第5話 空神さま
人の子になって以来、弟は人が変わったようになった。
露骨にミナワを避け、それでも近寄ろうものなら暴力をふるうそぶりも見せた。
あんなに仲が良かったのに、今では大きな亀裂が二人の間に横たわっていた。
いや、弟は本当に人の子になったのだろうか。
彼の左腕には土地神さまと同じ瞳の色をした痣が宿っていた。
もしかしたら、人の子でもなく海の子でもない何かになってしまったのかもしれない。
あれ以来、弟は祖父の書斎にこもっているか、寝ているかのどちらかだった。
寝る、というよりは活動に限界が来てその場で倒れてしばらく動けなくなるといった方が正しい。
食事はほとんどしなくなった。
ある程度の量を越えてしまうと、体が受け付けないのか吐いてしまうのだ。
あまりに異常な事態に祖父は弟を呪術師のもとへやろうとしたが、弟は例の痣を振りかざし拒絶した。
「これは土地神さまの意志だ」
わざわざ家に来てもらった呪術師も怯えて走り帰る始末であった。
弟は日に日に憔悴していった。
食べれないというのに、なんとか食べ物を口にしようとしては吐いていた。
頬はこけ、元から大きな目がますます大きくなりギラギラと怪しく光っていた。
まるで骨と皮になり果てたものがなんとか動いている見るも哀れな外見で、餓鬼のようであった。
――いっそのこと、土地神さまに連れて行ってもらえたら弟は楽になれるのではないか
一瞬頭に浮かび上がった考えに、ミナワはぞっとした。
なんて愚かな考えなのか。
見たくないから、見えないところへ行ってしまえなど最低であった。
「逃げてはだめだ」
どうにかせねばならなかった。
自分一人ではなんともならないのは分かっているから、誰かに相談しなくてはと思った瞬間、義母の顔が浮かんだ。
義母。
はっとした。
どうして今の今まで会いにいこうとしなかったのだろう。
父の失踪以来、義母には祖父に会わせてもらえなかった。
だが人の子になった今、足に鈴はなく祖父の目を盗んで会いにいくことなどできたはずだ。
だというのに、そういった気持ちがまったく沸き起こらなかった。
何かに無理矢理、遮断されていたように。
義母はミナワを愛してくれ、ミナワも義母が大好きであった。
会いたい。義母に今すぐ。
義母のもとへミナワは急いだ。
「どうして会いにこれたの?」
森の朽ち果てた小屋の戸を開いた先にいた義母は、非常に驚いた顔をしてミナワを見て震えた声で言った。
「来てはいけなかった?」
「そんなわけないじゃない」
義母は立ち尽くすミナワのことを抱きしめた。
「大きくなったわね、ミナワ。あなたのことをずっと想っていた。こうして会えるなんて夢のようだわ」
「僕は……母さんのことをどうしてかあまり考えたことがなかった。ごめんなさい……」
「ミナワ、あなたが謝ることではないの。あなたにもう二度と会えないように土地神さまに遠ざけられていたのよ」
しばらく二人は抱き合ったが、落ち着くと義母はミナワの頬を優しくなでると強い目をして言った。
「なにがあったのか教えてちょうだい」
ミナワは今まで起きたことをとつとつ話し始めた。
義母は黙ってつたないミナワの話を聞いていたが、弟の話になると青ざめ涙ぐむのを必死にこらえていた。
「土地神さまの力が少し弱まったのはおそらく、あの子のことを少し食べた影響ね」
話し終えると義母は静かにいった。
「どういうこと?」
「私の血には、精霊を惑わす作用があるの。そういう家系に生まれたから。そしてあの子にもその血が受け継がれている」
いわく、弟の魂をちょっと食べた土地神さまは今、人間でいう酔っぱらっている状態で注意散漫になっているそうだ。
だからこそミナワにかけられた、義母のことを考えないようにする呪いも薄まり今のように会えるのだと。けれどその状態はあまり長くはもたないとも。
「私の祈りは土地神様に弾かれる。でもミナワ、あなたならきっと届くはず。毎日、空にこれをもって祈って」
祖母に手渡されたのは、銀色に輝く四角い形をした堅い物体であった。
その日以来。
ミナワは空に祈り続けた。
土地にいるから土地神さまなら、空からやってくるのは空神さまだろう。
「空神さま、空神さま。どうぞこの地に降りたって弟を救ってください」
でも、空からは何もやってこなかった。
新月の夜のことだった。
「土地神さまに会いに行ってくる。新月の夜に会いに行く約束だから」
弟はそう祖父に告げるとふらりとどこかへ出かけていった。
祖父からその話を聞いた瞬間、止めようと追いかけたがどこにもその姿は見つからなかった。
森の中を走り回りようやく見つけたときには、弟は死にかけていた。
草の中に仰向けで倒れ、口から涎をたらし開きかけた半目で虚空を見続けていた。
抱きしめるとひゅうひゅうと口からもれた息が聞こえ、かろうじて生きていることが分かった。
「ごめん……ごめんよぉ。こんな兄で……俺のせいでこんなことになって……」
背負った弟の体は異様に軽かった。
人の重さとは思えないほどで、赤ん坊のほうがよっぽど重かった。
次の新月には連れて行かれる。
時間はほとんどなかった。
ぼろぼろと流れる涙で塞がる視界に、空から一筋の光が見えた。
「流れ星……?」
ミナワは空を見上げた。
光は見る見る大きくなると、森の方へ落ちていった。
――祈りが、通じた。
弟を家に連れ帰り、寝台に寝かした。
「お前を絶対、助けるから」
いっこうに目を覚ます気配のない弟の痩けた頬をなで、ミナワは光が落ちた場所へ向かった。
そこでは大の男が大の字で寝ていた。
寝そべる男の格好はカブトムシを連想させるような黒光りの堅いごつごつしたものであった。
体はでかい。この土地の誰よりも背が高く、獣のようなしなやかで隆々とした筋肉を持っていた。
男はゆらりと目を開け、ミナワの姿が目に入るや口をあけた。
「助けを求めていたのはお前か?」
「そうです。あなたは……空神さま、ですか?」
男はけだるげに起きあがると、頭についた葉っぱをとりはらった。
「俺は空神なんて大層なもんじゃない。この土地から精霊を奪いにきた、ただの人でなしだ」
男は、今までミナワの会ったことのないたぐいの人間だった。
口が悪く粗野で雑で、今までの経緯を話している最中に茶々をつけてはすぐに阿呆とか馬鹿とか言ってくる。
何も言わずに聞いてくれた義母とはえらい違いだった。
穏やかな人しかいないこの土地の人間にしか会ったことのないミナワは面食らった。
だが話していくうちに、そのぶっきらぼうに話す姿が、外面をとりつくろうとせず、ミナワを子供と扱わず真摯に向き合ってくれる態度だということに気づいた。
話し終えるころには、ミナワは男に親しみを覚えていた。
「俺は隠し事はできないから初めにいっておく。お前の弟を助けるという目的と俺の目的は一致している。だが、それが達成した暁にはお前は死ぬことになるだろう。それでもかまわないというなら、この手をとれ」
男は手を差し出した。
――あのとき、僕は死ぬ運命にあった。
今生きているのは、弟が身代わりになったからだ。
そして今も弟はミナワのかわりに苦しんでいる。
「弟を救えるなら、なんだってする」
ミナワはその手をとった。
とたん、するすると見えない膜がミナワの体を覆う感覚がした。
「なにこれ?」
「お前をその土地神とやらから引き離すための魔除けだ。お前を隠し続けなければ一緒にいる俺の身がやばい。間男と勘違いされて呪われるのだけはごめんだ。さあ行くぞ」
「どこへ?今すぐ弟を助けないと……」
「この土地の綻びを探しに行く。それが鍵だ。弟の命は次の新月まではもつだろうがその先はお前次第だ」
男とミナワはいろんな場所をくまなく歩いた。
川を渡った。
森を歩いた。
山を登った。
男はこの土地のことを知りたがり歩きながらミナワは話した。
男もまたミナワの知りたがることを一つ一つ教えてくれた。
「どうやって空からここにやってきたの?」
「俺の相棒は空を飛べるんだが、そいつにこの土地の真上から突き落とされてだ。“僕にはこの結界は通れないから頑張ってね”とかほざきながらな。次会った時はとりあえず一発殴る」
「その人、本当に相棒なの?」
「俺もたまに疑問に思うことがある」
「思うんだ。あとさ、ここには精霊を奪いにきたのが目的って聞いたけど、なんのためなの?」
男はミナワの質問には答えられるものはなんでも淀みなく答えたが、その時だけは一瞬黙り込み、苦い顔をした。
「……人の文明の発達に必要だからだ」
夜には、男と一緒に捕まえた魚やウサギをさばいて食べた。
八つを迎えることはないと思っていたあの頃に夢見ていたことが一つ一つ叶っていった。
嬉しくないわけがない。ただそれ以上に、罪悪感がミナワをさいなんだ。
「今、弟が苦しんでいるっていうのに、僕はこんなことしていて良いのかな」
「阿呆か。食べなきゃ体はもたないだろう。何をするにしてもまずは食うことだ。ほら、うめえぞ。食べろ」
男の差し出した焼き鮎はおいしかった。
――いつ焼けるの? もう待てないんだけど
――もうちょっと待てって。あと少しだから
頭痛とともに、ミナワの頭のなかに見知らぬ少年と魚を焼く光景が浮かんで消えた。
こうやって焚き火をし焼き鮎を食べた思い出などミナワの記憶にないはずなのにそれは鮮明であった。
「どうした?」
「ううん、なんでもない。ちょっと頭痛がしただけ」
ミナワはなんでもないように言ったが、男は案じるような顔をした。
二人はひたすら歩き続けた。
やがて森を抜け、開けた場所につくと、悠々と広がる藍色がどこまでも続いていくのが見えた。
この土地の境界にある海だった。
ミナワが初めて見た海はただただ広く、温もりとの冷酷さの二面性を持ち合わせていると感じた。
――これは僕の還る場所
「僕、これ見たことがある。生まれてこの方、村からでたことないから見たことなんてないはずなのにね」
「手ですくってなめてみろ。びっくりするぞ」
「知っているよ、ただの水じゃなくてしょっぱいものだって」
「なんだ、つまらん。お前の驚く馬鹿面が見たかったのに」
「そういうことだろうと思ったよ」
口の中に、初めて海水をなめたときの塩辛い記憶がよみがえった。
――しょっぱい! なにこれ?
――海の水には塩が含まれているんだよ
――これ全部に? すごくない?
これは、誰の記憶だろう。
ずきりと鋭い痛みが頭に走った。
ミナワはあまりの痛みにその場で座り込んだ。
呼吸が落ち着くまでそうしていたが、何かに呼ばれるように顔をあげたその先に、木で作られた大きな何かが転がっていた。
立ち上がり歩いて近づく。
遠い昔に作ったもののはずなのに、どういうわけかそれは朽ち果てずに残っていた。
「これ、ふねっていうんだよ」
「船と言われるまでこの謎の物体の正体が分からなかったぞ。ずいぶんと不細工すぎる出来だな。コレは絶対浮かばないぞ。丸太の方がまだましだ。これを作ったやつは、海に入水するつもりの阿呆か」
「何もあの男たちと同じこと言わなくても良いじゃないか。ふねをつくれって言われてもどんなものを作れば良いのか分からなかったし、こうやって作れって言ったあいつらだって、どういう構造か本当は知らなかっただろうから」
これはまだ、あの少年が土地神さまと呼ばれていなかった頃の記憶。
初めの記憶を思い出そうと目を閉じれば、無数のミナワが重なり消えた。
今のミナワとして生まれてくるまでに何度生まれ消えていったのだろう。
無数の泡沫が弾けては、生まれていった。
弾けた泡が同じ泡として生まれることはないのに、彼は泡を作り続けた。
かつて交わした約束を果たすために。
――それが達成した暁にはお前は死ぬことになるだろう。
ミナワは目を開けた。
ああ、このためだったのか。
男がミナワとともにこの土地を歩き続けたのは。
「思い出したよ。眠っていた魂の記憶が呼び起こされたっていうのかな。まだ断片的だけど」
「そうか」
「あなたには最初から分かっていたんだね。こうなるだろうって」
「……ああ」
二人はなにも言わずに海を見続けていた。
「逃げてもいいんだぞ。俺の相棒に乗せてやる」
男はふいにぽつりと言ったが、彼は首をふった。
「俺が止めないと彼は壊れるまで続けるだろう。この土地はこのままだと恐ろしいところに成り果てる。それにああなったのは俺のせいでもあるんだ。あなたは優しい人だからずっとこの先、この土地で起きたことを後悔するかもしれない。でも私は俺は僕はあなたといた日々が、本当に楽しかったよ。ありがとう」
「そういうお前はどこまでも阿呆だった」
ミナワが、ミナワであったものになっても男は変わらなかった。
どこまでもぶっきらぼうで真摯な態度であった。
「行かなくては」
彼は立ち上がった。
あの少年に会いにいかねばならなかった。
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