8話
翌日。朝。看護師が来る。
「おはようございます。気分はどうですか?」
加波子は素直に答える。
「あの、気持ち悪くなったりして、ご飯を食べるのが怖くて…。」
「悪阻ですね。」
そう言うと、看護師は説明する。悪阻の種類、その症状と対処方。丁寧に教えてくれた。加波子は勉強する。
「無理はせず、頑張っていきましょうね。」
「はい、ありがとうございます。」
実感ではなく、まだ不思議な感覚。加波子はそう感じていた。昼食は、目が美味しそうだと思ったものを、食べられるだけ食べた。そして、午後。婦長が来る。
「気分はどう?」
「…なんとか、大丈夫です。」
「それはよかったわ。」
婦長は続ける。
「さっき外科から連絡が入ったの。彼、平野さん。今朝、目が覚めたそうよ。」
「え…?…じゃあ…。」
「でもまだ、あなたと会わせる訳にはいかない。」
「どうして…。」
「強い衝撃を与えてしまうと、様態が急変してしまう恐れがあるの。いくらあなたでもね。今は絶対安静な状態。彼を信じて、待ちましょう。」
加波子に悲しむ時間はなかった。
「さぁ、あなたはこれから検診よ。あなたにはあなたの仕事があるの。」
妊娠の知識が全くない加波子。不安な心情で婦長に付いて行く。体重と血圧の測定から始まり、各検査を受ける。
その項目の中に腹部の超音波検査があった。医師は加波子の下腹部に検査用器具を当てる。モニターには何かが映っている。緊張する加波子。
「この白い部分が胎児です。大きさは15ミリですね。」
加波子は我が子を初めて見た。黒くて分厚い楕円形の円があり、その空洞の内側。隅に小さくくっついている、白いひょうたんのような形。確かにいる。加波子のお腹には、確かに亮との結晶が。驚きでも歓喜でも、感動でもない、それをもっともっと越えた、神秘を加波子は感じていた。
その写真を加波子はもらって病室に戻る。廊下を歩きながら加波子は婦長に語り掛ける。
「私、思い出したんです。あの日、妊娠検査薬を買いに行ったんです。その帰りに彼があんなことになってるって知って、すぐ彼を探しに行きました。検査薬はどこにもないから、きっとどこかで落として…。」
婦長は優しく語り返す。
「あなたが彼を想う気持ちはよくわかったわ。でもこれからは、彼を想うのと同じくらい、自分のことも想いなさい。あなたはもう、一人じゃないのよ。」
「はい…。」
部屋に戻った加波子は写真をずっと見ていた。ひとりベッドの上でずっと。そしてリュックから手帳を取り出し、写真をはさむ。
「亮…?待ってるからね…。」
加波子は手帳を枕元に置いて眠りにつく。
そして夜が明ける。看護師が来た。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
加波子は心身ともに少しずつ元気になってきていた。午後になり、婦長が来た。婦長は少し微笑んでいる。
「蓮美さんの担当医から連絡があって、あなたと会う許可が出たわ。よかったわね。」
「え…?」
「廊下は冷えるから、これを使いなさい。」
婦長は加波子にブランケットを貸してくれた。
加波子はこの日をどれだけ待ち望んでいたことか。しかしいざその時を迎えると、心の準備ができていなかったことに気づく。亮は今どんな姿なのか、話はできるのか、どんな顔をすればいいのか。嬉しい気持ちが、緊張と困惑に変化する。
加波子はブランケットを腕に巻き、婦長に付いて行く。外科病棟へと。
亮は集中治療室から一般病棟へ移っていた。外科病棟に着き、ある一室の扉の前に、1人、男性の医師が立っていた。とても凛としている医師だった。婦長は会釈をする。医師が言う。
「蓮美さんの担当医の
「おかげ様で、大丈夫です。」
「それはよかった。今、蓮美さんは様態も安定して、後は傷が治るのと体力の回復を待つだけです。もう大きな問題はないでしょう。」
それを聞いた加波子は目眩がした。その加波子の肩を、永井が掴んだ。
「これからも全力で支えていきます。だからあなたも、ご自身のことをちゃんとお考えください。」
「はい…。」
「では入りましょう。」
永井が扉を開ける。3人で病室に入る。そこは四人部屋。亮は一番奥のベッドだった。亮以外、誰もいない。ゆっくり進む。加波子の心の準備はできていない。まずは永井が亮に話し掛ける。
「蓮美さん、いいですか?」
カーテンを開けると、ベッドのリクライニングを上げ、窓の景色を遠い目で見る亮がいた。顔には2か所、大きな絆創膏。小さな切り傷が何か所もあった。腕には包帯が巻かれているのが袖の下から見える。手の甲も指まで傷だらけだった。
「あなたに会いたいという患者さんがいらして、会いにきてくれました。我々は一度退室しますが、何かありましたらすぐ呼んでください。」
永井と婦長は病室から出ていった。加波子と亮はふたりきりになる。加波子はゆっくりベッドに、亮に近づき、亮を見る。亮も加波子を見ている。
加波子は、どんな顔をしたらいいのかわからない表情で亮を見る。そして亮を確かめる。顔、肩、腕、手、胸、足。そして、瞳。何を言ったらいいのかもわからない。亮がどんな言葉を求めているのかも。
亮は生きていた。そしてやっと会えた。やっと。とても長かった。
「…亮…。」
加波子は嬉しいはずなのに、悲しい目と弱々しい声で亮を呼ぶ。そして亮の頬にそっと手を添える。痛々しい肌の頬に。亮はその加波子の手を握る。懐かしい愛おしい感触。
「…心配、かけたな…。」
安堵。それしかなかった。
加波子はベッドに座り、亮をやさしく抱きしめた。そして亮の胸で泣き崩れる。体が乾くほどの涙を流した。
そんな加波子の頭を、亮はずっとなでていた。亮も加波子と同じ気持ちでいた。どんな顔をすればいいか、何を言ったらいいのか。亮もわからなかったのだ。
落ち着いてきた加波子は椅子に座り、亮の手を両手で包む。
「痛い?」
「いや、大丈夫だ。」
その亮の声を聞き、安心して嬉しくなった加波子。また泣きそうになる。
「泣き虫め…。」
束の間。この時のふたりに、言葉などいらなかった。必要がなかった。お互いがお互いを確かめ合い、感じ合う。それが全てだった。
しばらくして病室の扉が開く。婦長が加波子を迎えにきた。
「また明日も、来ていいですか?」
「永井先生にお願いしないとね。」
加波子は自分の病室に帰る。帰りたくない。亮のそばにいたい。加波子は亮を何度も振り返りつつ、婦長に肩を組まれ帰っていった。
「よかったわね。」
「はい…。」
加波子と亮。ふたりの夜が明けた。
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