第五話 お寺の老婆

 それは、私の息子がまだ小さかった頃。


 福井県に有るとある宗派の総本山の大きなお寺を訪ねた時の事。

 季節は春。とても天気も良く、空はどこまでも澄んでいた。

 何て大きなお寺だろうと感心しつつ、見学者用の順路に沿って私達親子は歩き始めた。お昼ご飯も終えて、幼い息子の機嫌も上々だった。とにかく好奇心の塊の様なキラキラな目は、春の日に生える若葉の様でもあった。

 ところが。建物の中に入ると今まではしゃいでいた息子が急に大人しくなり、目の前に延々と続く階段を一段も上がろうとしなくなったのだ。三歳と言えばもう抱っこをして歩くのはきつい程体重が有る。何とか歩いてもらわねば三時間もかけてやっとここに着いたのに、中を見学に回る事も出来ないのだ。

 入り口でごねる息子をなだめすかして手を引き、とにかく一歩一歩階段を上る事にした。一緒に来ていたせっかちな夫と義理の父母には先に行ってもらい、私自身も実は長い山道ドライブの影響か、到着して車を出た途端に足が重くて歩くのが億劫にさえ感じていたので、子供優先を名目にして二人でゆっくり行く事にした。

 三歳と言っても息子はもう何でも言える子供だった。何故歩きたくないのかと聞くと、私と同じで足が何だか動かないのだと言う。体質も似ているから二人で軽い車酔いでもしてしまったのか、とその時は思った。

 この寺は修行する年若い御坊様を受け入れ、日々のお勤めに忙しくされている姿を拝見出来る事でも知られている。途中の回廊で座り込む息子と私の姿を見付けて、大丈夫ですか、と穏やかに話し掛けて下さる方もいらっしゃった。お若いのに何て出来た人だろう、と俗世の垢に塗れた私はつい人としてはきっと当り前の事だろうに感心してしまうのだった。


 歩くの歩かないだのと言っている内に、私達親子は見学順路の最終地点に家族に遅れる事15分後にやっと辿り着いた。

 車酔いの影響が残ったまま階段を登ったり下りたりしていたせいか、気分は事の他悪く、それは息子も同じらしく、そろそろ何か飲み物でも与えないと彼は体温が上がり切った野生の猿の様に暴れ出しそうだった。

 幸いな事に夫と義父はトイレ休憩らしく、その場には姑だけが椅子に掛けて待っていた。

 順路最終地点では喉が渇く人が多いのか、修行の場には似合わない有名メーカーのジュースの自動販売機が置かれていて、私達がお金を投入するのを待っていた。そればかりか、年寄りや幼い子供向けを意識したストロー付きのモノまで揃っていた。幼い息子はまだ缶ジュースを上手く飲めなかった為、○○で仏、内心助かったと思った。姑も座って一服していたらしい。

 ふと見ると、自販機の向い側は百畳以上も有る広間に成っていて、お休み所、履き物を脱いでお入り下さい、と書かれていた。部屋の正面は大きな仏壇の様な祭壇に成っていて、中へ入るとい草のいい香りがしていた。

 置いてあった小さな座卓で息子にジュースを飲ませて、私もやれやれと一息吐いた。夫と彼の両親は元々せっかちな性格で、三歳児の疲れた様子など元から気にしている様子も無く、その場に一人で待っていた姑は中で少し休ませたいからと言っても意を解するとこも無く、迷惑そうに眉を寄せた為、中には私達二人だけだった。彼等にしてみれば散々人を待たせておいてまだこんな所で休もうと言うのか、何様のつもりだ、と言いたかったのだろ。そう、この子は貴方方のお孫様ですよ。最初から子供が退屈をする所へ連れてきておいて、そのくらい想定出来ないのが私には不思議だった。

 靴を脱いで楽になった途端に元気にはしゃいで中を走り回り出した息子に、飲んだから行くよ、と声を掛け、ジュースの殻を片付けていると、走り回っていた彼が珍しく私の所に自分からやって来た。おお、今日は良い子だね、と手を繋いで一緒に背中を向けていた廊下に出ようとすると、入った時は襖が全開にしてあった所が、閉められた音も気配も無かったのに、手品を見ている様にいつの間にか全部閉められていたのだ。

「どう言う事?」

 息子は私の顔を見上げて繋いだ手を意味有り気に握り、次に部屋の奥を見た。

「知らないお婆ちゃんがね、こっち来るよ。」

 妙な事を言うものだ、と息子の視線の先を見ても元よりこの広い部屋には私達しかいなかったのだ、誰もいる筈がない。

 暫く忘れていた何かが、少しこの場にい過ぎたと告げている気がして、私は屈んで息子に目線を合わせた。

「何かしたの?」

 確かにはしゃいではいたが、度を越した程では無かったと思いながら、首を横に振る息子に私は自分の焦りを気付かせまいと立ち上がり、何んでもない様に言った。

「もう行こうか。お邪魔しました、って言おうか。」

 普段なら絶対に従わない三歳児が、さっき見ていた方を見て不安そうな顔をして、私に合わせて言った。

「「お邪魔しました。」」

 二人で頭を下げ、私は息子を見た。

「さっきのお婆ちゃんはまだいる?」

「もういないよ。何処か行ったみたい。」

 とりあえずは私に見えない老婆は去ったのだろうか?

 それでも腹の底からざわざわする何かに這い上がられ、私は息子の手をしっかり握ったまま放さず、閉まっている襖を反対の手で開けようとした。とにかくここから早く外へ出なければ、それしか考えられなくなった。

 ところが、唐紙貼りの襖はまるで嵌め殺しの壁の様にビクともせず、私は鼓動が一気に跳ね上がるのを覚えた。

「うそ、閉まってる。」

 一体私達が何をした。なぜこんな所に閉じ込められなければならないのだ。

 私は襖のどれかを開けようと順番に揺らしたが、どれも動きもしないのだ。

「信じられない。どう言う事。」

 これはもしかしたら、外にいる姑の質の悪い嫌がらせかもしれない。それなら分かる。物理的なつっかえ棒だ。そんな事を年甲斐もなく平気でやって、人の反応を見て笑っている様な変な所が有る人である事も同居していれば分かるのだ。

 幼い息子の手前、みっともない真似は絶対にしてはならない、といつも自分に言い聞かせて来たが、もう我慢ならなかった。

「お義母さん。開けて下さい! 嫌がらせなんて止めて!」

 戸を叩きながら叫んだものの外からの音は何も聞こえなかった。

 こうなったら体当たりでも何でもして出てやる! 私は本気だった。

 ふと私を挟んで息子とは反対側に人の気配を感じ、私は頭に血が昇った状態のままそちらを見た。何も見えはしないが、目の前に老人特有の饐えた様な濃い口臭がしていて総毛立ったが、次の瞬間に私は睨む様に言った。

「私達には関係無い! ここを開けて!」

 力任せに襖を叩いた途端、嫌な臭いがどこかに消失した。

 その勢いのまま襖の取っ手に手を掛けて横へやると、スパーンと音を立てて開いた。

 廊下の椅子に夫と義母が座ってこちらを見ていた。

「開けてって言ってたのに、聞こえなかった?」

 眼を吊り上げて言った私に夫は全く意味が分からないと言う様子で、

「え? だって、鍵なんて無いし……物凄いバカ力……行儀悪いぞ、お前。」

 彼の目線を辿ると、私が開けた戸は同じ溝に並んでいた戸を全部端に押して止まり、広間は襖が歯抜けの全開状態になっていた。


 それにしても……あそこは仏の教えを実践する人達の修行の場の筈だけど……

 何だったのか、と実家でたまたま居合わせた叔母に話した時、そもそも車を下りた時点から変だったのでは? と指摘された。

 なるほど、そうか。と納得してしまうのも変なのだろうね。



・・・お詫び・・・

 当初予定していました「桶鳴らし」は次々回に変更致します。

                       申し訳有りません。

 懲りずに読みに来て下さいね。宜しくお願いします。

 

 


 









 

 

 

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