試験前夜、アニはヘンリエッテとともに、最後の詰めをしていた。

アニが受かることは誰の目にも明らかだったが、父親との賭けに勝つためには、首席で受からなくてはならない。しかも入学試験よりも編入試験のほうが難しいのが一般的である。

だからこそアニは、一問たりとも間違えたくはなかった。


「――はい、そこまで。時間です」

「はー……、なんだか神経がすり切れちゃいそう」


試験さながらの練習をしていたアニは、ヘンリエッテの終了の合図とともに、机に突っ伏した。


「アニならきっと大丈夫ですよ。なんたって、ニコラウス先生の娘さんなんですから」


楽しそうに採点を始めたヘンリエッテは、自信満々に断言した。


「だといいんだけど……。 ?」


ふとアニが目線を上げたとき、ヘンリエッテの肩口に小さな青あざを見つけた。

そういえば、ヘンリエッテの体には青あざがよくできていたことを思い出した。腕、二の腕、肩口、背中、太もも、膝、ふくらはぎ……、何度か一緒にお風呂に入ったことがあるから、どこに多いかはすぐに分かった。

小さいため時間が経てば消えてしまうものの、あざはあざだ。


(……これは……もしかして……ううん……パパに限って……)


父親がヘンリエッテを虐めているのではないかと考えてしまったアニだが、虫を避けて歩く姿を思い出し、そんなはずはないと頭を振る。

アニは採点に夢中になっているヘンリエッテに怪しまれないように、服から露出している肌をくまなく見る。初めて会ったときより少し大胆な服を着るようになっていたものの、他にあざらしきものは見当たらなかった。


「ねぇ……、ヘンリー」

「はい?」

「その……、肩にあるあざって、どうしたの?」


アニが聞くとヘンリエッテは一瞬何のことだか分からないようだったが、みるみるうちに耳まで赤くして立ち上がった。


「へああああのこここっこ、これはですねあの! その! わ、私、生まれつき血小板が少ないのかそれとも働きが悪いのかはまったく分かりませんが青あざができやすい体質でして! そ、その、違うんです!」

「……え、何が?」

「いやいやいやいや違うのが違いました! や、やだ私ったらもう! 何を言っているんでしょう、恥ずかしい!」


ヘンリエッテは熟れたリンゴのように真っ赤で、明らかに混乱していた。そして採点用のペンを握りしめたまま、自分の部屋へと一目散に逃げ帰ってしまう。

どうやら虐められたわけではないのだと安心したアニだが、どうしてあんなに赤くなるのかは、さっぱり分からなかった。


「あざって……、もしかして、恥ずかしいものなの……?」


しばらく待っても、ヘンリエッテは帰ってきそうになかった。

アニは諦めたようにため息をついて、明日のためにもう寝てしまおうと立ち上がった。倒れ込んだベッドは、とてもやわらかくアニの体を受け入れてくれて、次第にふわふわしたような感覚に満たされていく。


(明日の試験に受かったら、レギは喜んでくれるかしら……)


いや、考えるまでもなく、喜んでくれるだろう。

だが、入学したところで、まだなにもレギの役には立てないのだ。


(もっと……、もっと、いろんなことを勉強しなくっちゃ)


ベッドに沈み込んでいくような感覚とともに、アニは眠りに落ちた。







「ヘンリー嬢……、大丈夫かい?」

「はぅっ! す、すみません!」


翌日、アニは父親に連れられて、馬車で学校へと向かった。

今日一日、父親は何の仕事も入れずにアニに付き添う予定らしい。

ヘンリエッテも今日は休みをもらっているのだが、落ち着かないらしいく、アニを送り出してすぐに塔へとやって来ていた。しかし心ここにあらず、といった感じで、書類をぶちまけたり、本につまづいてこけたり、階段から転げ落ちそうになっていた。


「怪我をするといけない……。今日はもう休んでいなさい」

「で、でも、何もしてないのも落ち着かなくてですね……」

「ふむ……」


顔を赤くしながらしどろもどろに答えるヘンリエッテに、レギは困ったように腕を組んだ。


「……では、アニが帰ってくるまで、私と話をするというのはどうだい? 少しは落ち着くだろう」


そう言って、レギはいつものソファーに腰掛け、空いているところをぽんぽんと叩く。ヘンリエッテの顔が、今までで一番真っ赤に染まった。びくりと震えた後、まったく動かなくもなってしまった。

昨日から様子のおかしいヘンリエッテだが、それには理由があった。


(ど、どどどどどどうしたらいいのかしらこんなとき! 横? レギナルトさんの横に座る? あんな近いところに? むりむりむりむりむり! お、落ち着いて私! 落ち着くのよ! あああああもう心臓止まって! 止まったら困るけど一旦止まって! 見たのは夢! ただの夢! レギナルトさんがわ、私に、私に…………、いやああぁぁぁぁぁああああ恥ずかしいいぃぃぃぃぃいいいっ!)


まぁそんなこんなで、ヘンリエッテ曰く恥ずかしい夢の中に、レギナルトが出てきたらしい。そしてアニに指摘された青あざは、夢の中でレギが触れたところだった。そして、今までできた青あざは、すべて、夢の中のレギが触れていた場所でもあった。


「……ヘンリー嬢……?」

(そうよ! レギナルトさんが私みたいな田舎者、相手にするわけがないじゃない! しかも年の差! 二十も歳の差があるのよ! レギナルトさんから見たら、私もアニと同じような女の子って見られてるんじゃないの? それに目が見えないし……でもそんなところが支えてあげたくなるけど……って! って! 恥ずかしい! 私すごい恥ずかしい! 穴があったら入りたい! あぁもう、私どうすればいいの?)


その夢によって、今まで以上にレギのことが気になってしまっているらしい。

混乱の末に導きだした答えは、


「あ、あの!」

「ん?」

「お、お茶でも入れてまいります!」


であった。


「ああ、よろしくお願いするよ」


レギの返事を待たないまま、ヘンリエッテは塔を飛び出していく。

唐突に一人になってしまったレギは、ソファーに深くもたれ、口元を緩めた。


「……ふむ、口をつける場所は、もう少し考えないといけないようだ」


きっとアニにも迷惑をかけただろう、と、すまなさそうに隣の席を撫でる。

ヘンリエッテの見た夢は、ただの夢ではなかった。父親――ニコラウスと、試験までは食べつくさないと約束はしていたが、毎晩少しずつ、アニへの支障が出ないように、ヘンリエッテのため込んだ知識を食べてはいた。


もちろん、ただ食事をしていただけなのだが。


「今頃、アニは試験中だろうか……」


レギにとって、ヘンリエッテは食べ物以外の何物でもなかった。


「ふふ……、アニ、かわいいアニ……。私は、どこまで我慢ができるだろうか……」


レギの口元は歪みきって、ざらざらと、その形がぶれる。ヘンリエッテが帰ってきたことで形は崩れるまでには至らなかったが、レギは、その軽い興奮を収めきれてはいなかった。


「まずいな……。お腹が減ってしまった」

「へ、あ、何かお茶菓子をもらってきますね!」

「いや……、」


アニは必ず、編入試験に首席で合格してみせるだろう。

レギは確信していた。きっと、ニコラウスも承知の上なのだろう。

そんなにアニを甘やかしていて、はたして守りきれるのだろうかと、レギは少し心配していたりもする。何の障害もなく得られる食べ物は、あまりおいしくない。


「……ヘンリエッテ」

「っは、はひ!」


レギはヘンリエッテの手を取り、腰を取り、自分の体に引き寄せる。

ヘンリエッテの顔はもちろん真っ赤で、煙でも出てきそうなほどだった。

レギはその首筋に顔を寄せ、口を付ける。もう少し熟れるのを待ってもよかったのだが、体中を蠢くような空腹感にはどうやら勝てそうにない、とレギは小さく息を吐いた。


「レ、レギナルト、さん」


その動作ごとにヘンリエッテはびくびくと体を震わせ、服越しに張り裂けそうな心臓の音が伝わってくる。


「…………、ひっ」


ヘンリエッテが、息を飲んだ。

あれほど真っ赤だった顔は見る見るうちに血の気を失い、レギから離れようと腕の中でもがく。その恐怖に染まった目が見つめている先には……、大量の――虫がいた。そしてそれはレギから湧き出ていて、レギという形が崩れるのに比例して数が増えていく。胸部から腹部にかけてなめらかな涙滴形をした、細長く、かつ偏平な小さな虫だ。翅はなく、頭部からは長い触角が伸びている。一対の尾毛と一本の細長い突起が後ろに生えており、それはまるで尻尾のようでもあった。表面は鱗片で一面埋めつくされており、動くたびランプの灯りをてらてらと不気味に反射する。


それは――、紙魚シミと呼ばれる、昆虫であった。


「な、何なんです、これ……。いや……いやよ、放してください!」


その言葉とともに、レギの形は完全に失われた。

ヘンリエッテは体にまとわりつく虫を払おうと腕を振り回すも、多すぎる数にすっかり平常心を失ってしまっていた。足元にも蠢く虫を避けようとしてバランスを崩し、床に――虫の上に倒れこんでしまった。


「ひっ! いやぁ!」


視界を染め上げる虫に、ヘンリエッテは涙を浮かべながら扉へと這いだす。耳のすぐ近くでぎちぎちと虫の這う音がする。進むごとに体の下で何かがつぶれるような感覚がする。体中を這いまわる虫は、払っても払ってもきりがない。それでも、ヘンリエッテはすがるような思いで扉の方へと手を伸ばした。


「だ、誰か……」

「誰も来ないよ、ヘンリエッテ。君も知っているだろう? ここの使用人たちが、どれだけこの塔を忌み嫌っているか。……それに、アニやニコがまだまだ帰ってこないということぐらい、利口な君は分かっているんじゃないのかい?」


虫の山から上半身だけ現れたレギは、白い両手で、逃げようとしているヘンリエッテの背中を押さえつけた。そしてくすくすと笑いながら、耳元で囁いた。


「さて……、どんな食べられ方が、お望みかな?」







***


日も暮れて、アニと父親が馬車で帰ってきたとき、ヘンリエッテが二人を迎えることはなかった。

使用人に聞いても一様に知らないと首を振り、屋敷中を探しまわっても見つからなかった。そういえばお昼近くに紅茶セットを持って出て行ったと、誰かが言った。アニは父親の制止を振り切り塔に駆け込む。だが、そこにはヘンリエッテはおろか、レギさえもいなかった。ランプはすべて消されており、真っ暗な湿った空間がぽっかりと口を開けているだけだった。


「アニ、アニ! 塔には入っては駄目だ」

「だって! ヘンリーがいないなんておかしいわ! ねぇ、パパだってそう思ってるんでしょう?」

「もちろんだ。……だが、これだけ探してもいないということは、屋敷の中にはいないということだろう。森の中を探すにしても、日が暮れていては危険だ。アニはもう帰りなさい」

「いやよ!」

「アニ! アニ、お願いだ。お前までいなくなってしまったら、僕はどうすればいい?」


父親の言葉に、アニはぎゅっと両手に力を入れた。

そして小さな声で謝って、しぶしぶと屋敷へと戻っていく。父親はアニを自室まで送り届けて、もう一度探してくる、と、屋敷を出た。


聞く相手は分かっていた。


――レギだ。


「レギナルト、いるのか?」


再び塔へと戻ってきた父親は、真っ暗な空間に問いかける。


「レギナルト、返事をしろ! ヘンリエッテはどうしたかと聞いている!」


その声は塔の中で響き渡ると同時に、ざらりと、どこかで重たい音がした。

そしてさらさらと音を立てて螺旋階段を下りてきたレギは、とても満足そうな笑みを浮かべていた。


「やあ、ニコ。おかえり」

「レギナルト……、お前、」

「ヘンリエッテのことだろう? 食べたよ、隅から隅まで。おかげで空腹が満たされた。……約束はアニが受かるまでだったが……、心配しなくとも受かるんだろう?」


レギの言葉に、ニコラウスは落胆の色を浮かべる。

大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。


「だからといって……」

「もう少し待ってほしかった、かい? ……そんなことを言われても、腹が減るのは、私にもどうにもできないからね。……あぁ、そういえば、入れ物はいるのかい? まだ消化しきってはいないが……、早く決めてもらわないと、お腹が重くてしかたがない」


レギはお腹の辺りをさすって、悪魔を見るかのような表情のニコラウスに問いかけた。







***


月日は流れ、父親との賭けに見事打ち勝ってから九年。

アニは今日、高等科を首席で卒業した。

父親は、


「やはり血は争えないな……」


と、悲しいやら嬉しいやらで涙を流していたが、アニは誰よりも先に、この嬉しさを伝えたい人がいた。

父親より先に屋敷に帰ってきたアニは、馬車から飛び降りて、そのまま塔へと向かう。フリル控え目な制服のスカートを両手で鷲掴みにして、ブーツで土をけり上げて、なりふり構わず塔にたどり着き、ドアを力いっぱい開けた。


「レギ! レギ! 聞いてちょうだい!」


その伝えたい人――レギは、いつもと変わらず、ソファーの上で本と戯れていた。

ここ数年のレギは、愛でるだけでは飽き足らず、本の山に埋もれてみたり、嗅いだり齧ったり舐めたりと、まるで本中毒者のような奇妙な行動を取っていた。

アニが年を取るごとに、それは進行していった。

本を読んでもらえるという期待感が、レギをそうさせているのだと思っていた。


「アニ、あぁ、アニか。どうしたんだい、そんなに慌てて」

「レギこそ、今日は一段とひどいわね……」


レギはソファーが埋もれるほどに本を置きざらしにして、その中で眠るように埋もれていた。アニは分厚い本で骨が折れてしまわないかと毎回心配するのだが、レギは何度言っても、いつの間にか本の中へと戻ってしまっているのである。

アニは何冊かの本をどけて、そこにかいま見えたレギの白い手を掴んで引っ張る。


「ほら、ちゃんと座りなさい。本踏んじゃったらどうするの」

「やれやれ、今日のアニは一段と怖いね」


ぼさぼさになった黒髪を整えながらも、レギは本を手放そうとしない。これは早いところ読んであげないと、本当に本を食べてしまいかねないだろう。アニは呆れながらレギをソファーに座らせて、鷲掴みにしてくしゃくしゃになったスカートを整える。そして小脇に抱えていた帽子を頭に載せて、


「ね、レギ、私、高等科を首席で卒業したのよ」


と、誇らしげに胸を張った。

後ろで緩くまとめられた亜麻色の髪に、自信と希望に満ち溢れた栗色の双眸、そして、首席卒業を示す帽子とローブを羽織ったアニは、少女と大人の女性、どちらでもないような雰囲気を漂わせた、とても美しい笑顔をレギに向けていた。

レギはぽかーんと口を開けていたが、初めて手から本を放し、満面の笑みに変わって立ち上がった。


「えへへー、すごいでしょ!」

「本当に、すごいと思うよ。……アニが一生懸命がんばったからだろうね」

「うん!」


アニはくるくると回った勢いのまま、突っ立っていたレギに抱きつく。よろけるかと思っていたレギの体は、意外にもあっさりとアニの体を受け止めた。


「とても…………、とてもすばらしい……」


レギは満面の笑みのまま、アニに顔を近づけ、そして――、

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