5.九条坂 その3
血だ。
床一面に広がるそれを目にして、思考停止になるのはいつものことだった。
自分がいるのは何の変哲もない見知らぬ部屋。
どこかのモーテルの一室なのか、壁にかかった絵は傾き、鏡台の鏡はひび割れ、ソファやテーブルなどの家具は滅茶苦茶に押し倒されている。
耳に届くのは誰かの怒号。何を言っているかは、ごぼごぼと水の中で響いているようで聞き取れない。
見下ろした自分の掌は血に塗れている。
うねうねと蠢く質量を持ったそれには、どうしようもなく嫌悪感を掻き立てられる。
掌から滑り落ちた血の塊が足元で身を捩った。
見下ろしたそれが、あえかな泣き声を上げる。
見開いた網膜へ深く刻まれようとするそれは、血に濡れた赤ん坊の姿をしていた。
「あのさ、いきなり来たと思ったらすぐに店を閉めろって、私と付き合ってるこの男って一体なんなの?」
瞼を開けると、ベッドサイドの仄暗い明かりが目に入る。
まとわりつくじっとりした汗に気づいて、久吾はまたあの夢を見たのだろうと思った。
数ヶ月前から見るようになったそれは目覚めてしまえば、輪郭の多くが失われているものだった。残るのは鉄錆びた臭いと不快さ。微かな気配を残すそれが何かを暗示するものなのか、単なる悪夢なのか、分からない。それについて考えること自体が戯言とも言えるが、身の底に潜むその痕跡は誰かの記憶が混濁したようにいつも残存していた。
開けた窓からは、夜の気配が流れ込んでいた。
初秋だろうがいつだろうが、四番地区の空気は常に湿っていると久吾は思う。
小さな蛾がベッドに横たわる自分の目の前を飛んでいく。相手が燻らす紫煙も、入り込んだ風に紛れて流れていった。
「ねぇ、聞いてるの? 久吾」
届く声には苛立ちが混ざり始めている。聞き流すつもりでいたが、いい加減何かを言わないと後が怖い段階に来ていた。久吾は軽く目を閉じると、背後の蔓橋ケイラに声を向けた。
「別に構わなかっただろ? どうせ店には井出の爺さんしかいなかった」
「あのねぇ、だからこそでしょ? 井出のお爺さんはたまに来て、私の手を握ってお酒を飲むのが一番の楽しみなんだから」
「そっか、そりゃ悪かったな。でもそれならいっそのこと、慈悲深いお前はあの爺様にそれ以上のこともしてやれよ。残り少ない人生を悦びで満たしてやれば、早々に極楽浄土に行けるかもしれないしな」
「何それ、ひどくない?」
「ひどい? 今更」
「あのねぇ久吾、今私が言ったひどいっていうのは、私が思ってた以上にあんたがひどい男だってことよ!」
その言葉と同時に褐色の脚がシーツの上を滑る。
数分前まで自分に絡みついていた脚が、ためらいもせずに背や腰を蹴りつけてくる。段々と勢いを増すだけのそれは無論止む気配もなかった。
「やめろケイラ、殺す気か」
「はぁ? 殺す? このくらいじゃあなたは死なないでしょーよ。昔から言うでしょ? 悪い奴ほど、地を這うように長生きするものよ!」
「やめろって!」
どう言っても攻撃が止む気配はなく、耐え切れずベッドを下りる。
夕方に甘い声で電話してきたのに、自分の用が済めばもうこれだ。相棒に告げた揶揄でも何でもなく、そのうち本当に交尾後の雄蜘蛛のように始末されるのではないかと久吾は思う。
「あー、そうやってまた逃げるつもりー?」
声が追ってきたが、無視してバスルームに向かう。行かないと言っておきながら突然やって来た自分も悪いと自覚はあるが、それに関しては男の特権を最大限に使って棚に上げておくことにする。
バスルームに入り、錆びた蛇口を捻る。降り落ちる水の冷たさに一瞬身が縮むが、まだ熱を燻らせる身体には心地よかった。
「そうだ久吾ー、今夜は燃料供給が停止してるの。お湯、出ないからー」
ケイラの声がバスルームにまで届く。湯がなかなか出ないのは毎度のことだが、どれだけ経っても温まらないのはそういうことかと、久吾は冷水のみが降り注ぐ頭上を見上げる。
この街は未だにエネルギー供給のバランスが悪い。割を食うのは大抵数の大きな地区の住人達だが、彼らはそんな生活にとっくに慣れ切っている。改善しない現実に不平を言い続けるより、日々の適応能力を高くする方がよりよく暮らせる。そのことを彼らは熟知し、実行し続けていた。
「ああ、ちょっと待って。今戻ってきた」
髪を拭いながら部屋に戻ると、ベッドにいるケイラが携帯電話を差し出してくる。
「それ、俺の携帯……」
「電話、クソ野郎って人から」
苦言を零そうとするが、その言葉で無言になる。
電話を受け取れば、『クソ野郎か』と低い声が届く。怒っている訳でも批難している訳でも、無論笑う訳でもない声を聞くと、僅かな溜飲を下げるために子供じみた登録名になどしなければよかったと過ぎる。
「こんな時間に何用だ?」
『今出たのは恋人か』
「恋人? いいや違う、ただの友人」
質問に答えると、含み笑いが届く。私的部分を欠片でも見せたくない相手に微かでも匂わせてしまったことには、心内で舌打ちしか出なかった。
『今日、十九時に私のオフィスに』
「支払いの呼び出しか? 先月分ならもう……」
『それとは別件だ、時間には遅れるな』
告げると通話は切れる。クソ野郎からの電話はいつだろうとどんなものであろうと、重い気分を呼ぶことしかしない。
溜息もなくベッドに腰を下ろすと、肩にするりと腕が回された。まだ熱を持った相手の肌が水風呂で冷えた背に重なった。
「ねぇ、今のクソ野郎って
顔を傾ければ、すぐ傍にケイラの横顔がある。
場末の飲み屋の若き店主と大企業の最高経営責任者。二人が知己であるとは思えなかったが、全否定もできなかった。
「なぜ分かった? 声を聞いただけだろ。あいつが名乗る訳もない」
「あの人、昔働いてた店の客」
「昔? お前十八の時から今の店をやってるだろ? 一体幾つの時の話だ」
「んー、十一か十二くらいの時かな……あのさ、久吾知らないの? 藤堂得蘭は年端もいかないコドモが大好物なサディストだよ。あっちの業界の人なら暗黙の了解でみんな知ってる。本人も別に隠してないしね」
久吾は苦虫を噛み潰したようという言葉を体現した。
十六の時から知る男だが、好感度は元々ゼロだ。それに重ねるように、唾を吐きかけたくなるようなおぞましい性癖を持っていることなど知りたくなかった。人を顎で使う男の裏の顔を垣間見れば、多分腹立たしさしか残らなかった。
「あれ? 久吾。シャワー浴びたのにまた横になるの?」
「ああ悪い。少し、眠らせてくれ」
呟いてベッドに戻ると、隣にケイラも寄り添う。
彼女のアパートの部屋は広いが、家具はベッドの他に小さなクローゼットがあるだけだ。
熱帯地域の果物のような香りが彼女からはいつもする。
彼女の生い立ちは寝物語で聞いたことはあるが、その片鱗を示す今の話を耳にしても、言葉を思いつくことができなかった。南米出身のケイラの母親は彼女が四才の時に帰郷してしまった。ろくでなしの父親と残された彼女の幸薄い少女時代は、粗方想像できている。しかしそれへと向ける言葉も今もこれからも見つけられなかった。
眠らせてくれと言ったが目を閉じることができずに汚れた天井を見ていると、隣から手が伸び、右目を覆う。手の温かさは心地よいが、目を開けていても視界を奪われる不安定さが、軽い畏怖を呼ぶ。
「やめろ、何も見えなくなる」
右目を覆われたまま、久吾は返した。
覆われてもいない左目が何かを映し出すことはほとんどなかった。上手く誤魔化して警察官試験には合格したが、今でもバレればあまりよくない現状がある。普段は眼鏡で矯正して正常な右目でやり過ごしているが、その危うさは常に自覚していた。
「こうすると怖い?」
「怖い?」
向けられた問いには鼻で嗤って返す。だがそう繕っても、彼女が本意を知っていることを久吾は分かっていた。ケイラは自身をある程度知る数少ない相手だった。心を許していると言えるか分からなかったが、それに近いとも言える。
十五で見知らぬ街に取り残されたことや、櫂という母親違いの妹のこと、酩酊した酒の席で妹の素性を匂わせてしまった時には後悔が走ったが、彼女から戻ったのは「へー」という関心も否定もない相槌だけだった。
寄り添う豊かな胸の感触に心の芯まで浸かりそうになるが、久吾は身動ぎして背を向けた。友人以上の感情は恐らくある。しかしそれは秘めた感情のすぐ外側で、これ以上発展することを拒否しているものだった。
「ねぇ久吾」
「なんだ?」
「今度、私がしていい?」
気づけば腰の辺りには、相手の半勃ちになった性器の感触がある。ケイラの身体は確かに女性のものだが、彼女は同時に男でもある。複雑に入り混じった性の持ち主であることは承知しているが、悪い冗談としか思えないその台詞を聞く度に言う言葉がある。
「ふざけるな。そんなことをしたらお前の頭を吹き飛ばして、俺もその銃口を咥えるよ」
「わぁ、それ素敵。心中みたい」
「アホか」
毎度の言葉を吐くと満足そうな声が届き、今度こそ目を閉じる。
窓の外は白み始めているが、ようやく深い眠りが訪れる気がする。
「久吾」
「なんだ」
「あのさ、手の届かないものは手が届かないからいいんだよ」
眠気を覚ます言葉でもあるが、それを待っていた気もする。
もう一度目を閉じると、不覚と落下する快楽を混濁させた眠りがやって来た。
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