レギは、もともとは父親と一緒に研究をしていたそうだ。

だが病で目が見えなくなってしまい、それ以来この塔で相談役として住ませてもらっている、と言った。昨晩アニが見た灯りは父親とレギが会っていたときのものだろうし、この塔にはアニが思っているような興味深いものは一つもない、とも苦笑しながら言った。


「なあんだ、つまんない」


そう言ってしまいながら、アニは、そこまでつまらないわけではないと感じていることに気が付いた。

ソファーの横には真っ黒なレギが、本を撫でながら座っている。目は見えていないはずなのに、アニの視線に気が付いたのか「ん?」と、耳に心地いい声とともに振り向いてくれた。

アニはレギに対して、急速に親近感を抱き始めていた。それはレギからする甘いような温かいような匂いのせいかもしれなかったし、忙しそうにしてアニのことなど二の次にしている父親とは違って存在をちゃんと認めてくれているせいかもしれなかった。


「ね、レギは塔の中で毎日なにをしているの?」

「そうだね……、本を愛でているよ。こんなふうにね」


レギは背表紙を撫でながら答えた。

その手は陶器のように白く、浮き出た青白い血管が、レギの印象を儚いものにしている。よくよく観察してみると、真っ黒な服とガウンの下からのぞくレギの体には、贅肉というものが存在しているようには思えなかった。骨の上に遠慮がちに添えられた筋肉と脂肪は折り重なりあい、折れてしまいそうな、それでいて男性的な四肢を作り上げている。


「撫でるだけ?」


長い指先が表紙の端をするすると撫でるのを見つめながら、アニは尋ねる。


「……この通り、目が見えないからね」


レギは口元をやんわりゆるめて、くすくすと楽しそうに笑う。


「こんなふうに表紙を撫でて、一枚一枚ページをめくって、紙の感触を確かめて、たまに鼻を近づけてみたりして……。それくらいしか、私には本を楽しむ方法がないからね」


まだ目が見えていた頃は、それはもうたくさんの本を読んだらしい。アニの父親とよく図書館に行っては本を借りて読んでを繰り返し、どちらが先に制覇するかだなんて馬鹿なことで競い合ったと、懐かしむような口調で言った。

それほど本が好きだった人間が、ある日突然目が見えなくなってしまった時の失望感を、アニは想像してみた。それはただの空想で、まったく現実味を帯びなかった。それでもアニは、大切なものを失った時の喪失感だけは理解できた。


「……私が読む、」


考えるよりも先に、口から言葉がこぼれ出していた。


「レギの代わりに、私が読んであげるわ。そうすれば、レギは本の内容を知ることができるでしょ? そうすれば、レギはまた本を読めることになるでしょ?」


アニは自分でも、どうしてそんなに必死になっているかがよく分からなかった。だが、何かレギに対してしてあげたいと、強く感じていたのだ。


「……ふふ、それはとてもありがたいけど、その気持ちだけもらっておくよ」

「どうして?」

「アニ、君は……、外国語が読めるのかい?」


まったくもって、レギの言う通りであった。

うなだれるアニを慰めていると、レギが屋敷から漂ってくる匂いに顔を上げた。アニもそのおいしそうな香りに気が付いたらしく、はっと顔を上げる。


「あ、いけない! レギ、今何時か分かる?」

「うーん……、残念なことに、分からないね。でも、もうすぐ昼食の時間だということは分かるよ」

「私、帰らなきゃ……」


そう言って、少し上目使いでレギを見た。

お腹は空いているものの、広いダイニングで食事をするのはアニ一人だけ。使用人は台所でしゃべりながら食べるだろうし、父親はいつ帰ってくるかも分からない。それに帰ってきたとしても、食事中には一言もしゃべろうとはしないのだ。


「……ね、レギはいつご飯を食べるの?」


レギはアニの意図を察したのか、少し困ったように笑って、


「毎日ここで食べているよ。私はあまり屋敷の使用人たちが好きではないからね。……それに、ニコ――父親にここへ来ていることが知れたら、きっと叱られるだろう? ここに来るなと言われているんじゃないのかい?」

「う」


アニは、父親が「塔には近づくな」と言ったときの、怒っているような顔を思い出して、少しぞっとした。


「だからねアニ、一緒に食べることはできないんだ。すまないね」

「……、別に、レギが謝ることじゃ……」

「よしよし」


レギは再びうなだれてしまったアニの頭を撫でる。

しばらく大人しく撫でられていたアニだったが、尖らせていた唇をむりやり笑顔に変えると、すくっと立ち上がった。そして本棚に置きっぱなしにしていたランプを消し、マッチとともにスカートの下へとしまい込む。


「帰るのかい?」

「うん。でも、また来るからね!」

「……ふふ、父親や使用人に、見つからないように気をつけるんだよ」

「もちろんよ。……あ、レギ、今日のことは二人だけの秘密だからね。約束よ?」

「あぁ、もちろんだとも。アニも、日が暮れてからは危ないから、ここに来ようと思ってはいけないよ?」


アニとレギは小指をからませて、くすりと笑いあった。

そしてレギに見送られながら、アニは来たときと同じようにするりと扉をくぐり抜けて、誰にも見つからないように帰っていった。


アニを見送ったレギは、しばらくその場から動くことはなかった。

日が暮れて空が紅に染まっても、星や月が輝きはじめても、膝の上の本をやさしくなでながら、口元を大きくゆがませて何かを待っていた。

しばらくして、塔の扉が乱暴に開く。


「レギナルト。今帰ったぞ」

「やあ、おかえり。ニコ」


大きなため息をつきながらレギの名を呼んだのは、アニの父親――ニコラウスであった。持っていた荷物やローブを塔中央のデスク横に乱雑に置き、デスクチェアに全身を預けると、後から荷物を持って入ってきた女性を近くへ呼び寄せる。

そしてソファーに座ったままのレギを指し、


「彼がレギナルトだ。年は僕より少し下だったか? 盲目だが、知識は僕に引けを取らないだろう。いつもはこの塔の管理を任せている」


と、ぶっきらぼうに言い放った。

まだ二十歳そこそこであろう知的な雰囲気を持ち合わせた女性は、少し赤らんだ顔で、レギに大きくお辞儀をした。肩まで伸びた栗色の髪が、動作に合わせて慌ただしく動く。


「こ、こんばんは! ふふふつつか者ですが、よろしくお願いします!」

「こんばんは、お嬢さん」


レギはほほ笑んであいさつし、ニコラウスを包帯越しに見た。


「彼女――ヘンリエッテには、今日から私の助手として働いてもらうことになった。高等部は首席で卒業したらしいが、弟の教育費のために大学には行かれずに教師として働いていたそうだ。とても優秀な女性だ。……普段は私と一緒に街や研究会、呼ばれれば食事会にも連れていくが、日が暮れてからはここで勉強させようと思っている。…………レギナルト、手伝ってくれるか」

「もちろんだとも。……彼女が優秀なのは、言われなくとも分かるよ、ニコ」


その言葉に怪訝そうに眉をひそめたニコラウスだが、ヘンリエッテのお腹が小さくなったことで、


「まずは食事としようか」


と、屋敷へと導く。

さらに顔を赤くしたヘンリエッテだが、動こうとしないレギに気付いて、


「あ、あの、ニコラウス先生。レギナルトさんはご一緒しなくてもよろしいんですか?」


と、扉に手をかけたニコラウスに尋ねた。


「ん? あぁ……レギナルトは――」

「いいのだよ、ヘンリエッテ嬢。屋敷までの道は、私には危険だらけだからね。いつもここに届けてもらうのだよ」

「そ、そうなんですか? でも一人だと、せっかくのお食事もそっけなくなりませんか?」

「慣れているから…………、ふふ、だから心配せずに、たくさん食べてきなさい」


レギの言葉とお腹の虫の声が重なり、ヘンリエッテは耳まで赤くなってしまった。

やれやれとため息をついたニコラウスに連れられて、ヘンリエッテはダイニングへと向かう。二人を送り出した後、レギはふと、アニの言っていたことを思い出した。


「ふぅむ……、食事は一人では寂しい、か」


そんなことなど考えたこともなかったが、少しして、それもそうだと納得した。


「そうか……。そういえば私は、一人で食事をしたことなどなかったのか」


そう言って口元を歪めたレギは、二人が帰ってくるのを、本を愛でながらひっそりと待ち続けた。







次の日も、その次の日も、父親が出かけたのを見計らって、アニは塔へと向かった。

レギの言うとおり外国語は読めないし、専門用語なんてひとかけらも理解できない。読めたとしてもその本の内容が難しすぎて、誰かに読んであげるというよりは呪文を唱えるようなことになってしまうだろう。それでもアニは、レギと一緒にいることに嬉しさを覚えていた。レギもアニが塔へとこっそり来ることを心配こそしていたものの、頭ごなしにとがめるようなこともしなかった。

いつものように黒い姿でソファーに腰掛け、膝の上に載せた本を愛でながら、アニを笑顔で迎えてくれた。

きっとレギも一人ではさびしいんだわ、と、アニは思っていた。


「レギ! レギ! 今日は本を読んであげる!」


アニは手慣れたように塔にするりと入り込んで、先にソファーに座っていたレギのもとへと駆け寄った。その脇には、読み込まれた一冊の本が携えられていた。


「おやおや、珍しいこともあるものだね」

「本っていっても、童話なの。でもきっと面白いわ。ね、聞きたい?」

「ふふ、もちろんだとも」


最近、父親は街へと出かけていくばかりで、あまり屋敷にはいない。

一昨日くらいに新しくやってきた助手のお姉さんも、――せっかく話し相手ができると思ったのに――ほとんど紹介がないままだ。

助手の数は、アニがこの屋敷に連れてこられた時には四人いたはずだったのだが、今では半分の二人に減っていた。いつ、どうして辞めてしまったのかは知らないが、そのせいで父親の仕事の量がより多くなったらしい。

そのおかげで、アニはほぼ毎日のようにレギのもとへと通うことができた。


「じゃあ読んであげる!」


アニは上機嫌に答えて、レギの横へと腰掛ける。

レギはアニの持ってきた本にすっと手を伸ばし、その擦り切れている表紙や紙をおそるおそる撫でた。


「ずいぶん読み込んでいるね。……もしかして、とても大切な本なのかい?」

「ママが六歳の誕生日に買ってくれたの。『アニが、本を大好きな女の子になってくれますように』って、裏表紙に書いてあるのよ」

「アニは……、お母さんが大好きなんだね」

「大好き! 世界中で、いっちばん大好きな人よ!」

「ふむ」


レギは口角を少しだけ上げて、ほほ笑むようにしてアニを見ていた。

アニはそれを見て、ちょっとこそばゆいような、泣きだしたいような気持にかられた。でも急に泣いてしまったらレギはきっと困るに違いない。急いで本の表紙を開き、いつか母親が読み聞かせてくれたように物語を読み始める。

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