第3話

 キョウカはマナを刺した。

これは紛れもない事実である。

普通なら苦痛と恐怖に浸食され、表情が歪み、悲鳴をあげるだろう。

しかし、マナは悦に浸っているような微笑みをしている。

こいつは正気ではないと、キョウカは感じた。

自分が犯してしまった罪と、目の前の人物に対する恐怖に腰が抜ける。

握っていたカッターを手放し、再びその場に経たり込んだ。

決死の自衛も嘲笑われ、これ以上どうすることもできない。

カッターを突き刺すことにだけに、注力された思考も再び霧散する。

それとは対照的に蚊に刺されただけかのように余裕な笑みを浮かべていた。

脇腹には確かにカッターが刺さっているにもかかわらず、笑みを絶やさない。

それがより一層、キョウカの恐怖心を煽る。

纏まりのない思考の中で、恐怖だけが明確に渦巻いていた。


「合格だけど、惜しいわね。

刺すならちゃんと心臓狙わないと。

中途半端に痛めつけて殺さないなんて、むごいと思わない?

人を殺すときは助けを呼ばれる前に一発で確実に殺る。

暗殺の基本でしょ?」


 そう言ってマナは自身に刺さっているカッターを抜き取った。

刺さっていた冷たい刃が抜かれることで、せき止められてきた血液が滲み出す。

熱さが染みてくるような感覚が傷口に響く。

しかしマナは痛み以上に嬉しさと、退屈さを感じていた。

噂で聞いていた少女と同一人物であり、噂とは相違のある少女に刺された。

それ自体はマナが望んていたことに変わりはない。

だがそれも、自分が極限まで追い詰めたからである。

刺された後になってみれば、ただのマッチポンプだと気付く。

全部自分の一人遊びだと思い、マナの気分は萎えかけていた。

そして刃先2センチほどまで赤く染められた血液は月明かりに照らされる。

薄暗い土手の中でそれだけが光を反射し、より存在感が強調された。

そうすることで刺されたという事実だけを取り上げ、テンションの維持に努めた。


「あなたは私が思っていたより普通なのね。

数人ぐらいは刺してるのを期待していたのだけれど。

これは悲しい誤算ね。

それでも撤退せずに私に仕掛けてきた。

人を刺せない人は、どれだけ追いつめられても刺せない。

逃げられてもおかしくないと思っていたもの。

逃がさないけど。

これは不幸中の幸いだわ。」


 そういいながらマナは制服越しに傷口をさする。

傷口から感じる、染みるような熱い感覚を再度確認する。

今まで感じたことのない、それでいて期待を下回る感覚に神経を集中させる。

それは痛みを味わっていると言えるだろう。

苦痛を感じているはずなのに、表情は愛しい我が子を愛でるような慈愛に満ちていた。

キョウカは深く貫いた感覚があった。

マナの狂っているとしか思えない行動にキョウカは竦み上がる。


「まだ気付かないの?」


 マナはそう言うと着ているセーラー服を捲る。

本来なら傷口から血が流れている生身が見えるだが、それを遮る物があった。

それはマンガ雑誌でも、お守りでもない、コルセットだ。


「コルセット。

違和感とか感じなかったの?

明らかに肌を貫通した感覚ではないでしょ?

冬物制服着ていて汗をかいてないし、カッターについている血液も少ない。

推理できると思うのだけど。

あなたの役割は探偵ではないし仕方ないわね。

それとも、それに気付けないくらい私に夢中だったのかしら。」


 呆れたように肘を曲げ、指先を外側へと広げる。

当初マナは自ら種明かしをするつもりはなかった。

しかし思っていたように話が進まないことに飽き、口を滑らせた。

マナは当たり屋を自分と近しい存在だと思っていた。

その期待の大きさと、キョウカの思考とのギャップがマナには不満だった。

予想外のネタばらしにキョウカは豆鉄砲を食らったような顔をしていた。

それと同時に自分は人を殺めていないのだと気がゆるむ。

全身の緊張が抜けてポカン何も言わずマナの顔を見上げる。

一瞬の気のゆるみが、張りつめていた全身の力みをゆるませた。

脳も虚無といえるほどに思考がまっさらになる。


「勝手に安堵しているのに水を差すようで悪いのだけど、別にいい状況とはいえないと思うわよ。

私は生きているの、わかる?

つまりは遺体を隠すこともできないわけで。

私がもし警察に通報でもしたら殺人未遂であなたは牢屋行きよ?」


 マナはしゃがんで、キョウカに目線を合わせる。

そして両肩をつかんで真っ直ぐとキョウカと目を合わせた。

しかし多大な精神的疲労でキョウカは人の話を理解できるほどの余力は残っていない。

流石に虚ろな目をしているキョウカが、抜け殻と化していることにマナも気付く。


「でもね、私は優しいから許してあげる。

あなたが私を刺そうと、男に当たろうと、全部許容してあげるわ。

私、やさしいから。

キョウカは私の親友になりえる、選ばれた者よ。

誇って良いわ。

だから私の親友になりなさい。」


 マナは言葉を続けるが、キョウカに反応はない。

こうなってしまっては、マナにはどうすることもできない。

とりあえず和解したような言葉を並べ立て、話の方向を戻そうとしていた。

だがマナの発言は和解とは言い難く、まるで脅迫のようだ。

しかし思考を放棄し、無我の境地に達したキョウカには恐怖すらない。

言葉の意味も、理解できていないのだ。

ただ音に反応する玩具ように、キョウカは頷いた。


「ものわかりのいい子は好きよ。」


 そう言いながら、マナはキョウカにハグをした。

なんとなく和解したっぽい方向に持っていけて、マナは内心ホッとしていた。

キョウカは思考を放棄し頭が真っ白の中で、誰かに抱き寄せられる感覚。

状況や相手を認識する前に懐かしさを感じていた。

長い間愛情に触れることのなかったキョウカには、これさえ愛情のように感じた。

実際はマナはキョウカに愛情なんて抱いてはいない。

全てキョウカの勝手な思いこみである。

マナの言った"いい子"とは"都合のいい子"のことだ。

自分の思い通りに動いてくれる人形のようなもので、人に対して抱くべき感情ではない。

しかしキョウカは意図せずマナの傀儡になることを肯定してしまったのだ。

だが、それが過ちの始まりだったと、キョウカは気付いていなかった。


「せっかく親友なのだから、親友っぽいことをしましょうよ。

そうね、今晩私の家に泊まりに来なさい。

拒否権はないわ。」


 そう言うとマナは、カッターをキョウカに押し渡して立ち上がる。

そして月に向かって大きな背伸びをした。

流石にこのまま返すわけにはいかないとマナは思っていた。

だが、行く場所の検討もないので自宅に連れ込むことにしたのだ。

押しつけられたカッターをキョウカは無意識に袖口にしまう。


「何ポケッっとしているの?

立ちなさい。」


 そう言いながらマナはキョウカの手を引いて強引に立ち上がらせる。

そして手を引いたまま、マナの自宅に向けて歩き始めた。

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