レインフォール殺人器
▼とくに本編とは関係がない
▼みっつでひとつ(△鬼/△期/△器)
▼時間軸:本編中
―――
夏休み気分も抜け始めた頃――、
絶妙に可愛くないヤギのスタンプ爆弾に呼ばれて、斑は放課後の校舎を屋上へと向かっていた。風圧で少し重いドアノブを押し開けると、安全のため鉄柵から縁までの距離が広めに取られた狭苦しい屋上が目の前に広がる。その鉄柵の外側で、校則違反カラーのゆるふわツインテールが風にもてあそばれていた。
「……帰んないの、新聞部2号」
「……2号じゃないですよ、まだらんセンパイ。新聞部はもうないですし……、写真部も辞めちゃいました」
新聞部2号、もとい
あの日――、部活動のため工場地帯を訪れた地元女子高生が不審者に襲われそうになり、逃げる際に橋から転落するも軽症だったという事件が起こった。
実際のところサンは“開き”になっていて、場合によってはきれいに“並べられて”いたのかもしれない。そうなれば地方テレビの速報で流れ、新聞の片隅に連日詳細が載るほどの事件であっただろう。
しかしながら、斑が関わってしまった。
斑にしてみれば数分で終わった出来事であったが、この事件をもみ消すために杜松組とトイチが何日にもわたってあらゆる手を回し、斑が大目玉を食らったのは言うまでもない。
「センパイ、私ね、あんまりあの時のこと……覚えてないんです」
胸の高さほどのフェンスを飛び越えてサンの隣に立つと、四階分の高さの風景が広がっていた。二歩進んで覗き込んだ足元では、帰るであろう生徒たちがちらほらと裏門へと続く道を歩いている。ごうと追い風が一瞬吹いて、斑の前髪をくしゃくしゃにした。
「あの橋の近くならいい写真が撮れるかも~って思ったことぐらいしか記憶になくて……気が付いたら病院で『君は橋から落ちたんだよ』『軽傷でよかった』なんて言われて……。え?ってカンジですよね。お医者さんとか警察の人には、忘れるくらいショックなことだったんだから無理に思い出さなくていいからねって言われたんですけど……なんだかあの日から、私が私じゃないような、どこか自分っていうなにかがズレちゃったような気がして、もしかしたら……みんなが言ってる以上のことがあったんじゃないかなって……。朝起きて鏡を見たときとか、名前を呼ばれたときとか、ふとした時に自分じゃない“誰か”の感覚が襲ってきて……そんな私を見てる親もなんか気味悪がって……やっぱりどこか病気かもしれないとか話し合ってて……」
サンは橋から落ちたにしては軽傷だったものの、念のため数日入院していた。精密検査結果で特に異常なしであったことも、斑はトイチ経由で把握している。
(……ふむ、これは……アレか)
――記憶転移。
臓器移植によってドナーの記憶の一部が受給者に移る現象がみられることがある。らしい。
あの時、他に手段がなかったとはいえ、斑は適合率の高そうだった例の不審者をサンの繋ぎに使った。傷ついた組織と内臓の一部を少々、血液をしこたま奪い盗り、柔肌に残るであろう傷口は不審者に押し付けて事なきを得たと思っていたのだが――。どうやら、別の問題が発生してしまったらしい。
不思議なこともあるもんだとぼんやり考える斑のジャージの裾を、サンがぎゅっと掴む。
「さっき……、まだらんセンパイにスタンプ送る前、そこにね、立ってみたんです。もう、訳分かんなくなっちゃって。勢いで。そしたらぶわーって強い風が吹いてて、このまま飛んでもスカートが開いてふわふわ漂ってられるんじゃないかな~なんて思ったんですけど……。ふと下見たら遠くに見えてた地面がぐわーって近くに見えて、……あ、私死にたいわけじゃないって気づいたら、急に怖くなっちゃって。動けなくなっちゃいました」
センパイまだ帰ってなくてよかった、と困ったように笑うサンの表情は硬く、よくよく見ると少し青白い。斑は首筋をぽりぽりとかきながら、サンの隣に座り込んだ。
「相棒、また落とさないようにしなよ」
そう言って、所在なさげな一眼レフのネックストラップをサンの首にぽとりと掛ける。えへへと笑ってみせたサンの右手が震えているのをジャージ越しに感じて、ポケットから一口大の高級チョコレートを取り出した。気温のせいで少し柔らかくなっているそれを包装紙から取り出して、おもむろにサンの血の気のない口にねじ込む。
「むぐ!」
「まあ食べなよ」
「……、はひ」
まだ暑さの残る日陰のない屋上で5個ほど高級チョコレートをねじ込まれ続けたサンは、少しばかり気持ちが落ち着いてきたらしい。ほろほろと涙を流し、すんすんと鼻を鳴らしながら、喉が渇いたと小さくこぼした。斑はさらに取り出そうとしていたチョコレートをポケットに戻し、立ち上がってサンに右手を差し出す。飲み物買ってくるから、階段で待ってて、と。
その際、裏門に立っていた生徒指導の教師と視線がかち合ったような気がしたが……、深く考えないでおこう。
*
「まだらんセンパイって、やさしいですよね」
屋上前の階段でよく冷えた紙パックのレモンティーを受け取りながら、サンがぽつりと呟く。左隣に座った斑は、同じく紙パックのレモンティーにストローをぷすりと差しながら小首をかしげた。
「……よく分かんないけど、保護者に似たのかもしれない」
「……センパイは服装とか、危ない場所に行ったこととか、何も言われないんですか?」
「いや……、そんなに」
嘘である。
正確には口をすっぱくして言われているものの、まともに聞いていないだけである。
今日にいたっては杜松組若頭のはしご酒に付き合って朝帰りしており、上下指定ジャージにハイブランドのワイシャツで黒塗りの車で送迎という生徒指導部も頭を抱える状態で登校している。
「……私の家、お父さんが医者家系で、お母さんは薬剤師なんです。だからすごく過保護っていうか……。昔からああしなさいこうしなさい、それが将来的に一番良いからって。……正論だって頭では分かってるんです。分かってるんですけどね……。この髪も制服も、やってみたかったわけじゃなくて、手っ取り早く反抗したくてやったんです。新聞部だってそうです。廃部寸前の、ヘンな部長しかいない部なんかに入ったら親がイヤがるだろうな~なんて考えで入ったのに、意外と楽しくて……、カメラまで買っちゃいました」
1台目はセンパイを追っかけ取材してたときに壊しちゃいましたけどね!と、サンは少しだけ頬を緩ませる。紙パックにストローを差す手は、もう震えていないようだ。
「写真部、辞めなくてもよかったんじゃないの」
「あ~……、あんなことがあったから居づらくなったってのもあるんですけど……なんかダメなんです。前から興味があったこと、そこまで夢中になれないっていうか、人といるのが怖いっていうか……」
「――開いてみたくなる?」
どきりと、サンの体がこわばる。
泳いでいた目が斑を捉え、どうして知っているのかと訴えてくる。
「中身が知りたくなる、きれいに開いて並べたくなる、そういう気持ちになる?」
「……夢を、見るんです。私じゃない誰かの。プレゼントとかを開けるときに世界がキラキラ輝いてみえて、すごく幸せな夢……。でもどんどん、“違うモノ”を開けるようになってきて、それがすごく、リアルで……」
(現実でも不審者の視点が入り込んでくるわけか)
ずここ、とストローで空を吸い込んだ斑に、サンがにじり寄る。
「やっぱり、あの時、何かあったんじゃないですか?」
「知らないほうがいいこともあるよ」
「っ、でも、このままじゃ私……ずっとおかしいままです……」
消え入りそうな声で、サンは紙パックを両手で握りしめる。
サンが嘘をついているようには見えないが、記憶転移が本当にあるのかどうかは分からない。この先、血肉が入れ替わっていくうちに元のサンに戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。
(どちらにしても、このままじゃ不安定か)
半分は自分が原因なので、斑はめんどくさいながらも考えた。
要は、不審者の“開けたい”という欲求を、サンがうまく消化できればいいわけだ。
「――2号」
「サンですよ、まだらんセンパイ」
「サン、解剖医を目指さないか」
「え?」
かいぼう……?とサンがきょとんとする。
斑と同じく生徒指導部のブラックリストに入っているとはいえ、テストの成績自体は良かったはずだ。新聞部1号こと白谷銀太が自慢げに話していたような気がする。そしてサンの家系には医療従事者が多い。いばらの道……、なおかつ本人の希望とは食い違ってしまうかもしれないが、整えられた環境下で不審者の“開けたい”という欲求を丸め込むことも可能なのではないか、と斑は考えた。
「たいした怪我も目撃者も証拠もない、精密検査で異常もない。どう説明したってあの時本当はなにがあったかを説明できないから……、橋から落ちた拍子にサンの中に開封オバケが入ってしまったって前提で話すけど、」
「……それは……テキトーすぎませんかね……」
「その開封オバケは、強い意志を持ってサンの体を乗っ取ろうとしてる」
「う……、まぁ、それは……そうかも」
「そいつは開けたいって欲求だけのオバケだ。腕は良いかもしれないけど、無免許でやろうもんならそいつと同じ道を辿る。でも法医学医……、解剖に携われる仕事に就けば持ってる技術を生かせて、なおかつそいつの欲求を満たすことができる。かもしれない」
「……腕は、良い……」
「まあ、簡単な話じゃないけど。……――いや、最悪医師免許さえ取ってくれれば仕事を回せないことはないのか……?」
そうだ、国家資格さえ取ってくれればトイチ経由で仕事を回せるのでは……と思いついてしまった斑が、脳内でイマジナリー久万さん集団にそれは普通の女の子がする仕事じゃない、思い付きで行動するなとどやされていると、サンの手から紙パックの落ちる音がした。
「……、……まだら、ん、センパイ」
「なに?」
「――――――予約、できるかい?」
サンの声色が、少し熱を帯びたものに変わった。
水滴で塗れた指先がぬるりと斑の左頬に回される。とろけるような瞳で耳から首筋にかけてをゆっくりとなぞるサンに、斑は確信する。
(うわ、本当にいるのか)
「もし僕が君の言う通りになれたら……、そして君が僕より先に死ぬことがあったら……。僕に解剖させてくれるかい?」
サンは、いや、開封オバケはそう言って、恋する乙女のように微笑んだ。
首筋から右肩にかけてを指の背がするりとすべり、そのまま斑の空いている右手に自分の手を重ねる。
本当にこのサンという少女は運命の女神とやらに荒塩対応されてるな、と憐みの目を向けつつ、斑は開封オバケの手を軽く叩き落とした。斑が救おうとしたのはサンであり、若くて可愛い前科のない器をオバケに明け渡すためではない。
「悪いけど、死んだ後の予約は全部埋まってるんだ。爪のひと欠けも残ってないと思うよ」
「……、やっぱり君は、普通じゃないんだね」
まあそんな気はしていたけれど、と開封オバケは大げさにため息をつきながら足を組む。そして左膝の上に右ひじを置き、その指先で自分の顔の輪郭をひと撫でする。開封オバケが不審者だった頃によくやっていた癖なのだろう。動きとしては自然なのだが、中学校から卒業して数か月しかたっていないサンの体でやることによって、大人に憧れる少女の図になってしまっている。
「……サンに干渉しないようにはできないわけ?」
まさか本当に出てくるとは思っていなかった斑だが、念のため訊ねてみる。
「う~ん……、どうだろうなあ……。なにせ気が付いたら
腕前を褒められて興奮したら出てきてしまったよ、とオバケはさわやかに笑って見せたが斑の表情は眉一つ動かない。さらに向けられる冷え切った目線に、オバケは嬉しそうににっこり笑いながら続ける。
「でもまあ、そうだね、解剖医というのはいい考えだと思うよ。なにより今後も君との関わりも持てそうだ。誰彼構わず開けたい訳ではないけれど……、僕の尽きない欲求を満たしつつ、進路に悩んでいるこの子の一つの目標にもなる。win-winってやつだね」
なんて言いながらウインクまでする始末である。
あまりの面倒くささに、斑の脳内ではここ数日にわたって久万とトイチに浴びせられてきたお小言がフラッシュバックしていた。久万には「大切な後輩だから助けたかった」などと口から出まかせを言っておけば苦虫を嚙み潰したような顔で説教を終えてくれるのだが、トイチはそうはいかない。彼らは斑という存在を守るためにあれこれ手を尽くしてくれる組織だが、ボランティア精神でなんでもかんでもやってくれるわけではないのだ。不審者とはいえ、人が一人、しかもサンの代わりに開きになり死んでしまったことに対する“
「そんな顔しないでほしいなあ。君に嫌われたいわけじゃないんだ。むしろこれを機にお近づきになりたいと思ってる。……これでもそこそこ名のある大学を出た身だ。大学入試までなら、この子をサポートぐらいはできると思うよ」
だから、とオバケは続ける。
「僕に何かしらのメリットがあっても良いと思うんだけれど」
何しろ、君に殺されたヒガイシャだからね、と。
にっこりと、相手に条件を飲ませる営業用笑顔という商品名で売られていそうな顔で、オバケは斑を見つめる。
(はー……、めんどくさ……)
どうしてこう周りには変な奴しかいないのか、と斑は自分を棚に上げてため息をついた。
メリットが欲しいと言われても、望むようなカードは斑の手元にない。このオバケが在るべき肉体はとうの昔に“連続切り裂き魔の被害者”として焼かれてしまっているし、商売道具の類はすべて処分されてしまっている。さらには残された預貯金は“なにかあったときは両親と妹に”という偽りのメモを作り、あたかも家族想いの品行方正な青年が悲しい事件に巻き込まれ輝く未来を奪われた……という演出がトイチによってなされていた。そもそも連続切り裂き魔がオバケ自身だという事実をなきものにしてやった――正確には斑ではなくトイチが――というのに、一体何を望むというのか。
「さっきも言ったけど、この体はもう誰が開けるか、どうするかまで決まってるんだ。個人でどうこうできる問題じゃない」
「でもその誰かは、結局は人だと思うんだけれど」
「……、おじさんが開ける側まで登りつめるってこと?」
「! なれるのかい?」
「はあ? そう簡単になれるわけないじゃん。免許取りたてのひよっこなんて行っても門前払いだろうし。……というかそもそも、サンには関わってほしくない」
斑の最後の言葉に、オバケは唇を軽く触りながらふむふむと考え始める。
「それはどうしてだい?」
「サンは普通の女の子だから」
「じゃあ君は、どうしてそういう仕事に関りがあるんだい?」
「……、普通じゃないからだよ」
「君のいう普通って、どういったものだい?」
「……、……普通に高校行って、大学行って、就職して、親が安心することじゃないの」
斑は少し考えて、久万が口には出さないものの考えていそうなことを並べてみる。
この高校に途中から編入したのだって、久万の強い説得があったからだ。そうでなければ今頃斑は杜松組かトイチに所属していて、同年代の普通の子供との交流などなかっただろう。
「――なるほどね」
君は本当にアンバランスな子だね、とオバケは解ったような顔で微笑む。
一体何がここまでオバケの欲を掻き立てるのかは斑にはさっぱり見当がつかないが、本人が宣言した通りwin-winとやらを探してくれているらしい。うんうんとひとしきり唸った後、にっこりとした顔で斑を見た。
「よし、じゃあこうしよう」
*
「はい! まだらんセンパイはほうじ茶フラペチーノでしたよね」
「ありがと」
斑とサンは、新しくできた紅茶専門店で新作のフラペチーノとケーキを楽しんでいた。
「こっちこそ奢ってもらっちゃってありがとうございます! ケーキもおいしそう~! ね、まだらんセンパイ、わたしのと半分こしませんか」
「どっちも頼んでもよかったのに」
「センパイ知らないんですか~? 半分こするともっとおいしいんですよ! あ、この後ちょっとだけ本屋さん寄っても良いですか? 参考書欲しくて」
「いいよ」
あの放課後以降、“開封オバケ”はあまり姿を見せなくなったらしい。
サンはすっかり元の明るさを取り戻し、本当に斑の思い付き通り医大を目指して猛勉強しているようだ。なんでもサン曰く、マジ神とやらが下りてきたらしい。
あの日――、屋上前の階段で、斑はオバケと三つの約束をした。
『まず一つ。残念ながら僕はこの子から自主的に出ていくことはないし、干渉もする。これだけは見逃してほしいね』
『……は?』
『まあまあ、あせらず最後まで聞いてほしいな。二つ目は、干渉できることを利用して、この子の医大入学をサポートする。……この子の両親的には薬剤師か看護師あたりになってくれれば安泰と考えてるらしいけれど、それじゃあ君に手が届かない。僕がここに居座り続けるかぎり少なからず開けたいという欲求もあるだろうからね。どうだい? 君にもこの子にも、メリットのある要求だろう?』
『……おじさんがいなくなってくれれば全部うまく収まるんだけど』
『あはは、それはできない相談だね。そして最後に、――まあ、これはただのお願いなんだけれど』
――この子と、週一でいいから遊んであげてくれないかな。
そんなこんなで、二人は毎週金曜日、どこか適当に寄り道して帰るという放課後を過ごしていた。そんな取引があったとはつゆ知らず、斑の向かいの席で抹茶シトラスのフラペチーノを飲むサンは、おいしー!と上機嫌そうだ。
ただこうやって二人っきりで出かけていると――途中で興奮してくるのだろう、たまにオバケがしゃしゃり出てくるのだ。サンにしてみれば、さっきまで楽しく会話していたのに気づいたら家のソファーの上、というホラーな展開である。それでも本人は「センパイと帰るの楽しすぎて充電切れちゃうんですかね!」とポジティブだ。
フォークで器用に半分にされた二種類のケーキを口に運びながら、斑はまんざらでもないため息をついた。
「じゃあまだらんセンパイ、また学校で!」
「気をつけて帰りなよ、頼むから」
反対ホームの電車に乗るサンをドアの近くまで見送りながら、斑が発車ベルにかき消されないように念を押した。サンは心配しすぎですよ~と軽く笑いながら、閉まるドアの向こうでだんだん見えなくなっていく斑を見つめる。完全に見えなくなった斑からスマホに視線を移したサンは、ちらちらと目線を送る他校の男子生徒に眼もくれずフォトアプリを起動しながら隅の席へと足を運んだ。
(はぁ~……今日もまだらんセンパイ可愛かったな……)
“サン”という人間は、あの放課後以降変わりつつあった。
(一口食べたフォークでケーキ半分こにしたの気づいてたかな……飲み物もフツーに一口くれたから、あんまり気にしないタイプなのかも……。センパイたまに男物の香水の匂いがするから、こういうの慣れてるのかな……やだな……わたし以外の人にはしないで欲しいな……)
特に屋上前の階段で“開封オバケ”に完全に乗っ取られた瞬間、サンを今まで形作っていた心というものの輪郭が完全に崩れてしまったのだ。それまではサンの心を押し出して上手く体を乗っ取ってしまおうと考えていたオバケは、溶けだしたサンの心にどぷんと沈み、今やその一部となりつつある。
――これは考えていたより、長くは居られないかもしれないなあ。
サンの見る情景を映画でも観るように眺めながら、オバケは独りごちる。
――このまま……、このままこの子を半分乗っ取りながら生きていければ、斑君の側にいられる生き方を選べれば、僕の経験以上の素晴らしいことが起こるかもしれないと思ったのに。
厳しい両親のもとに生まれ、求められるままに進学し、求められるままに就職し、求められるままに好青年を演じてきたオバケは、少しばかりサンに同情と憤慨、もといもどかしさすら覚えていた。家庭環境的にも経済的にも恵まれていながら、あどけない反抗期で掴めたであろうチャンスを逃してしまっている、と。
私ならもっと上手くやれる。
私ならこの人生を最高のものにできる。
だからこそこのチャンスを逃してはならない、とオバケは考えていたのだが……。
――まさかこんな普通の女の子に素質があるなんてね。
元々サンの中には、斑を先輩として慕う感情が存在していた。それはサンが初めて斑という人物を見たときに覚えた、強さや自由への眩しさにも似た感情だった。
しかしその感情は心が崩れたのと同時によりどころを失い、あろうことか“開封オバケ”の『斑を開封したい』という強い感情と組み合わさってしまったのだ。
サンは大量に鍵付きで保存されている斑との――ことあるとごに強引に誘っては何枚も何枚も撮ったツーショットの自撮りを、とろけそうな表情で眺めながら画面上の斑を撫でる。斑の顔全体が写っているものは強制的に消去されてしまうため、新調したスニーカー、一緒にスイーツを持つ手やしがみ付いた腕、後姿など……、まともな写真はないのだが。
(はあ~~~~~…………まだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイまだらんセンパイ……! 好き……食べちゃいたいくらい好き……)
オバケは以前まで、“運命”だの“生まれた意味”なんてものは存在しないと考えていた。そんなモノが設定されているのは物語のキャラクターだけで、現実はそう思いたい人間だけが思い込んでいるだけだ、と。
けれど斑に内臓を撫でられ、サンという少女の中に存在してしまっている今、
――きっと僕は、この子を開花させるために生まれてきたんだな。
そう、思うようになっていた。
サンから流れてくるねっとりとした感情の濁流が、オバケをさらに心の深くへと追いやろうとする。このまま身をゆだねてしまえば、そう遠くない時期に完全にサンの一部――ただの感情の一つとなり果てるだろう。
しかしそうなってしまえば斑の一人勝ちだ。
だからこそオバケはしつこくサンにしがみつき、ことあるごとに干渉し、チャンスがあればサンの体を借りて“開封オバケ”として斑の記憶に残ろうとしていた。
――たとえこの子の感情の一つになってしまう結末だとしても。
その中でもとびっきりの劣情になってやる、と。
“開封オバケ”はサンの心の奥深くで、にっこりとほほ笑んだ。
/△器end
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