2 サーシャ
「リコ、またさぼってる」
風呂敷に包まれたランチボックスをふたつ手にした少女が言った。
「うん」
リコと呼ばれた少女が振り向かずに頷いた。リコは屋上のブロックに腰掛けて、アコースティックギターで短いフレーズを何度も繰り返し弾いていた。ランチボックスを持った少女はしばらく演奏を聞いていたが、短いフレーズは一度も完璧に演奏されることはなかった。
「ああっ、イライラする!」
ランチボックスを持った少女は、リコのかぶっているパーカーのフードを引き剥がした。リコは慌ててフードをかぶりなおした。
「やめてよー」
「ほら、お弁当。お昼、どうせ何も考えてないんでしょ」
少女はランチボックスのひとつをリコに押しつけ、自分もリコの隣に座った。
「ありがと、サーシャ」
リコはもそもそとランチボックスの風呂敷を開いて蓋を開けた。三角のおにぎりがきれいに並べて入れられていた。
「わあ、おいしそう……」
リコの表情がゆっくりと満面の笑みに変わった。サーシャと呼ばれた少女は当然だ、という顔をした。制服を着たふたりはしばらく無言でおにぎりを食べた。昼休みはふたりのほかには誰も屋上にやってこなかった。春の湿度の高い日差しが、学校を囲む森に紫のフィルターをかけてぼんやりと滲ませていた。サーシャのスカートから柔らかい毛に覆われた細長いしっぽがくるりとほどかれて、ぴょこぴょこと動いた。リコはそれをおにぎりを頬張ったまま目で追った。
「サーシャ」
「うん?」
「しっぽ、出てるよ」
「今、リコしかいないから。好きでしょ?」
サーシャはしっぽで小さな輪を作った。
「うん」
「触る?」
「触る」
リコは手を伸ばして、サーシャのしっぽをなでた。しっぽは柔らかく滑らかで暖かかった。
「ごはん食べたら、いつもの、いい?」
リコが自分より頭ひとつ背の高いサーシャを見上げて言った。
「いいよ」
サーシャはにっこり微笑んだ。
リコはサーシャの太ももに顔をうずめていた。サーシャのしっぽがリコの頭の輪郭をやさしくなでた。おない年のふたりは聖母とその神の子のようだった。ふたりとも神は信じていなかった。
「誰かくるかな」
リコは言った。
「くるかもね」
サーシャは言った。
「また遺跡に行ってきたんでしょ」
サーシャがしっぽの先でリコの頬をふにふにとつついて言った。
「うん」
「どうだった?」
「んー、まあぼちぼち」
「いつもそう言ってる」
「むう」
サーシャにはリコの隠しごとはお見通しだったが、サーシャはそれについて何も言わなかったし、リコもそれを知っていた。
「こちょこちょ」
サーシャがしっぽでリコの首筋をくすぐった。
「あひゃっ、うんっ、やめてやめてくすぐったい」
リコは足をじたばたさせた。サーシャはリコの長い前髪を手でそっとかきわけた。リコの瞳が金色に輝いた。
「きれいな目」
サーシャは言った。リコはサーシャにじっと見つめられ、自分の頬がじわじわと熱くなるのを感じた。
「サーシャは、わたしの目、好き?」
「好き」
何度も繰り返されてきた質問に、サーシャが聖なる微笑みで答えた。リコはこの微笑みが自分のほかの誰かにも向けられることがあるのだろうかと考えた。
「サーシャには見られてもいい」
「ありがと」
「午後の授業、出るの?」
「うん」
「つまんない」
「午後イチはテンポウザン先生だよ?」
「いつも放課後に見せにいってるから、別にいい」
リコはサーシャの腰をぎゅっと抱きしめた。サーシャの体はしなやかだった。リコはサーシャをはじめて見たとき、まるで猫みたいだと思ったのだが、サーシャの遺伝子には猫のものが組み込まれており、実際サーシャの体の一部は猫なのだった。サーシャはかつてのポストヒューマンの系列であるハイブリッド種族の子孫だった。リコもおなじくポストヒューマンの子孫だったが、サーシャとは違うナノテク種族の末裔だった。ナノテク種族は生殖細胞に組み込まれたナノマシンが成長に伴って増殖し、強化された器官を形成していく。リコにあるのはほんのわずか視力が増強される機能があるだけの、金色の眼球埋め込みレンズだった。人類は再統一計画のもとに、かつての霊長類の聖域に戻ろうとしていた。リコとサーシャのポストヒューマンとしての能力は長い遺伝的調整の結果、ほぼ失われていた。それらの能力は世界を分断した禁断の果実だと思われていたが、誰も自分たちが追放された楽園がどんなところだったか知らなかったし、楽園に暮らすことがどういうことなのかも知らなかった。すくなくとも彼女たちはまだ人間で、より人間に戻りつつある過程にあった。
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