3 教授と狂気

 リコは午後の授業は予定通りさぼった。春の雲がだんだん形を変えて流れていくのを眺め、まどろみ、夢を見た。リコは夢の中で、人工子宮で育ったリコにはいないはずの家族と食卓を囲み、たこ焼きを焼いていた。リコには姉がいて、サーシャに似ていた。父と母の顔はぼんやりとぼやけた無個性な人間の男女で、リコが好きな古い映画の登場人物を掛け合わせたような容姿だった。両親はただの純粋な人間だった。リコは団欒の場には慣れておらず、目の前でくるくるとひっくり返されるたこ焼きを見つめて黙っていた。リコの金色の目には突然、両親が肉に穴の空いた蠢く異形の生物に見えた。生物が折れ曲がる前脚を使ってたこ焼きを先端部に空いた大きめの開口部に放り込み、裸の皮膚をひくひくとさせる光景を見て、リコは姉の名前を叫ぼうとしたが、体は動かず声も出なかった。パニックに陥ったリコはそこで目を覚ました。すでに放課後の時間だったので、リコはテンポウザン教授の研究室に向かった。


 テンポウザン教授の研究室には、紙の資料とラベルのついた化石や機械の一部、彫刻などがいたるところに積まれていたが、リコはそれが大昔の考古学者へのオマージュであり、特に重要ではないただのインテリアだと知っていた。自分は形から入る、なぜなら形がなければ本質もないからだ、形がなければ偽ることも不可能だ、と教授は語っていた。

「教授」

 リコの呼びかけに返事はなかった。リコはもう一度教授を呼んだ。奥の部屋から返事が聞こえ、資料の山のひとつが崩れ、その下から教授が現れた。

「ニシナガホリくんか。よくきたな」

「また変な苗字つけないでよ。リが被って言いにくいじゃん。リコでいいよ」

「それでは雰囲気が出ない」

「もう、好きにして」

「ではキタホリエくん」

 リコは苗字については無視して、メッセンジャーバッグから遺跡で回収した球体を入れた樹脂製の封印パックの束を取り出した。

「教授にもらったデータ通り集めてきたよ」

「いつもながら仕事が早いな。優秀な助手だ」

「助手になった覚えはないけど……」

「ほう、これは……」

「って、ちょっと」

 教授はすでにパックの開封をはじめていた。手袋をはめた手に中の球体を取り、眼窩にはめ込まれたモノクルでスキャンをはじめた。

「これは予想以上に状態がいいな」

「ほんと?」

「うむ。今回は期待が持てそうだ」

 教授は資料の雪崩の中から圧力鍋を発掘した。そして封印パックをまとめて破いて、入っていた球体を鍋に入れた。球体が圧力鍋の分厚い底に当たってキンキンと硬い音を立てた。教授は鍋の蓋を閉じ、しっかりロックしてタイマーをセットした。

「われわれは好きなものになる権利がある。そうは思わんかねキタセンリくん」

「またリが被ってる」

「うむ。われわれ人類はかつて、みんながそれぞれに好きなものになろうとした。そしてさまざまなポストヒューマン種族が世界に溢れかえった。そこでまず持ち上がった問題が、どこまでが人間なのか、ということだ。くだらん話だが、全高18メートルのギガロボット種族と海中を浮遊するクリオネ種族がカップルでデートできる映画館など作るのが大変だろうからな、わからんでもない。それより問題だったのは、結局のところポストヒューマンも人間に過ぎなかったということだ。人間は必ず殺しあう。というより生物ならすべての種が殺しあうのだが」

「うん」

 教授はまだ文字が発明されていなかった時代に、長老が神の時代やかつての英雄の物語を語ったときはこういう感じだったのだろうという風に語った。リコは教授の語る歴史はよく知っていたが、語りは繰り返し聞くものであると思っていたし、繰り返しが彼女自身も語り部にしていくのだとも考えていた。

「世界の半分を破壊して人類が得た結論は、愚かにもそれまでの進化をなかったことにすることだったのだよ。人間に戻ると連中は言うが、要は退化にすぎない。人間に戻ったところでどうなる? 結局は人間も殺しあうのだ。戦争が人間の本質といってもいい」

 リコは外見上異なる点があるというだけで、それを隠さなくてはならない、二級市民のような扱いを受ける自分やサーシャのようなポストヒューマンの子孫たちのことを思った。純粋な人類など幻想だと思っていたし、実際遺伝的な意味でナチュラルな人類など存在しなかった。リコは怒っていた。

「われわれは人間から遠くなる必要がある。少なくとも賭ける必要がある」

 教授の言葉はリコには重く響いた。

 圧力鍋のタイマーがチンと鳴り、弁が圧力を逃すシューという音を立て、蒸気がふわりと舞い上がった。教授は鍋の蓋を開け、中を覗いた。球体は溶けてどろっとした液体状に変化していた。教授はフラスコから液体を足してレードルで液体をかき混ぜた。それから液体をボウルに移し、粗熱を取ってから慎重に小瓶に分けた。教授は別の資料の山を崩してガラス管を曲げて組み合わせた器具を取り出し、リコに渡した。

「何これ?」

「ボングだよ」

「何に使うの?」

「キレウリワリくんはマリファナを嗜んだことがないのか?」

「またリ……っていうか、わたしまだ未成年だから」

「うむ。そうであったな」

 教授は引き出しからもうひとつボングを取り出し、大きいガラス管に水を入れ、突き出た細いほうのガラス管の先端にポケットから取り出したマリファナの葉を詰めた。それから別のポケットからジッポを出して火をつけ、ガラス管のもう一方の先端に口をつけて空気を吸い込み、マリファナに火をつけた。煙が水の中でぼこぼこと泡立ち、水面から出てガラス管を満たし、教授の口から吸い込まれた。教授は口を離して煙を吐き出した。

「使いかたはこうだ」

「こうだ、ってマリファナがどういう意味あるの」

「球体から抽出した液体を葉に浸して吸引したまえ」

「そうするとどうなるの?」

「きみの体内に古の種族のコアの種が取り込まれる。ナノテクのきみにはそれがいちばんいいだろう。わたしの予想では、きみの体内のナノマシンが新たなコアを形成する助けになる。そうすればかつてナノテク種族が持っていた機能がある程度復活するはずだ」

「マジで」

「リスクはあるぞ。きみが初の被験者になるわけだからな。どうするかね? 選択はきみしだいだ」

 リコは黙って小瓶を受け取った。そっけない薬瓶に透明な黒い液体が入っていた。リコはサーシャのことを思い浮かべた。

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