4.九条坂 その2ー②
「お前、何やってる」
部屋の明かりを灯し、同時に響かせた声に男が跳ね起きる。
上半身は裸、ベルトは弛み、ジーンズのジッパーは下りている。
ここまで近寄っても気づかないとはどれだけ間抜けなんだと、怒りを通り越して呆れさえも感じたが、溢れる殺気を察することに関しては早かった。
「あ、あの! ま……まだ彼女には何もしてませんっ!」
「ああそうだろうな。やってたらもうとっくにお前を殺してるよ」
「こっ、これは、は、犯罪になりますか?」
「未成年に手を出そうとしたことか? それとも気を失ってる相手を強姦しようとしたことか?」
「ご、強姦だなんて、そんな……」
「いいからもう出てけ。今日は見なかったことにしてやる。だがまたこの辺りをうろつく時は俺の前言を思い出せ」
「は、はい! それはもう、すっ、すみませんでしたっ!」
男はシャツを拾い上げると、スニーカーを抱えて裸足で飛び出していった。騒々しく閉じられた扉の音を聞けば、また通路に放置されるであろう三輪車の姿を過ぎらせるしかなかった。
足元を見下ろせば、そこにはやや目を逸らしたくもなる光景がある。久吾は無言で屈むと、男に外されたらしき制服のシャツのボタンを手早くかけ、捲れたスカートを元に戻した。
「
声をかけるが、反応はない。透けるような肌はいつもより色味をなくしている。様々な危惧が次々と過ぎろうとするが、男が告げた「まだ」という言葉は信じていいようだった。先走って追い出した輩を鬼の形相で追跡する必要はないようだった。
「……久、吾……?」
ようやく目が開き、掠れた声が届く。制服姿の少女はゆっくりと身を起こすと、ぼんやりした表情で辺りを見回す。予測したとおり自らの状況を得てないのは明らかで、久吾は溜息をついた。
「櫂、また気を失ったのか?」
「……どうやらそう、みたい……」
「さっきまで部屋に寝ぼけたネズミみたいな顔の男がいたが、そいつのことは覚えてるか?」
「えっと……そんな顔に覚えはないけど、コンビニで会った人とは確か一緒にいた……」
「どうしてそいつと?」
「レジで並んでた時、前にいたその人が一円が足りなくて困ってた……それで代わりに渡してあげたらその人、自分が買った三個入りのプリンの一つをくれた。その後、公園でそれを食べながら話を聞いてたら、最近職を失って彼女にもふられて、家賃も払えなくてアパートを追い出されて、行く所もないって話してて……けど……その後は覚えてない……」
淡々と戻る声からは、プリン一つでそれ以上のものをかっ攫われそうになったことなど、想像だにしていない気配がある。
久吾は再度溜息混じりに相手を見下ろした。
母親違いになる十二才歳の離れた妹、
十三年前、父の九条坂
普通と言えずとも穏やかだった日常は突然終わりを迎え、当時十五だった自分は急変した日々に右往左往しながら彼女の面倒を見て、成長していくその姿を見続けてきた。
だがのんびり屋というか純粋というか、悪く言えば世間知らずとも言える
「まったく、こんな時間まで制服姿でふらふらするな。また遅くまで
「そうだけど……
「ああそうだろうな、確かにバカじゃないかもしれないが、奴は完全に間違いなくイカレてる。あいつの双子の妹もな」
「……そんな言い方しなくても……」
目を向ければ、妹の悲しげな表情がある。
それを見ると前言を撤回したくもなるが、相手がどんな人間か知る以上、その行為はかなり困難を極める。故に撤回は無論しないが、一方で妹が『奴』といれば善き面もあることも知っている。『奴』が傍にいれば、他の男は決して近づくことはない。でもそうなれば『奴』は常に櫂の近くにいることになる。取捨選択の悩ましい事態であるが、彼女が友人と慕う相手との関係にいつまでも口出ししたくはなかった。
「櫂、立つなら手を貸すぞ」
「ん、多分、大丈夫……」
手を差し出すが、相手は自分で立ち上がろうとする。
しかし身を起こした途端、ふらつく。それを支えようと咄嗟に手を伸ばせば、腕に身体が頼りなく寄りかかった。
「足りないのか……?」
今夜初めて触れた身体はいつもどおりに軽く、冷たかった。
密やかな問いに、答えは戻らない。
腕をすり抜けて再び座り込んだ身体からは、無言の気配が漂う。
久吾は何も言わずに自分の左の人差し指を噛んだ。
鉄錆びた味が混じるその自傷行為は毎度痛みより、異様な昂ぶりを呼ぶ。
指先からは赤い血が溢れ、流れる。
床に落ちる赤い色を見て、相手はゆっくり顔を上げた。
「遠慮するな、血を分けた兄妹だ」
戸惑い、躊躇、羞恥。
相手の顔にそれらが過ぎるが、その上を欲望が覆う。
身体とは真逆の熱い舌が指先に触れ、滴る血を丁寧になぞって喉が鳴る。
口内で混ざり合う血と唾液。
舌が触れた指先からは、先程以上の昂ぶりが這い上がる。
跪く相手の髪に触れれば、その身体が僅か怯えたように揺れた。
櫂の母、雨宮
それは常識や概念を覆す信じ難い事実だが、信じられなくてもその事実は変わることはない。信じなければ変わるというなら、久吾はどれだけでも努力をするつもりだが、その努力自体が無意味でしかないのが真実だった。
美怜は人の血を糧に生きる生きものだった。
吸血鬼? ヴァンパイア? 呼び方など分からないが、彼女はそのような生きものだった。
むやみに人を襲うことなどしなかったが、彼女にとって血の採取は生きる上で必須だった。父が生きていた頃は彼が彼女に与えていたのだろうと推測するが、そこにあったのは愛情と生きる糧の交換か? 真実を知ることはもうできないが、他人には知り得ない何かが二人の間にあったのは間違いなかった。
櫂は普段は人として生きられるが、時に血を欲することを止められない。必要なのは多量ではないが、与えなければ身体は弱っていく。最近頻発するようになった気を失う事態もそれに関係するものかもしれない。しかしその理由を知ることは未だ叶わず、もし知る者がいるとすれば、それは生きていればどこかにいるはずの母親の美怜だけだった。
「……久吾」
「なんだ?」
「……ごめん」
「謝るな」
「ありがとう……」
「礼もいらない」
俯いた頬には、幾分か赤みが差している。それを見取ると今度は声もかけずその手を取り、久吾は相手を立ち上がらせた。
「……ありがとう、久吾」
「あのな、礼はいらないって今言ったろ?」
そう返せば相手は顔を上げる。ようやく微かに笑んだ姿を目に映せば、自分の胸元に収まるその身体を抱きしめたい欲求が掠める。
久吾はこの感情の出所が支配欲であるのか、純粋な愛情であるのか、十三年経った今でも判別をつけることができない。今後も霞の中を彷徨い続けるそれの答えは、この先も明らかになることはないはずだった。
「櫂、もう寝ろ。明日も学校だろ」
「……うん」
「俺は少し出かけてくる」
「え? 今から……?」
「ああ、悪いな。でも明け方までには戻る」
「……うん、そっか……分かった……」
声をかけて扉に向かうが、その足は柔らかい感触に引き留められる。
背後から細い腕が回され、身体が密着する。背には頬の温かみが僅かだが伝わった。
「どうした?」
「私……いつも心配してる、久吾のこと」
「心配? 俺はお前のことが心配だよ」
告げると零された笑みが小さく響く。
その気配には満たされる思いが溢れる気もするが、それは瞬く間に消え去り、後には虚しさにも似たものだけが残った。
「気をつけて」
「ああ、分かった」
その虚無はいつか心の大部分を占めていくものになるはずだった。
微かな声が背に届いても、久吾はその方を見ることができなかった。
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