にはあったが、かなりの確率でそうじゃないんだろうという結論に現在は至っている。
見上げればまばゆい光と澄み渡る空が右の瞳に映るが、眼帯で覆われた左の眼窩はこの先何も映し出すことはない。
あー、そうだな、とりあえずビビっとけ。
眼帯をおざなりに外して順に目を向ければ、相手の顔には期待を損ねない表情が浮かび上がる。顔貌が優れているという自意識過剰でない客観的視点はあっても、片方の瞳のない姿はどう足掻いても異質に映る。それに重ねて失くした理由が自分で抉ったと知れば、「関わらない方がいい」か「今のうちに潰しておくべきだろう」の二つが自然発生的に突きつけられる。
あー、そう。そっち選ぶ?
だが相手がどちらを選ぼうと別に構わない。
去る者は追わず、迫り来るものは迎撃する。
駆逐、撃破、壊滅。
お気に入りの言葉を並べて笑みを浮かべれば、ドラッグもやってないのにどうにもハイでローな気分になる。
人の身体は脆い。
思いがけないことで死に至る。
普段死を意識していても自分が本当に死んでしまうとは、簡単に受け入れられない。もしその死が突然に訪れたものなら尚更そうであるはずだが、それがあまりにも急だったとしたなら、それは本当に享受できる範囲のものなのだろうか……?
でも、まー、今はそんなこと、どーでもいいか。
とりあえずはここにいる「今のうちに潰しておくべきだろう」を選んだこいつらが、地に這い蹲る姿を見たい。
対峙する少年達を見据えると、霧原秋はその顔にもう一度異形の笑みを浮かべた。
「……秋」
その呼びかけに目を開ければ、白い顔が自分を見下ろしている。
公園の芝生でひと休みと思っている間に眠ってしまったようだ。
初秋の風は心地よかったはずだが、夕方だというのにまた陽射しが強くなっている。皮膚が灼けるじりじりした感触と季節外れの寝汗に出迎えられて、霧原秋は目を覚ました。
「……はい、よかったらこれ使って」
その言葉と共に薄いグリーンのハンカチが差し出される。香が仄かに香るそれを断る理由は今日も微塵もある訳がなく、秋は差し出されたハンカチを笑顔で受け取った。
「なぁ櫂」
「何? 秋」
目を向けた先には彼女の姿がある。
雨宮櫂。透けるような肌は今日も白い。その薄桃色の唇にはいつもよからぬ想像を掻き立ててしまうが、今はそれを心の端に蹴飛ばして、とりあえず毎度の言葉を向けた。
「今日もきれいだ」
そう告げると相手は戸惑って下を向く。
彼女がきれいとか美人とか言われて、無邪気に喜ぶ簡単な相手でないことは分かっている。それなのに毎度この言葉を繰り返してしまうのは、もしかしたら困惑するその姿を見たいからかもしれなかった。今日も開口一番の台詞がそれとは我ながらアホみたいだと自覚していたが、今日も変わらずアホみたいに繰り返していた。
「櫂、その膝、どうしたんだ?」
しかしふと、彼女の膝にある擦り傷に気づく。一応手当はしてあるが、絆創膏からはみ出た傷がまだ痛々しい。そこに滲む血と白い肌とのコントラストがまたよからぬ欲望を掻き立てようと先走るが、そのことは再度心の端に蹴り飛ばしておいた。
「えっと、これ? これはあの……今日ちょっと廊下で転んじゃって……」
櫂は答えるが、その辿々しさがなくとも彼女が異常に嘘が下手なのは既に知っている。
二ヶ月前まで秋は櫂の同級生だった。
春に入学した高校で同じクラスになった櫂に、秋は一目惚れをした。それからの数ヶ月間は学校に行けば櫂に会えるという、至極単純な行動の延長線上にある貴重な幸せを得られた貴重な日々だった。だが毎日定刻に登校しなくてはならないという自らにとっての不条理と、中学から変わらずにいた素行の悪さがその日々を継続させなかった。夏休みを待たずに退学することになったが、幸運なことに櫂との関係は継続していた。
「また
もう一度訊ねるが、櫂は俯いて無言しか返さない。
同級生だった頃から田倉という女子を中心とした数人が、櫂に陰湿なちょっかいを繰り返していた。それが少し肩をぶつけるとか、バケツの水を零してかけるとか、いじめと不注意の境界線的やり方でやってくるところが余計にいやらしかった。でもそれに関しては高校生になってもくだらない遊戯に勤しみ続けるバカ女という感想しか実際にはなく、櫂が抗議もせずにじっと耐えているのも、同意見であるからだと秋は思っていた。
「……こんなの大した傷じゃないよ。それより秋の方が怪我してる」
櫂の視線はこちらの手元にある。
見れば皮膚が剥けた拳が目に入るが、それ以外に左の中指が青紫に変色していた。先程駆逐相手の一人に不意を突かれ、噛みつかれていた。指を食い千切る勢いの相手には拳を二度叩き込んで、歯を折ってやった。今でも黄ばんだ歯列と黒ずんだ歯茎を思い出すことはできるが、その顔がどんなだったかはもう全く思い出せなかった。
「手当て、と言っても絆創膏しかないけど……」
絆創膏を取り出した櫂が申し訳なさそうに呟くが、彼女の申し出を断る輩はバカかアホかそのどっちもだと、秋は嬉々として手を差し出す。
「痛かったら言って、秋」
櫂の白い指が触れる度に幸せとはこういうものじゃないかと、秋は実感する。両手はみるみると絆創膏だらけの不格好なものになっていったが、そんなことはどうでもよかった。
しかしその至福の時間は瞬く間に終わりを迎えていた。
ポケットの中で携帯電話の音が鳴り響いている。
三回だけ鳴って切れたが画面を見て、「クソ」と言葉が漏れた。そこには兄の名が浮かんでいる。
この文明の利器は果たして本当に人の生活に必要か? そう思う。この矮小でちっぽけな機械は、人類の持ち得る機微を侵食するように奪っているのではないだろうか……?
「あー、ホントマジ、なんなんだよこれ?」
だが呟いても現実は何も変わらない。
せっかく学校終わりに来てくれた櫂と、これからいちゃいちゃする予定だったのに台無しだ。実際はいちゃいちゃの実像などまるで皆無なのだが、もしかしたらこれからも続くかもしれない長い人生に於ける悦楽の一片であるのは確かだった。
けれども既に四度目になる呼び出しを更に無視すれば、滞りない面倒事が起こるのは容易に想像できた。こちらを優先する自分をぶん殴りたい気分であるが、人生思いどおりにならないことは多々の方が大部分を占めている。そのことも分かっていた。
「悪い、櫂。兄貴から呼び出し食らった。でも家まで送ってく」
「ううんいいよ、まだ明るいし。お兄さんが待ってるなら早く行って」
櫂は先に立ち上がると、スカートについた草を払っている。
他愛ないその仕草すら涙が出るほど愛おしく見える。そのまま草の上に押し倒してその肌を舐め回したくもなるが、本当はそんな想像すらいけないことのように感じている。当然ながら先程のように絆創膏を貼ってくれる機会でもなければ、手を握ったことも、もちろんキスしたこともない。
「じゃ明日また」
三度目の煩悩を追い払い、秋は手を振ってその場を後にした。
一度振り返ると、立ち止まって櫂も手を振っている。やはりこういうものが幸せだと再び過ぎると、なぜか急に噛まれた傷が疼き出したが、公園を出て家までの道のりを歩き始めると、櫂の笑顔しか思い出せなくなった。
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