ドラネコ注意報

▼とくに本編とは関係がなさそうにみえて関係があるかもしれない話

▼時間軸:本編前

―――






兼古かねこ伝八でんはちは、兼古組四代目組長として杜松ねず組本部に顔を出していた。


今回の定例会には、「何かあるらしい」というウワサが流れていた。誰かのお披露目があるらしいのだの、前会長キモ入りの話らしいだの……、なんとも信ぴょう性のない金魚の長いフンのようなウワサではあったが。

それでも何か面白いことでも起こるのではと、内心期待していた。


しかしながら終わってみれば、いたって普通の内容だった。


来るとウワサされていた前会長の姿もなく、お披露目のおの字もない。

伝八は心底おもしろくないといった表情を隠すこともなく、タバコでもしばいてから帰るかと二階ロビーの奥にある中庭へと足を向けた。

パーッと夜の街に遊びに出かけたかったが、娘三人から東京駅でアレを買ってこいコレを買ってこいとせっつかれているので長居はできないのだ。


最近はタバコを吸わない若衆や健康を意識して禁煙をする者が増えてきたため、この中庭か外階段で吸うのが暗黙の了解になっていた。竹と水路を携えた中庭を望むガラス張りのロビーには、どっしりとした黒いソファーがコの字に設置されている。

ついでにコーヒーも買っておくかと廊下奥の自販機に向けた伝八の視線が、この杜松組本部に似つかわしくないモノを捉えた。


(……なんや? なんでこないなとこにガキがおるんや)


夕暮れに染まる空が微かに見える薄暗いロビーの中央――そのソファーのど真ん中に、子供が一人座っているではないか。


(……ウチの末娘チビくらいか?)


中学生か高校生くらいに見えるその子供は黒いジャージを肩に羽織って、両腕をだらしなく開いた足の間に入れ込むようにして深々と座っている。

定例会のある日は上役しか座らないようなソファー、もう日が沈もうという時間に子供が座っていて、さらには事前に出回っていたウワサ……、


(ははーん、誰かの隠し子かなんかか……?)


伝八の中で、一つの答えが出た。

好奇心の赴くまま、伝八は子供の隣へとどかりと座り込む。


「よぉ、こんなところでなにしてるんや? ガキはもうおねんねする時間やで」


ぐいっと肩を抱き寄せて覗き込んだ子供の顔に伝八は、数秒前の自分を殴り倒したいほど後悔することになった。


「……、」

「……」


その子供は――低い位置に出る月のような美しい虹彩を持ちながらも覇気の欠片もない淀んだ瞳を持った子供は、興味無さげに伝八を見た。


「……ハハ……ハ、」

「……」


その瞬間、伝八の足首から頭の先までぞぞぞっと寒気が走った。


(アカン、こいつオバケかなんかや)


親だの名前だの根掘り葉掘り聞いてやろうと意気込んでいた気持ちはしっぽを巻いて逃げていき、全身から汗が噴き出すのが分かる。

恐怖だ。

これは死に近づいてしまった時の恐怖に近い。

どうしてそう感じたのかはすぐには分からなかったが、この子供に軽々しく近づいてはいけなかった。それだけが、確かな感情だった。


伝八の思考が停止している数秒の間に、子供は自身の肩を抱く男の体の胸元から靴先まで横目で観察して、少しだけ興味が湧いたのか顔をもう一度伝八に向けた。そして、


「くまさんのなに」


とだけ言った。


(クマサンノナニ? クマサンノナニってなんや??)


肌の一枚内側をじっくり撫でられているような不快感。子供の鼻先と自身の頬が触れそうなこの距離と――いや、こうやって肩を抱いてしまったのは伝八自身なのだが――前後も脈略もない言葉に脂汗を滲ませ混乱する背後から、焦ったような声が聞こえてきた。


「斑! 何してる」


途端に、子供の興味はその声の主に移った。「天の助けや!」と声に出さずに喜んだ伝八だったが、振り返った先にいた人物に心底嫌そうな顔を向ける。


「……なんや、久万か」


そこには杜松組若頭補佐の、森野もりの久万くまが立っていた。


「……、お疲れさまです、兼古の叔父貴」


久万にしてもそこに伝八がいたことが予想外だったらしく、駆け寄ろうとした歩みをその場でぴたりと止めた。

久万は少し白髪の混じった髪をきっちりオールバックにして、誰に見繕ってもらったのか質の良いスーツを身に着けている。伝八はそんな久万をじろじろと横目で見ながら、右手で抱き寄せてしまっている恐怖対象をどうすべきか回らない頭で考えていた。

しかしながらそれ以上に久万に「叔父貴」と呼ばれたことがどうにも居心地が悪く、


「あ~やめややめや、そんな呼び方。お前に叔父貴なんぞ呼ばれたないわ」


と悪態をついた。

手で払うような動作をするついでに、子供に回していた腕をパッと外すことに成功した。久万はすぐに「すみません」と頭を下げ、伝八は「えぇえぇ」、と適当にあしらう。


(やったで! なんや分からんけどうまいこといった……!)


これでようやく全身を伝う脂汗も引くと思っていた、のだが、久万の謝罪と同時に子供からのビリビリとした視線が伝八の肌を刺す。

飛び上がって右半身に針千本でも刺されていないか確認したい気持ちをぐっと抑えながら、伝八は口を開いた。


「で?」

「……はい?」

「こいつはなんなんや?」

「ああ、斑のことですか? 今日から俺の、……あー、娘になりました。書類上ですが。今日はその正式な報告に……」

「娘ぇ?! なんやお前、こぶ付きと結婚したんか!」

「あ、いやそういう訳ではなく……、父親はよく知ってる奴ですよ。虎の一人娘です、斑は」


その言葉が耳から脳みそに伝わった瞬間、伝八は今度こそ骨から震えて立てなくなった。


「と、トラぁ?? トラってあの……か……?」


伝八の脳内に駆け巡る、苦々しい思い出たち。

幼少期に父親がどこからともなく拾ってきて、舎弟にするでもなく家に置いていた金髪の外国人風の男。いつもにこにこへらへらしていてどんな人間とも数秒で打ち解けられて、数日後には組を超えて街のアイドルと化した男。人畜無害な優男だと思って連れ回していたら、本当は人を人とも思わない獣のような心を持っていた男。

伝八がこれまで出会ってきた誰よりも強く、誰よりも恐ろしく、しかし太陽のような笑顔の似合う男――。


伝八にとって、名前すら聞きたくない最も恐ろしい存在。


「はい、一時期兼古組でお世話になってた、です」


「目元とか似てませんか」と久万は少しばかり口元を緩めた。

ずっと行方を探していて、最近になってようやく見つかって……などと久万は続けていたが、伝八の脳みそには一文字も届いていない。


(メモトトカニテマセンカ~? にこ~??? ちゃうねんボケ!!!!! なんちゅうバケモン野放しにしてるんや!!!!!!!!!!!!!!!! このボケカス久万!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!)


こうしている間にも、斑と呼ばれた子供からは殺気が向けられている。地元のチンピラ共のメンチ切りがかわいいペット動画に思えてくるほどの殺気である。

この場から逃げ出そうにも一歩も動けないので、脳内を必死にかき分けてもっともらしい帰らせ文句を引き出そうとしているとエレベーターホールの方から若い女性の声がした。


「ちょっと久万ー? どこまでお迎え行ったのー?」


声の主は杜松組若頭・杜松みの子だろう。こんなところにいる女性は彼女しかいない。定例会が終わった後に会う約束をしていたのになかなか帰ってこない久万を呼びに来たといったところか。

まさに救いの女神である。

大阪に帰ったら有名店のチルド豚まん詰め合わせセットを贈ろうと伝八が心に決めた瞬間でもあった。


「すみません、若に呼ばれているのでもう行きます」

「おお、はよ行き」

「……斑、朝言った通りちょっとだけ人と会うんだ。座ってるだけでいいから。行けるか?」


優しげな声色で久万が問いかけると、伝八を睨みつけていた子供――斑は、のそりと立ち上がった。その両手親指が結束バンドで留められていることに伝八は気が付いたが、もう何も言うまいと口を堅く結む。


(知らん知らん。もう関係あらへんし)


しかしまあ気にはなるので、横目でちらちらと二人の様子を盗み見る。

斑は気乗りしないのかやる気がないのか、のろのろと伝八の前を通り過ぎて久万の横に立ち、ずり落ちたジャージをかけ直してもらっている。ついでにソファーにもたれていたことで付いた髪のくせも、久万によって大人しく手直しされている始末である。

さっきの説明の仕方といい、まるで小さな子供扱いではないか。


(バカ久万……あれが一体何歳に見えてるんや……。あんなんちいちゃい子にしかしやんやろ……俺が娘にあんなことしたら秒で噛みつかれるで)


そこそこガタイの良い久万の横に立っても小柄に見えず、“娘”というよりかは“息子”ではと感じるほどの身長と肉体。こんなところに一人で放置されて伝八に絡まれても一切動じない精神。どういう理由かは知らないが拘束されている親指。そして、久万への異様な懐き方。


(あー、そうやったそうやった……。久万のやつ、虎に一目で懐かれてたわ……。その日のうちに久万に付いてく言うて、親父ら泣かしてたな。……何やアイツ、猛獣使いの才能でもあるんか)


考えれば考えるほど、“虎の娘”という言葉の深みが増してくる。


(おー怖……。こいつらがエレベーター乗ったらさっさと帰ろ。もうタバコしばいてく気持ちやなくなったわ)


悪寒とともに出てきた鳥肌をさすっていると、久万が「どうした?」と斑に問う声がした。


(なんや? さっさと行かんかい……)


心の中で悪態をつきながらちらりと横目で見ると、


「またね、カネコおじさん」


そう、斑は伝八の目をしっかり見て言った。


「は?」

「ん?」


ついうっかり出してしまった伝八の声と、久万の声が重なる。

伝八がぽかんとしている間に、慌てた久万が「叔父貴というのは立場が上の人への呼び名であって…」と説明するも、斑は何を言っているのかという表情で首を傾げた。


「? 二人は兄弟でしょ?」






***

それ以降の伝八の記憶は、いまいちはっきりとしなかった。

気付けばいつものコーヒー缶を片手に、新幹線のグリーン席に座っていた。次は名古屋だと告げるアナウンスでハッとして、スマートチケットの行き先を確認する。大丈夫だ。どうやらきちんと新大阪まで買っているらしい。ちなみに娘三人に頼まれていた買い物は一つもしていなかったが、ぎゃんぎゃん噛みつかれることよりもただただ家に帰れるという安心感のほうが勝っていた。


(はーーーーーーーーーーーー)


深い深いため息の後、斑の言葉を思い出す。


――二人は兄弟でしょ?


(そうやで? 確かにそうやねんけど……)


久万と伝八は腹違いの兄弟であった。

しかし二十歳近くになるまでお互いに……というか元凶である父親ですら久万の存在を知らなかったくらいだ。ちなみに久万の方が二歳年上である。どちらかといえばお互い母親似で、初見で指摘されるほど顔は似ていない。はずだ。そもそも組長以外には他言していない。久万が斑に教えたのかと一瞬思ったが、あの慌てようは伝えてないからこそだろう。

それなのに、


(くまさんのなに、久万さんのなにって、……もうその時には気付いとったってことか)


あの数秒で、久万と血縁関係にあると何かしらの核心を得たということだ。

虎の娘というだけで恐ろしいのに、オカルトじみた力まで持っているのかと想像すると腰から砕け落ちそうだった。座っているのがふかふかのグリーン席で助かった。


(ふっ…………、怖ぁ……)


虎の毛皮のような瞳を思い出してしまい、伝八はほんの少し泣いた。






/end

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