109 次から次へと
正確には、ヒザキはナタリーの名前を知っていた。ただし間違っていた。そして彼は間違っていると薄々気付いていたようだ。
何故そんな間違いが起きたかというと、マルガレータがたまに「ブラッディー」とあだ名で呼んでいたからだ。ナタリーの名を呼ぶのはマルガレータが多く、次に呼ぶ可能性の高いマリウスときたら、照れがあるのか滅多に彼女の名を呼ばない。そのせいで、ヒザキは勘違いしたのだ。
確かにブラッディーというのは人名らしくない。仮の名が定着してという可能性も考えたそうだが、シエーロは都市である。しかも神殿が幅を利かせる有名な都市で、誕生の儀を受けない子がいるとは考えられない。
ヒザキはそれに気付いて名前を口にしなかった。
皆、白けた顔でヒザキを見た。
唯一、後を追ってきたマリウスの母親とナタリーの両親、近所の人たちが「そう言えばそんなあだ名だったねえ」とのんびり話をしている。思い出話に花が咲くぐらい、その場は落ち着きを取り戻していた。
ヒザキは呆けたように、がっくり項垂れた。その首根っこを掴んで、エイフが外に連れ出す。仲間三人は自力で出ていった。
クリスは追いかけながら「弁償してね」と声を掛けた。
振り返ったアルフレッドが小さく頷く。マユユが嫌そうな顔をするので、クリスが拳を強く握るとコウタが慌てて首を縦に振った。なんだかんだで仲間思いのようだ。
しかし、これで終わりではなかった。
ようやく騒ぎが落ち着いたとホッとしたところに、次の騒ぎがやって来たのだ。
「ち、地下の水が、消えたっ?」
役人の男が叫んだ。どこからか通信が入ったらしく、慌てている。彼はキョロキョロし、エイフを見付けると縋り付いた。
「お願いしますお願いします! 大事な水が! 虫が発生して!!」
「あー、分かった、分かったから! おい、誰かギルドに行って緊急要請だ。行政からも連絡は来てるだろうが、陣頭指揮を執ってもらえ」
「ち、地下の泉が!」
「うるさい! 神殿に行くぞ、誰か案内ができる者はいないか?」
「あ、わたしたちが!」
手を挙げたのはナタリーの両親だ。エイフは頷いた。それからニホン組の四人に目を向ける。
「お前たちも来い。魔物討伐、やってもらうぞ?」
「は、はいっ!」
「仕方ないわね。あたしの強化スキルがないと皆困るだろうしね」
「……俺も盾士として頑張る」
最後にヒザキへ皆の視線が集まった。彼はぶすくれた顔をしたものの、小さく頷いた。
「始末した魔物を運ばないと汚染されるんだろ。分かってるよ……」
皆がホッとして、それぞれに動き出した。
エイフはあちこちに指示を飛ばして、最後にクリスを見る。
「大事な仕事を頼みたい」
「え、わたし?」
今回、クリスは関係ないと思っていた。強制指名依頼は個人に来ていたし、いくらパーティーメンバーでも個人の級数が低いと断ることができる。実際、クリスは足手まといだろうと思っていた。たとえ紋様紙を持っていたとしても。
けれど、エイフの考えは違った。彼はクリスを遊撃として扱ったのだ。
「地下の泉にも異常はあるだろう。だが、俺は巨樹の天辺にも何かあるんじゃないかと思っている。トルネリ家だけじゃなく、他の守護家の木にも些細だが異変があるらしい。何か連動しているかもしれないんだ。俺の勘で申し訳ないが、見てきてほしい。クリスしか無理なんだ。俺だと上部にまでしか入れない。その上の天辺には誰も入れないんだ。領主でさえも」
「え、そうなの? って、待って。そんな場所どうやって入れば……」
「そこにいるだろ、パスを持ってる大物が」
その視線がクリスの頭上へ向かう。もぞもぞと動くハネロクが、ワクワクし始めた。
「……嘘だよね? 待って、わたし、だって」
「あとのことは任せておけ。大丈夫だ。精霊を味方にしたクリスが一番強い」
「でも――」
「『女は度胸』なんだろ? 領主が何か言ってきても、巨樹の一大事だったと言えばいいさ。任せておけ。ニホン組に絡めりゃ、なんとでも言い逃れできる」
「そ、それはどうかなー」
クリスが及び腰なのは、一人で行くのが怖いというのもある。が、一番は、エイフの言い方だ。嫌な予感しかない。
「ハネロク、お前の大事なクリスを絶対に落とすなよ?」
「※※※※※!!」
「ピッ」
「あ、イサ!」
「ほら、イサも来てくれたぞ。プルピもいるんだろう? よしよし。じゃ、任せた。あいつらに見られたくないだろうから、俺はもう行く」
「エイフ~」
「だけど、無理だと思ったら逃げろ。俺が行くまで隠れてるんだ。分かったな?」
「う、うん……」
「大丈夫。お前ならできる」
そうまで言われたら、彼の指示を受け入れるしかない。
クリスは肩を落としてエイフを見送った。
ハネロクが空気を読んで飛ぶのを待ってくれている間に、なんとか風向きが変わらないか考えていたクリスの前に、助っ人が現れた。
マリウスだった。
彼だけ、様子を見るために出てきたようだ。そっと覗いていたところ、エイフに見付かって目交ぜで頼まれたらしい。
「えっ、そんなのどうやって? 以心伝心とか、二人は付き合ってるの?」
「……クリス、頭、大丈夫か?」
「だって!」
「分かった分かった。じゃ、ククリを呼ぼうぜ」
「あっ、そうだよ。何も飛ばなくたってククリがいたんだ! マリウス賢い!」
思わずテンション高くなったクリスである。
テンションが下がったのはハネロクだ。しょんぼり感が漂ってきて、クリスは必死で慰めた。
クリスたちは一度ナタリーの家に戻った。
そこで必要な装備を用意する。クリスの場合は腰ポーチがあるのでほぼ問題ない。
マリウスを待っている間、クリスは隠し部屋に入った。ナタリーに事情を説明するとホッと胸を撫で下ろしている。マリウスがなかなか帰ってこないので気が気でなかったようだ。
事情を説明し、しばらくは彼等が来ないこと。ただし、いつ戻るかしれないので注意をと告げた。まだ完全に改心したとは言えないからだ。念には念を入れる。
なんだったら職場にいた方がいいかもしれない。
一人でこんなところに隠れているより精神的にはずっといい。
クリスが勧めると、彼女も少し思案してから「そうね!」と前向きになった。
それから解体室に向かってマリウスに驚かれながら、戻ってきた。彼女の手には巨大な包丁とノコギリがあった。
「……えっと、それ、武器?」
「あら、そうね。そうとも言うわね! そうよ、これがわたしの武器!」
巨大包丁片手ににっこり微笑むナタリーを見て、クリスは彼女のあだ名がブラッディーだった理由に思い至ったのだった。
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