リコは人間をやめたい

wintermute

1 森の遺跡

 鼻歌を歌う少女がひとり、深い森を歩いていた。少女は言葉を発するものを信用しなかったが、言葉の持つ力は信じていた。大昔の魔法使いが振るったような力が自分の言葉にも受け継がれていて、世界の悪意から自分を守ってくれるのではないかと、少女は無意識に期待していた。姿の見えない鳥や哺乳類の鳴き声は、少女の本能的な部分に訴えてくるものがあった。そのような感情を少女は感じたことがなく、それは遠い祖先の遺伝子に刻まれた残骸であることは知っていたが、ただそれだけだった。

 少女が目指していたのは朽ちたコンクリートの建物だった。建物は天井の高い平屋で、少女の知る限り完全な正方形だった。建物には土と植物が堆積し、木や蔓がもともとそうであったかのように幾何学的な構造と一体化していた。日光が差し込み、全体の輪郭を柔らかく縁どっていた。

 少女は正面に見えるシャッターの下りた入り口の前に立った。バックパックからタブレットを取り出し、地図を表示させ、GPSで自分の位置が正しいことを確かめた。それからタブレットをバックパックに戻し、フードの奥から建物をしばらく眺めた。少女はここが放棄されてからいったい世界中で何人の人が生きて死んだのだろうと考えた。おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん。少女に両親はいなかったし、これからも存在しないだろう。

 シャッターは固く閉ざされており、表面を覆う蔓植物がさらに封印を強固なものにしていた。少女は建物の側面に別の入り口を見つけた。ドアはなく、代わりに木の根がカーテンを作っていた。奥は崩れた屋根から差し込む光で明るかった。瓦礫が家具を押しつぶし、そこにまた土や植物が堆積していた。少女は被ったフードのひさしを手で持ち上げ、自分のぶんの瓦礫が装填されていないか中を見ようとした。建物のどの部分も今すぐ崩壊しそうに見えた。彼女は運命を信じていた。たとえ千年の間起きなかったことも、しかるべき瞬間には必ず起きると思っていた。自分自身の運命を知ることはできない。それでも起こるとされていることは必ず起こり、起こらないとされていることは絶対に起きない。少女は自分がここへやってきたことも運命なのだと信じていた。少女は自分自身を賭けているのであり、賭けには勝つつもりでいた。少女は建物に侵入した。

 植物の根は線虫のようにコンクリートを食い荒らしていた。植物はときおり少女を躓かせ、苛つかせた。少女が持つタブレットでは彼女の歩いた跡が詳細にスキャンされ、空白だった建物の見取り図を埋めていった。少女は怪しいと睨んだ朽ちた金属のドアを蹴破った。ドアの向こうには光がまったくなく、倒れたドアは音だけ残して虚空に飲み込まれたように見えた。少女の知っているどんな闇とも違っていた。少女はドアの中を覗き込んだ。差し込む光が細かい埃の積もった床を照らし、ぼんやりとした少女自身を投影していた。巻き上がった埃が煙のように床を漂っていた。

 少女はバックパックからライトを取り出し、マウンテンパーカーのフードを上げ、ストラップで額にライトを固定し、またフードを被った。ライトを点灯させ、奥の空間へ足を踏み入れた。少女は、実際には床が存在しておらず、自分は永遠に落下し続けることになるのではないかという直感に襲われたが、そうはならなかった。ライトの光が周囲の空間を暗闇から切り取って、少女の足は床を踏みしめた。彼女は明るい光に浮かび上がる、格納庫に並んだ今はもう動かない車両を見た。どれも長い年月の間に錆びついて埃まみれになっていた。彼女はこれらの内燃機関を搭載した乗り物が地上を埋め尽くしていた時代を想像してみた。クロムメッキの残骸がライトの光を反射して、少女の眼球に埋め込まれたレンズを金色に輝かせた。

 少女は車両の間を歩いてその奥にあるゲートを見た。ゲートは少女の力ではとうてい動かせそうにない厚い複合材で作られていたが、少女が通るのにじゅうぶんな程度には開いていた。少女のつま先に何かが触れ、乾いた音を立てた。それは人間の肋骨で、衣服と皮膚の名残がまとわりついていた。少女は慌てて肋骨の持ち主を探した。持ち主の骨はゲートにもたれかかるような姿勢でうずくまっており、頭部は落ちて傍に転がっていた。少女は周りのどんなものより白く照らしだされた、下顎のなくなった頭蓋骨を見つめた。少女が人骨から目を上げると、蛍光塗料で描かれたバイオハザードの弧を描いたマークが浮かび上がった。中にも扉があり、そこにも人骨があった。少女は骨を踏みつぶさないようにそっとまたいで通り抜けた。

 少女はいくつもの扉と空の小部屋を通り抜けた。すべての内装が白く作られていたが、時間がその純粋さを奪っていた。最後の扉を抜けるとそれまでより広い部屋になっていた。部屋には少女の知らないさまざまな機器が積み上げられており、その間にひとりの人骨が倒れていた。人骨はうつ伏せの男性で、片手を上げ人差し指で自分の頭上を差しているように見えた。その方向には彼の大切な人たちや未来があったのかもしれないが、今は等しく死を迎えていた。

 部屋の奥は強化ガラスで仕切られた広い空間になっていた。ガラスは半分ほどが砕けていて、細かな破片になって散らばっていた。中には大きなシリンダーが扇状に整然と並んでいた。シリンダーは少女の身長より大きく、斜めに横たわるかたちで設置されていた。半数は前面がぽっかり開いていて、内部は空洞だった。少女は閉じているシリンダーのひとつに歩み寄り、表面の埃を手で払った。シリンダーの表面には汚れが張りつき、硬化して石のようになっていた。少女は腰から小振りのサバイバルナイフを抜いて汚れを慎重に削っていたが、そのうちナイフの切先で汚れを荒っぽく叩きはじめた。硬い汚れは乾いた音を立てて割れ、シリンダーの表面から剥がれ落ちた。シリンダーの表面は完全に透明な素材でできていて、その透明さはまったく濁っていなかった。少女は汚れの剥がれた部分から中を覗き込んだ。中には生物の骨が入っていたが、それは人間のものではないことを少女は知っていた。少女は残りの汚れもナイフで荒っぽく剥がした。シリンダーの表面は今作られたばかりのように滑らかで、傷ひとつつかなかった。

 汚れを落とし終わり、少女はシリンダーの中を覗き込んだ。ばらばらになってはいるがほぼ本来の順序で並んでいる脊椎骨は、人間のものよりずっと多かった。頭蓋骨らしきものを少女は発見できなかった。腕か足の骨と思われるものは長いものと短いものが混在していて、何組あるのか見当がつかなかった。少女はこの生物の生きていたときの姿を想像してみた。少女は自分がこれまで想像という行為にどれほど時間を費やしたか思い返した。少女は想像はいくらでもやり直せるが現実は取り返しがつかないという当然のことに気づいた。少女は自分がどの程度まで引き返せないところに踏み込んでいるのだろうと考えた。

 少女はシリンダーの端に設置されたコントロールパネルを確かめ、バックパックからタブレットを取り出しケーブルで接続した。少女が操作するとシリンダーがわずかに振動し、透明な前面が横向きに回転して滑らかに開いた。少女はシリンダーからケーブルを外し、タブレットに内蔵されたスキャナーで生物の骨を調べはじめた。頭があるとすればここであろうという場所に反応があった。少女はナイフを取り出したが、すこし考えてからナイフをしまい、素手で骨の破片を探った。骨は脆く乾いていた。少女は目的のものを発見し、指でつまんだ。それは小さな球体で、完全に黒かったが透明感があった。少女は球体をよく見ようと顔に近づけた。少女は球体と目があった気がした。背筋に悪寒が走り、思わず球体を取り落とした。少女は慌てて球体を拾い上げ、今度はあまり見ないように顔を背けながら樹脂製のパックに封入した。少女は大きく息をついた。少女は周りの暗闇から誰かに見つめられているのではないかという可能性について考えた。少女はバックパックからランタンを取り出して床に置いた。暗闇はなくならなかった。少女はもう一度深呼吸して、次のシリンダーにとりかかった。

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