11話

 未明。加波子にうとうと睡魔が少しづつ迫ってきた頃だった。亮は起き上がる。そして立ち上がった。さすがに気づいた加波子は起き上がり、思わず言う。


「どこ行くんですか?」

「…トイレ。」

「上着持ってですか?」


 亮は上着を手にしていた。加波子も立ち上がり、亮を止めようとする。未明。暗い部屋。加波子は叫ぶ。


「待って!」


 亮は歩みを止めずに玄関に向かう。加波子は亮の腕を掴み叫ぶ。


「こんな時間にどこへ行くんですか!」


 亮は加波子の手を振り払う。それでも加波子は諦めない。


「待ってください!」


 亮の腕を掴み、自分のほうへ引き寄せようとする加波子。


「行かないで!」

「離せ。」

「行かないでってば!」

「離せ!」


 亮は叫び、思いっ切り腕を振った。加波子の手は離れてしまう。男の力に女が勝てる訳がなかった。ふたりの間に距離ができる。


 遠ざかる亮。亮は玄関に向かい、スニーカーを履こうとしている。その間、加波子はキッチンから包丁を持ち、亮の前に立つ。加波子は包丁の鋭く尖ったほうを自分に向ける。


 柄を自分の左手で持ち、右手で亮の左手をとり、柄を握らせる。そしてその上から自分の右手を被せ深く握る。加波子の手は震えていた。


「どうしても行くなら、私を刺してからにしてください…。それくらい、簡単ですよね…?」


 息が上がる加波子に対して、亮はいつもの亮。そう加波子には見えた。こんな時に亮のらしさは見たくなかった。加波子は目を閉じ下を向く。


「早くしてください!」


 加波子は叫ぶ。


「目を開けたら、また行かないでって言っちゃうから…早く!」


 静寂の恐怖。恐怖の静寂。


 その後、亮は右手で加波子の手に触れる。ビクッとする加波子。亮は加波子の手を包丁から離そうとする。片手ずつ、ゆっくりと。その手つきはやさしかった。亮の手のぬくもり、加波子は胸が痛くなる。


 そして加波子の手から包丁が離れた。加波子は下を向いたまま目を開ける。包丁は亮がそっと横の棚に置いた。


「…お前が…こんなもん持つな…。」


 亮は加波子と目を合わせることなく言う。


「…必ず帰る…。ここに…必ず…。」


 加波子をすり抜けドアを開ける亮。


「亮!」


 加波子は叫ぶが既にドアは閉まっていた。


 加波子はドアに両手を当てる。頭を当てる。涙が出る。一体亮はどこへ行ったのか。一体自分はどうすればよかったのか。やりきれない想いがそこにあった。


 そして夜が明ける。加波子は仕事を休む。亮の寝ていた布団の上に加波子は座っていた。テレビはつけっぱなし。静かな部屋が怖かった。


 無心まま1日が過ぎようとしていた。テーブルには亮と自分のおにぎりはが一つずつ、お茶のペットボトルが1本置いてある。確かに亮はここに居た。


 そして夕方のニュース番組が始まった。ぼーっとしていた加波子の目が覚めるニュースが流れる。


 『今日午後5時頃、足立区の路上で男性に暴行したとして、28歳の男が逮捕されました。暴行罪の疑いで逮捕されたのは、足立区に住む会社員・蓮美 亮 容疑者です。蓮美容疑者は、今日午後5時頃、足立区保木間の路上で男性の顔や体を殴る蹴るなどして、暴行を加えた疑いが持たれています。蓮美容疑者は、容疑を認めているということです。次のニュースです…』


 この時、加波子の心の時計が止まった。



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