3.九条坂 その2ー①
逮捕した容疑者の拘留手続きを済ませ、頑なに手書き様式を守る書類仕事を終える頃には、日付を跨ごうとしていた。
「九条坂さん」
「なんだ?」
「
この数ヶ月、古株の野崎が取り組んでいた事件は、彼が長年抱える持病が悪化したことでその手を離れることになった。
事件は担当外だが詳細は粗方頭に入っている。経験も実績もある野崎が苦戦し続けていたのも知っているが、櫻木が例のと指すそれが自分達に引き継がれることに異論はなかった。無言で頷き返すと、相手にも窺える表情はなかった。
「それじゃどうもお疲れ様です。お先に」
何かを含み持った声が気を重くするが、明日になれば変わらぬ朝が互いにやって来ることは分かっている。久吾も席を立つと、まだ居残る同僚に軽く手を上げて殺人課を後にした。
警察署の建物を出て見上げた場所には、ビルの合間から顔を出す昏い夜空がある。
東京新帝都の中心地となる周辺には他の官公庁も軒を並べ、大通りを挟む向こうには街を代表する企業ビルも多く建ち並んでいる。
見渡せば半径二キロメートルにも満たない土地を囲むように高い塀が続き、『一般の市民』はその外側に住んでいる。塀の内側には政府関係者や大企業に勤める者、その家族が居住するが、職場があっても暗黙の了解で彼らより一つか二つ、立場が下になる警察官や警察職員は外に住む決まりとなっていた。
久吾は大通りをいつものように徒歩で進み、東側のゲートで許可証を見せて外に出た。
塀から遠離れば遠離るほど治安の悪さが高まるのは、円状のヒエラルキーという実情があるからだ。塀の中を一番地区と呼び、すぐ外が二番地区、その後三番四番五番六番……と続き、数字が大きくなる毎に、地区の面積も年間事件発生件数も増す。
久吾の自宅は三番地区にも近い二番地区の外れにあった。富裕層は決して利用することのない地下鉄で帰宅することもあるが、歩いても二十分ほどの道のりを徒歩で帰る方が多い。
ケイラの店に時折来る井出という老人は、今と異なる戦前の思い出を時に語るが、年寄りの「昔はよかった」話ほど時間を無駄にするものはない。彼の話を過去の知識として聴くことに意味はあるかもしれないが、美貌の店主の手を握ってにやける他愛ない老人の顔を見ていると、次第にそれすら無意味に思えてくる。
そそり立つ塀に近い通りは人通りも多く、きらびやかな商業施設や高層住宅が多数を占める。しかし放射状に延びる道を塀を背にして進むと、徐々に趣が変わってくる。
再開発により新たに区画された土地には、精巧なジオラマのような風景が造り上げられている。でも二番地区も外れになると、戦火でも焼け落ちなかった古い家屋が多くなってくる。街灯の数も減少しインフラの修繕も滞る街並みが続くが、それが不変的な光景でもある。その中に建つ可も不可もない二階建てアパートに、久吾は数年前から居を構えていた。
一階に住むシングルマザーがまた通路に子供の三輪車を放置していた。何度言っても繰り返されるのは、深夜の帰宅が多い自分への何らかのメッセージかと思うこともある。
同じく放置された幾つかの玩具と一緒に傍らに寄せ、二階の端にある自室に向かう。取り出した鍵で扉を開けようとするが、施錠がされていないことに気づく。
嫌な予感を感じつつもドアを開けると、暗い玄関には見慣れた茶色のローファーと、見慣れない汚れたスニーカーが転がっている。
2DKの部屋は見渡すまでもなかった。
月の光が落ちる窓際の床には、重なる二つの影がある。
久吾は靴を脱ぎ、足音を忍ばせて間近に歩み寄った。
息を荒くする見知らぬ男が、自分の部屋で一体何をしているのか。僅か考えただけでも濁流のように感情がうねったが、至極効果的な方法を選び取る余裕はまだ残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます