6話
加波子の向かう方向の途中に、交番があることを知っていた。加波子は駆け込む。
「暴行事件です!殺人になるかもしれない!早く探してください!」
警察官はまともに相手をしてくれない。
「あのねぇ、突然そんなこと言われてもね?」
加波子は聞く耳を持たず、デスクの地図を見る。
「場所は、線路が近くて相原工場の音が聞こえる所…。」
別の警察官が奥から言った。
「署にも同じような通報があったようだ。」
「じゃあ、詳しく教えてくれるかな?場所は…。」
「何度も言わせないで!時間がないの!」
加波子は地図を見たまま叫ぶ。地図を指でなぞる。
「今ここにいて、線路はこっち、工場はここ…。」
加波子は地図を頭に叩き込み、急いで交番を後にする。
そして走る。叩き込んだ地図を頼りに。10分、20分…。思い当たるような場所、思い浮かぶような立地、どこにもいない。
加波子は息を切らし、立ち止まる。手を膝に置く。背負ったリュックが斜めにずれる。中に入っている包丁とともに。
また加波子は走り出す。次第に頭の中の地図がぼやけ始める。自分の位置さえよくわからなくなってきた。その時、電車の走る音で加波子は目を覚ます。走り出す。どれだけ走っただろうか。加波子は立ち止まる。
とあるビルの裏手、人影らしきものが見えた気がした。まさかと思い、振り返り、そのビルを覗く。遠くに真っ赤な亮が見えた。
「亮!」
加波子には亮しか見えておらず、男の存在に気づいていなかった。加波子は亮に近づく。すると目の前に男が現れる。加波子と亮をはばむように。
「あんたがこいつの女か?」
電話の声の男だ。堂々と立つその男は、慈悲のない声、慈悲のない目。男の目を見ただけで、加波子は脅え、凍えるような思いがした。加波子は闇の人間を初めて見た。その恐怖はただならぬものだった。
「へー。けっこうかわいいじゃん。あとであそぼーぜ。でもその前にこっちだな。」
男は奥にいる亮へ近づく。加波子も近づき叫ぶ。
「亮!」
「あ。」
一言言って男は加波子に背を向けたまま止まる。加波子はビクッとする。男の考えが全くわからない。加波子は恐怖に脅える。
「おれこれ持ってた。忘れてた。」
男は加波子へ振り向く。何が何だか見当がつかないない加波子。奥には真っ赤な亮。ひどく遠く感じた。亮もこっちを見ている。壁にもたれ膝で立ち、こっちへ近づこうとしている。
「亮…。」
亮を見ていた加波子の視界に、大きなバタフライナイフが入る。さらに恐怖を感じ脅える加波子は少しだけ後ずさりする。男は動かない。加波子も負けじと動かない。男の目は決して変わることはない。加波子は男を睨む。
少しの沈黙。加波子はゆっくりと、でも確実に、手を動かす。リュックを開き、包んだタオルを出す。そしてタオルから包丁を出した。タオルがひらひら地面に落ちる。鋭いほうを男に向ける。これには驚く男。
「おれよりいーの持ってんじゃん。」
亮は壁に手を当て、ぐらつきながら立つ。
「やめろ…。」
亮の声は電車の音にかき消される。
加波子は包丁を握るのは二回目だ。しかし状況は全く違う。柄を握る手は震えている。男は亮に顔を向けて言う。
「おまえの女すげーな!やるなーおまえ!」
そして男の目線はまた加波子へ。
「それで?」
男は加波子に近づく。
「あいつに飯作って?」
さらに男は近づく。
「食わせてやってるのか?」
一歩、また一歩。ゆっくり男は加波子に近づく。近づく毎に目を開けていられなくなる加波子。怖い。加波子は怖くて怖くてたまらない。でも亮を守りたい。それだけは変わらない。
そしてついに包丁の一番鋭いところが男のスーツに触れる。加波子は怖くて動けない。男が次の一歩を動かす寸前。
「加波子!!お前がそんなもん持つなって言っただろ!!」
亮は叫んだ。加波子に届くよう、腹の底から思いっ切り。加波子はギュッと閉じていた目をパッと開き、手も開いた。包丁が地面に落ちる。
カラーン
小さな音が悲しく響く。涙が滲み出す加波子。息は震えている。
亮は亮を動かす。渾身の力を振り絞る。男に向かい、男を払いのける。そして加波子を強く抱きしめる。
「亮…。」
やっと亮に出会えた加波子。その感触、愛おしさが込み上げてくる。
加波子は亮の背に腕をまわす。すると加波子は左手に冷たいものを感じた。見てしまった。亮の背にナイフが刺さっている。背中と腰の間。確かに刺さっていた。男はそのナイフをさらに深く刺す。そして抜く。もう一度刺そうとした、その時。
パトカーのサイレンが鳴る。だが加波子の耳に入ることはない。男はすばやく立ち去る。そのナイフには血がべっとりついていたのを加波子は見た。崩れ落ちる亮。加波子は必死に支える。亮と亮の心を。しかし地面に倒れこむ亮。
「亮…しっかりして…。」
亮は目を閉じ動かない。加波子の声が届かない。
「亮!しっかりして!亮!…誰か…誰か来て!誰か!」
加波子は助けを求めた。そしてまた亮に叫ぶ。
「亮!目を開けて亮!亮!…誰か来て!誰か早く!誰かー!」
加波子は泣き叫ぶ。
「ここだー!!」
助けが来た。最初に来たのは航だった。工場の人々、警察官、レスキュー隊員。パトカー、救急車が来ていた。ライトが眩しくて目がくらむ。人でごった返す。それまでとは空気が一変する。
「怪我はありませんか?」
加波子はレスキュー隊員に聞かれ、亮と離されてしまう。亮から離れたくない加波子。
「私は大丈夫…。亮!」
レスキュー隊員に囲まれる亮。加波子と亮の距離がどんどん遠くなる。亮に近づくことができない。擦り抜けようとするが、逆に取り押さえられてしまう。
「落ち着いてください!」
「嫌!離して!離してってば!亮!亮…!」
加波子は意識を失い、倒れてしまう。そんな加波子を見た航はいたたまれない思い。そして何か踏んでいることに気づく。
カリッ
それは小さく叫んでいるように聞こえた。そっと足元を見る。包丁だ。加波子の持っていた包丁だった。
どう見てもごく一般的な料理包丁。横に目をやると真っ白なタオルがあった。どちらも汚れていない、何もついていない。航は即座に包丁をタオルで包み、服で隠す。そして叫び続ける。
「亮!しっかりしろ!亮!」
加波子と亮。ふたりの夜が始まる。
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