10話

 その後の2日間。亮からの連絡が全くない加波子は不安になる。


 亮はまめに連絡をしてくれる人ではないが、丸2日連絡がないことは初めてだった。電話はつながらない。ラインは既読にならない。加波子に不安が募る。


 仕事が終わりアパートに帰る加波子。入口に背の高い誰かが立っている。亮の先輩・わたるだ。加波子に気づく航。加波子はそっと挨拶をする。 


「どうも…。」


 すぐに航が言う。


「亮、知らないか?」

「え?」

「あいつ2日間、工場に来てないんだ。アパートにもいないらしい。あんた何か知らないか?」


 2日間。加波子にも連絡がなかった2日間。加波子は首を横に振りながら答える。


「いえ…何も知りません…。亮さんに何かあったんですか?」

「わからない…。とりあえずあんたにも聞いておこうと思って。そうだ、あんたの連絡先、教えてくれないか?あいつのためだ。」


 加波子と航は連絡先を交換した。亮の無事に意味があるものだと信じて。


 その後。加波子は何度、亮に電話をしただろう。何度、ため息をついただろう。


 それから1日が過ぎ、2日が過ぎた。航からの連絡はない。警察に相談したほうがいいのではないかと航にラインをする加波子。仕事から帰ってアパートの入り口に立ち止まる。あのキスをした日がひどく昔に思えた。


 そして階段を上る。踊り場で足が止まる。誰かいる。ドアの前に座っている。


 亮だ。加波子は直感した。駆け上がる加波子。やはり亮だった。顔は赤く腫れていて血も見えた。ドアに背をもたれているのがやっと、今にも倒れそうだった。亮も加波子を見ている。


 亮を見た加波子は、すぐ亮に抱きついた。亮の首元に腕を回し、きつくきつく抱きしめた。加波子の瞳から大粒の涙がこぼれる。


「会いたかった…!」


 言いたいことが凝縮された言葉だった。加波子の背に、亮は弱々しく手を当てた。加波子は囁き声で叫ぶ。


「…亮…!」


 亮が今ここに居ることを確かめるように、加波子は亮を抱きしめた。


 静かに腕をほどき、亮を見る加波子。亮の頬に触れようと手を近づけるが、触れられるような肌ではない。加波子は涙を拭き、亮の腕を支えながら立ち上がる。


 ふたりは部屋に入る。亮は壁にもたれ床に座る。つらそうな亮を見て加波子は気づく。この部屋に、亮の休まる場所がない。自分のシングルベッド1台しかない。加波子は慌てる。


「あ、私、布団買ってきます。お向かいさんが布団屋さんなんです。急いで買ってきますね。それから、救急箱はあるからそれでケガの応急処置はできたとして、それから、何か必要なもの…えっと…えーっと…。」


 あちこち慌てふためく加波子を見て、亮が初めて口を開く。


「おい…。」

「はい!」

「落ち着け…。」


 ハッとする加波子。加波子は亮を落ち着かせたかったのに、逆に亮が加波子を落ち着かせた。


「はい…。」


 加波子は部屋の鍵をテーブルに置く。


「鍵、ひとつしかないので置いておきます。」


 こんなことに意味はないだろう。でも亮がいなくならないようにと、加波子は願わずにはいられなかった。


「じゃあ、行ってきます。」


 加波子はすぐに帰ってきた。大きな荷物を抱えて。


「まずは傷の手当を…。」


 加波子はクローゼットから救急箱を出した。まずは消毒をする。出血部分はそっと拭いた。そしてガーゼや絆創膏を張る。亮が少しでも痛がることのないよう丁寧に。


「痛く、ないですか?」

「大丈夫だ…。」


 そして布団を敷く。


「『布団一式』って言ったらこれしかなくて…。」


 シングルの布団。真っ白な布団。柄も何もない。その上に亮が座り、壁にもたれる。加波子は床に座る。


「心配、しました…。工場の皆さんも…。」


 聞きたいことは山程あった。今までどこにいたのか。どうしていたのか。誰といたのか。どうしてこうなったのか。


 しかし加波子は聞かなかった。聞いてもどうにもならない、自分には何もできないと思ったからだ。


 無力だと思った。力になりたいなんて言っておきながら。そして愚かだと思った。亮の左手の小指を見て、覚悟していたつもりが、本当に『つもり』でしかなかったことを。


「休んでてください。」


 加波子はキッチンに行き、冷凍してあったご飯をレンジで温める。おにぎりを作った。ラップで包んだおにぎり三つ。冷蔵庫からお茶のペットボトルを1本出し、リビングに戻る。


 テーブルの上。亮の前におにぎりふたつとお茶を置く。もうひとつのおにぎりは加波子自身のもの。


「食欲、ないかもしれないですけど。」


 伏し目がちに言う加波子。加波子は再びキッチンへ行く。後片付けをするため、そして、凍りそうなほどの亮との緊張感から少しでも離れるために。本当は、ずっとそばに居たいのに。


 亮は加波子の作ったおにぎりをじっと見つめる。そしてひとつ食べた後、包んであったラップを上着のポケットにしまう。ペットボトルのお茶にも手をつけた。


 少し経って加波子がリビングに戻ると、亮のおにぎりがひとつ減っていることに気づく。加波子は安心した。


「具がないおにぎりでごめんなさい。材料がなくて…。」


 元気のない苦笑いをする加波子。表情はないが、おにぎりを見ながら亮は言う。


「お前、やさしいんだな…。」


 加波子は下を向き、何も言わずに首を横に振る。


「やさしいよ…。」


 加波子は何の言葉も出てこなかった。何もできなかった。亮のやさしさがやさしすぎて、亮らしくなくて悲しくて。そんな亮を見たくない加波子は下を向いたままでいた。


 L字になっている亮の布団と加波子のベッド。ふたりそれぞれに座っている。会話らしい会話はない。


 時間だけが無常に過ぎていく。でも確かに、今ふたりはここに居る、一緒に居る。それを加波子も亮も実感していた。ふたりの絆がそう感じさせていた。


 亮が横になった。加波子は寝る準備をする。日付が変わる少し前。加波子は立つ。


「電気、消しますね。」


 暗くなった部屋。静まった商店街の街灯の光がわずかに差す。ふたりはそれぞれ横になる。


「亮さん、ゆっくりできてますか?寒くないですか?」

「…大丈夫だ。もう寝ろ。」

「…はい、亮さんも…。おやすみなさい…。」


 加波子は眠らない。眠りたくなかった。亮がまたいなくなってしまうのではないかと、加波子は不安だった。


 亮は今、すぐそばに居るというのに。




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