アニが古屋敷へと連れ帰られてひと月が経っただろうか。

その晩は、ひどい雨が降っていた。


夕方から降り出した雨は夜遅くになってもとどまることを知らず、むしろ激しさを増していた。

幾重にも重なった鉛色の雲から降り注ぐ雨粒は、窓を割らんばかりの勢いで叩いている。風は断末魔のようにびゅうびゅう、ごうごうと、泣き叫びながら森を吹き抜け、木々は躰をしならせ、ぎぎぎぎ、ざらざらと苦痛の声を上げている。


(眠れない……)


つい数時間前までは誰かの足音や会話が響いていたこの古屋敷も、夜中ともなれば静まりかえってしまう。十歳の少女が使うには広すぎるこの部屋で、雨音は容赦なくアニの不安をかき立て続けている。

なんとか寝てしまおうとベッドに潜り込むものの雨はさらに強くなり、遠くのほうから雷鳴が聞こえ始める始末。と同時に、稲光によって部屋中に映し出される奇妙な造形が、アニの恐怖心を一層煽っていた。


あの窓ガラスが割れてしまったら?

唸る風で屋敷が壊れてしまったら?

カーテンの向こう側から怖い人がやってきたら?

叫んでも、誰も助けにきてくれなかったら?


(どうしよう……、私は、どうすればいいの……?)


不安が募るたびに、シーツを握るアニの小さな手に力が入る。


(…………ママ……)


アニは何度目かの寝返りをうったが、しばらくして、諦めたように起き上がった。手探りでランプを点け、サイドチェアに開きっぱなしになっていた擦り切れた本を手に取り、続きから読み始める。

ページに羅列された文字を追うごとに、雨脚は強くなっていく。空と一緒に部屋の空気は沈み、すべての音は雨と一緒に地面にしみ込んでいくような感覚。


(私、世界から置いてきぼりなのね)


それでも、ランプが灯っていることに安心感を抱いていたアニは、窓の外を見てみたいと思った。考えてみれば、こんな大雨は生まれて初めてかもしれない。今までは母親の隣で安心して眠っていたから、気付かなかっただけかもしれないが。

アニは本をとじると、ベッドの脇に脱ぎ捨てていた靴に足を入れ、そっとカーテンの近くに歩み寄った。

窓には変わらず大粒の雨が叩きつけられていて、途切れることのない雨音がカーテン越しにアニの鼓膜を震わせる。たまにゆらりと影がうごめいて、アニをどきりとさせた。

アニは大きく深呼吸して、目をつむったままカーテンを勢いよく引っ張る。

窓の外には、荒れ狂ったような景色が広がっていた。

古屋敷に隣接する森の木々は吹き荒れる風によって縦横無尽に躰をしならせ、一枚の大きな黒い絨毯のようにも思えた。空にはどす黒い色をした雲が張り付いていて、小さな雲が低い位置で形を変えながら、西の方角へと動いてゆく。

以前ここから見た景色とどれほど違うだろうかとぼんやり考えていると、屋敷の裏にそびえ立っている塔が見えた。


「あ、」


誰かいる、とアニは思った。

その塔にある小さな日取り窓から、ちらちらと揺らめくランプの灯りが見えたのだ。

アニは窓に張り付いて、その光を凝視する。ガラス越しにアニの頬を凍ったように冷たい雨粒が叩いて、一瞬本当にガラスに張り付いてしまうのではないかと心配したが、それでも、その灯りが気になって仕方なかった。


(お父様かしら? こんな夜中に、何をしているのかしら……)


そのうちに灯りはか細い羽虫のように揺らめいて、しだいに見えなくなってしまった。アニはこれまでにも、この窓から塔を眺めたことがあった。だがいずれも灯りなどはなく、ひっそりとした倒壊寸前の塔でしかなかった。危ないから近づくなと言われていたアニだが、それが間違いであったことに気が付く。

と同時に、その塔への興味が湧いてきた。


(あの塔には、何があるのかしら……)


ぺとりと窓ガラスから剥がした頬は、氷のように冷たかった。


翌日、父親が不機嫌なまま街へと出かけて行ったのを見計らい、アニは塔へと向かった。

アニの父親は、名の知れた研究者らしい。

三十代前半で、精悍な顔立ちと優秀な頭脳を持つ父親は、貴族――特に、物好きな貴婦人たちの間ではもてはやされているらしかった。とは言っても、街での噂はあまりよいものではないらしく、父親がいない日の屋敷内で使用人たちがあれやこれやと噂話をしているのをよく見かけた。

夜な夜な死人をこの屋敷に運び込んでは、怪しげな儀式をしているらしい、だとか。

助手以外を塔に近づかせないのは、中に遺体がたくさんあるから、だとか。

身寄りのない人間を連れてきては、塔の地下室で切り刻んで食べている、だとか。

結局のところ彼女たちは、そういう噂話によって、何かしらのストレスを解消したいだけなのかもしれない。その対象は別に父親でも誰でもいいのだろう。ただ、たまたま父親だっただけなのだ。

アニはそんな彼女たちを横目に、屋敷の外へと続くドアを開ける。

搭は父親の研究室として使われていて、父親と、助手である限られた人間しか入ることが許されていない。父親はアニに関してまったく興味を持っていないように思えたが、この塔には近づくなと厳しく言いつけていた。

アニ自身も、ツタが絡まり、窓の数も少なく、オバケでも出てきそうな塔になど近づきたくはなかったのだが、時間が経つにつれて高まっていく好奇心には勝てなかった。


「お父様に知られなきゃ大丈夫よ、きっと」


アニは買い与えられた服の中で一番動きやすそうなものを選び、ランプとマッチをスカートの下に潜め、そろそろと屋敷の裏へと回った。何枚も神経質に重ねられたフリルとレースのスカートなんて嫌いだったアニも、荷物を隠せるという点では少し見直したようだ。

屋敷の裏には住み着きの使用人小屋と、庭師用のための小屋、馬小屋、そして塔がある。塔へは使用人小屋の横を通らなくてはならず、食事の用意にせわしなく動いている使用人たちに見つからないように、慎重に通り抜ける。こっそり誰にも知られないように塔に忍び込むという行為は、自然とアニの気分を高揚させていた。

この屋敷に来て以来、毎日のように同じような生活を繰り返していたからかもしれない。どうしようもなく弾む鼓動を感じながら、アニはついに塔の前へとたどり着いた。

塔の扉は、ツタの絡まった古びた外装とは違い、最近取り付けられたような真新しさを感じた。緑色の光沢を放つドアノブに手をかけたとき、ふと気がついた。


(……そういえば……、ここの鍵って開いてるのかしら?)


そう思ってしまった瞬間、心臓がギュッと握りしめられるような感覚に陥った。

ここに立っているところを使用人に見られれば、当然、父親の耳に入るだろう。

そしてどんな折檻を受けるかも分からない。

手足が次第に凍りついていくのを焦る心の片隅で感じていたが、もたもたしている暇もない。開かなかったら、そのときまた考えればいい。

アニはドアノブを握りなおし、力いっぱい押した。


すると想像していたよりもずっと少ない力で、扉は内側へと開いた。


同時に湿っぽい匂いがアニの鼻をついたが、ひるまず塔の中へと滑りこみ、そっと扉を閉める。


「……、」


簡単に入れてしまったことに、アニは拍子抜けした。

まだ暗い部屋に慣れていない目をこすりながら、辺りを見回す。

塔の中は、本と書類にまみれていた。窓も少なくランプもないと思っていたのだが、塔の上にある天窓と、父親が消し忘れたらしいランプがいくつか灯っていて、ぼんやりとだが塔の内部を知ることができた。塔の中は、日取り窓を避けるように本棚が壁一面に設置されており、ただでさえ狭い内部をより窮屈なものへと変えていた。また、その本を取るために設置されている螺旋階段と張り巡らされた支柱は、塔に張られたクモの巣のようにも思えた。塔の中央には書類や本が大量に放置された大きなデスクと、座り心地はさほどよさそうにもない大きなデスクチェアが置かれていた。

アニはそろりそろりと近づき、机の上の書類を盗み見る。

そこには見たこともない文字で綴られた文章や本が広げてあり、少しでも触れれば崩れ落ちてきそうな状態だった。まったく理解できそうにもない内容にアニは目をそらし、スカートの下からランプとマッチを取りだす。マッチを擦ってランプに火を点け、それを片手に塔の中を物色し始める。

本棚に入りきらずに床に放置されている本に注意を払いながら、その背表紙に目を通すも、どれも机の上と同じでまったく理解できそうにもなかった。


「なによ……、せっかくここまで来たのに。おもしろそうな物なんてなんにもないのね」


アニはがっかりというように肩をすくめ、持っていたランプを無造作に棚の上に置いた。塔内に反響してごとりと大きな音を立てたランプは、怪訝そうにその炎を揺らめかせて、本の背表紙をゆらゆらと照らし出す。


「…………ここに来れば、何か変わるかもしれないと思ってたのに……」


とんだ勘違いだったわ、ともう一度ため息をついた。

アニは本棚の間に埋め込まれるようにして置かれているソファーに倒れるように座り込んで、大きなため息をついた。頭上を埋め尽くす大量の本はひっそりと、だが冷静にアニの行動を見つめていた。


父親は、この塔で何をしていたのだろうか?

研究? どんなことを?

本だらけの塔でできること?


いくつもの疑問がアニの頭の中で浮かんでは、ため息とともに空気と溶け合った。するすると止めどなく伸びる螺旋階段を眺めていくうちに、ふと、違和感を覚えた。


「……?」


螺旋階段の上の方、――逆光であまりよく見えないものの、何かがそこに在った。

一つの黒い物体にも思えたし、小さな何かがより集まっているようにも思える何かは、するすると、階段を降りてきていた。


(誰かいる!)


アニは背筋が凍りつくような感覚に襲われた。

もし父親の助手ならば、見つかってしまうのはまずい。

今すぐ隠れるか、この塔から出なくてはならない。

頭の隅ではとるべき行動が明確に分かっているのに、なぜだろうか、体が、目線が、それが何なのかを知りたいと切望していた。アニはソファーに沈み込んだまま、ただただ、何かが螺旋階段を降りてくるのを見つめる。音もなく降りてくるそれは、腰まで伸びた漆黒の黒髪を持ち、服と同じ黒色の大きなガウンを羽織った、幽霊でもお化けでもなく――ただの人間だった。

一つ不可思議な点を挙げるとするならば、両目が包帯によって完全に覆われてしまっているということだろうか。

しかし目がまったく見えない状態にも関わらず、その黒い人はつまずきも、ふらつきもせずに足を運んでいた。とうとう一階まで降りてきてしまった黒い人は、足元に散乱している本をまるで見えているかのように避けて、アニのいる方へと一歩、また一歩と向かってきていた。口から飛び出てしまいそうな心臓を服の上から押さえつけながら、アニは興奮のままにその光景を刮目する。父親に内緒でこの塔へと来ているという軽い興奮状態は、アニの理性を少しばかり緩めてしまっていた。

黒い人はアニの座っているソファーの前まで来ると、ふと、その歩みを止めた。

そして小首をかしげて、包帯で見えないが目線をアニに合わせて、


「……おや? 誰かいるのかい?」


と、とても透き通った声で問いかけた。

その声は現実と幻想の狭間から這い出てきたような声で、まるで頭蓋骨に直接響いているようにも思えた。アニはごくり、と生唾を飲み込んでから、


「ええ、いるわ」


と、思っていたより小さな声で答えた。

黒い人は包帯越しに視線を泳がせて、アニが座っているソファーの辺りをゆっくりと見回した後、先ほどとは反対側に小首を傾げて、


「……さて、この屋敷にお嬢さんはいただろうか……」


と、呟いた。

顔の上半分が包帯で覆われているため、表情から感情を読み取ることはできない。だが、アニには黒い人が面白がって尋ねているように思えた。


「お嬢さんじゃなくて、アニよ。私の名前、アニっていうの」

「アニ、か。……ふぅむ、どこかで聞いたことがあるような……」


アニが名前を口にすると、黒い人は先ほどと同じような表情のまま、思案するように右手を口元に寄せる。その仕草に合わせてさらりと揺れる黒髪は、まるで絹糸のようにやわらかそうだ。


「お父様はこの屋敷の主だから、それでじゃないかしら」

「ほぅ、それはそれは……」

「ねぇ、」


納得したように、少しだけ口元をほころばせて頷く黒い人に、アニは尋ねる。


「……あなたは、だあれ?」


黒い人は、満面の笑みをこぼした。


「私の名前はレギナルト。……どうぞ、レギと呼んでくれ」


そう言って、丁寧に、そして華麗にお辞儀をして見せた。

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