なつはだれもがゆめをみる(上)

▼とくに本編とは関係がない

―――






静かな振動とともに、エレベーターは高級マンションの8階に到着した。

斑はスマートフォンに向けていた目線をちらりとだけ上げて、磨き上げられたフロアを慣れた足取りで進む。スクールバッグからぬいぐるみパスケースを取り出して、その中から銀色の鍵を一本取り出す。小さな鈴の付いた鍵をチャリチャリと弄りながら歩く廊下に、どこから入り込んだのだろうか、金色に輝くカナブンが絨毯の上でもがいていた。照明にでも弾かれて落ちたのだろう。斑はなんとなしにそのカナブンをひっくり返してやり、一番奥の部屋の鍵を開けて部屋に入る。


「ただいまー」


最近買ったばかりのスニーカーを雑に脱ぎ捨てながら、ドアロックをかける。

いつも通り廊下に靴下と制服を脱ぎ散らかしながらシャワーでも浴びようとしていた斑だったが、返事がないことに首を傾げた。


「……久万さーん?」


我が物顔で入ってきてはいるが、ここは森野久万――親友の忘れ形見である斑の世話をなにかと焼いてくれる、見た目のいかつい大男――の住むマンションの一室だ。斑は普段、より学校に近いおんぼろアパートで暮らしている。それなのになぜ「ただいま」と言うのかというと、久万が顔には出さないものの喜ぶからだ。その理由について話すと長くなるので、また今度にしておこう。


さて、玄関にはいつものように久万の大きな革靴がある。しかし、いつものように「おかえり」の声は聞こえてこない。リビングの明かりもついていないし、そういえば夕飯の匂いもしてこない。

寝てるのだろうか、と思った斑の鼻先をいつもと違う香りがくすぐる。

斑はふむ、と一呼吸おいてから、玄関に置き去りにしようとしていたスクールバッグを持ち直した。


(……弁当箱とお菓子くらいしか入ってないな……)


まあないよりはマシか、と洗面所を右手に廊下をゆっくりと抜ける。

左側二部屋のドアは開け放たれていて、広いほうの寝室からはエアコンの涼しい風が頬を撫でる。その風に乗って、久万の吸うタバコと、いつも使っている衣類用洗剤の匂いがする。

玄関で感じた匂いは気のせいだったかな、と突き当りのLDK――四畳半の和室を備えた、最低限の家具しかそろっていない二十畳ちょっとの広々とした部屋――へと続くドアノブに手をかける。


「……なんだ、」


そこには、和室で丸めた座布団を枕にして、眠りこけている久万がいた。


斑は少し立ち止まった後、部屋の明かりは付けずにスクールバッグをキッチン横にそっと置いた。適当に手を洗いうがいをし、タオルで水気を拭き切らないまま流れるように冷蔵庫を開ける。


「ふむ」


中段には半切りのミニトマト、千切りにされたきゅうりと錦糸卵、味の染みていそうな自家製チャーシューの入ったガラス容器、下の段には三割引きのシールが貼られた冷麺の袋がある。どうやら今晩は冷やし中華にするらしい。

野菜室で冷やしてある麦茶をコップに注いでふたくちみくち飲みながら、久万が寝ている畳へと歩く。

寝苦しかったのかワイシャツを乱して寝ている久万のそばに立ち、どうやって起こしたものかと考える。たまに夢見が悪いと、寝込みを襲われたと勘違いして鉄拳が飛んでくるのだ。別に避けられるので問題はないのだが、後々で久万自身が気にするタイプなのでできればちゃんと起きてほしい。

とりあえず無防備な脇腹にでも水滴を落とすか、と斑が手を伸ばした瞬間、


「きゃー、ダイターン」


久万の声で、“誰か”がしゃべった。


身構えようとした体の動きよりも先に眼が捕えたのは、さっきまでしかめっ面で寝ていたはずの久万の――満面の笑みだった。


「…………、は?」


久万がにっこりと――いや、どちらかといえば長い間用のなかった表情筋まで使っているせいか、少し引きつった笑顔を見せている。常に眉間にしわを寄せている久万からは想像できない言動に混乱した斑の脳は、手に持っていたコップを久万の腹へと解き放ってしまった。


「うっわ! ひゃー! つっめた!あかんあかん! タオルタオル!」

「……、だれ?」

「それよりタオルやって! タオル! もーーーー、畳べっしょべしょにしてみぃ、久万ちゃんかんかんやで!」

「……あー、」


慌てふためく久万のようで久万でないに誰かまくしたてられ、そう言われればそうかもと納得する斑。混乱しつつも洗面所へと向かい、棚に几帳面に並べられているタオルを数枚鷲づかみして引き返す。ほんの少し警戒して覗き込んだ部屋で、濡れてしまったシャツを脱ぎ終わった上半身裸の久万と目があった。


「きゃーえっちー、見やんといて~」

「……」


やはりおかしい。何かがおかしい。


斑は眉間のしわを可能なかぎり深く寄せ、久万の鍛え上げられた肉体めがけて全力でタオルを投げつけた。ふんわりやわらか仕上げの軽いタオルは、柔軟剤の香りを漂わせながら久万でない久万の手に舞いおりる。

にこにこという効果音でもついていそうな表情で、久万でない久万は、「さんきゅーな」と斑にほほ笑んだ。


「そんな顔せんでもええやんかー。むすっとしてたらせっかくのかわいい顔が台無しやで。あ、ほら畳! これプラ畳やったんやなー、シミにはならんと思うけどとんとんしとこ」


久万ちゃん図体のわりに細かいもん、と笑う久万であって久万でない誰か。

濡れたシャツとタオルを洗濯カゴに入れ、着替えを迷うことなく持って帰ってきているので、誰かが久万になりすましているとも考えにくい。しかし久万が斑に対してドッキリを仕掛けるなんてことは考えつかないし、意図してやる意味も分からない。

混乱しすぎてだんだんイラついてきた斑は、


「お腹減った」


考えることを放棄した。

なんだかよく分からないが、この誰かは安全だという確信があった。


「おっ、ええな! じゃあご飯作ろや!」


こうして、久万のようで久万でない誰かと斑による、夕飯作りがスタートしたのであった。





一緒に夕飯を作っていて分かったことは、この久万のようで久万でない誰か――誰久万と呼ぶことにしよう――は、性格だけが“誰か”になっているらしいということだけだった。


手際よく冷蔵庫から冷やし中華に必要なものを取り出し、数ある食器の中からいつも使うガラスの平皿を選んだまでは普段と変わらなかったのだが、なんというかすごく大ざっぱだった。

久万なら「見た目もおいしさの一つ」ときれいに盛り付けるのに対して、誰久万は「腹に入ったら一緒!」なタイプなのである。

まあ斑も気にしないタイプなのだが、久万の姿でやられるとどうも調子が狂ってしまう。


「よーしできたで! 味玉も乗せたしめっちゃ豪華やん! あ、マヨネーズとからしも忘れたらあかんな」

「マヨネーズ……? 冷やし中華に?」

「えっうそやん冷やし中華やで?」

「…?」


理解しきれていない斑に、誰久万はマヨネーズをずずいと差し出して力説する。ぜったい美味い、斑なら分かるはず、もう冷やし中華にからしマヨネーズはDNAレベル、とまで言われてしまった。その熱心さに、斑はかけられるがままのマヨネーズを、少しばかりのきゅうりとともに麺をスープと絡ませてすすった。


「……うま」

「せやろ~~~??? 味変したかったらからしもちょびっと付けてみ! まあ俺は久万ちゃんの体やからマヨはちょこっとにしとこ」


ピンクキャップやもんな…と誰久万は切なそうな顔をした。

しばらく冷やし中華をすするだけの無言の食事が続いていたが、麦茶をつぎ足しながら誰久万が尋ねる。


「……学校楽しい?」

「ふつう」

「ふつうて、仲いい子とかおるん?」

「? ……たぶん」

「たぶんてなんやねんたぶんて、クラスでよく話す子とかおらんの。お昼一緒に食べるとか、部活が一緒とか」

「あぁ……、いる」


ごくごくと麦茶を飲みながら答える斑に、誰久万は「どんな子なん、聞かして聞かして」と食いついてくる。

そういえば、久万からこんな風にしつこく聞かれたことがなかった。たいていの場合は遠回しで遠慮がちだったな思い返しつつ、斑は最後まで残しておいた味玉をほおばった。


「……同じクラスで、隣の席の女子なんだけど、こう…ぼんやり?に見えてしっかりしてる奴。休み時間に一緒にお菓子食べたりとかする。お昼もそういえば一緒に食べてるな……。あとその友達がよく来る。そいつにサラと音楽やってるって勘違いされててめんどくさい。……そういえば2号からクッキー貰ったっけ……あったあった」


斑は足で引き寄せたスクールバッグのポケットから、かわいく包装された手作りと思われるチョコチップクッキーを机の上に取り出す。「わ~手作りやん!」とにこにこしながら聞いていた誰久万だったが、ん?と動作を止めた。


「ちなみに、その子たちの名前は?」

「…………、アリスと、インコと2号」

「……、アリスちゃんとインコちゃんと2号ちゃんと仲がええんやな~、そうか~。そうかそうか」

「ごちそうさま」

「はいごちそうさまでした」


誰久万は久万がいつも見せるような複雑な表情をしながら、食べ終わった皿を片付け始める。斑も汗をかき始めた麦茶ボトルを野菜室にしまいつつ、なにかあるかなと物色する。そういえば先週お高いアイスをいくつか買って入れておいた気がする。斑は冷凍庫からバーゲンダッチデコのアーモンドキャラメルクッキー味を取り出し、少し考えてから、


「アイス食べる?」


と聞いてみた。いつもの久万なら食べないが、誰久万なら食べるかもしれない。


「んんー、じゃあ……一口もらおかな~なんてちゃって」

「わかった」

「えっええの?! あーんとかしてくれたり」

「大きいスプーンですくえばいい?」

「あっそやな……うん……おっきいスプーンで一口分もらおかな」


ものすごく残念そうな顔をしている誰久万を尻目に、がちゃがちゃとアイス用スプーンとカレー用スプーンを1本ずつ取り出す。誰久万は未だ残念そうな顔で、いつものように手際よく食器を食洗器に入れて鍋を洗っている。体が覚えていることも多いのだろう。アイスカップの蓋を外して、ぺりりとフィルムを剥がす。アイスはまだ固く、スプーンも通りそうにない。

このままずっと誰久万のままだったらどうしようかと、斑は頭の片隅で考え始めていた。


「まだカッチカチやろ。今のうちにお風呂沸かしてきてや」

「うん」

「栓したとは思うけど、一応見てきてな」

「わかった」

「あ! せっかくやし、一緒に入ったろか?」

「……いい」


やはり久万は久万のままがいいな。

風呂場まで栓を確認しに行きながら、そう思った斑だった。

部屋に戻ると誰久万はテーブルに座っていて、バラエティー番組を物珍しそうに見ている。斑も椅子に座り、少しだけ柔らかくなったアイスに力づくでスプーンをねじ込む。


「はい」

「ありがとう。お、なかなか旨いやん。アイス好きなん?」

「期間限定だから買ってみただけ。まあまあだね」

「今まで食べた中やったら、何味が一番やった?」

「……、覚えてない」


斑がそう答えると、やはり誰久万は複雑そうな表情のまま「そうかー」と呟き、数秒の沈黙の後、「よし!」と膝を叩いた。


「明日は学校ないんやろ」

「まあ、ないけど」

「今日は一緒に寝るで! 夜更かしトーク大会や!!」


そう、誰久万に満面の笑みで宣言された斑は、


「……、は?」


やはりしかめっつらで返事をしてしまうのであった。






/next!

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