第4話 兄
この土地に見られている。
生まれてこの方、僕はずっと誰かの存在をそばに感じていた。
物心をおぼえるようになってからは、それはよりくっきりと存在感を増した。
背後に誰かいると振り返っても、ただ柳がゆれるばかりであったことは一度や二度ではない。
森へ誘われるように無意識に足を踏み入れ、鈴の音で気づいた村の者に引き戻されることもよくあった。
生を受けてから当たり前のようにそれはあったから、皆もそのように感じているのかと思っていたがそうではなかった。
これは母と僕にしか感じられないもの。
土地神さまからの、視線であった。
母と僕はこの土地の異物のようなものである。
周りをみれば僕らをのぞいたら、誰もがも似たような存在であった。
この土地に変化はなにもない。
変わらぬ日常。
ぐるぐると同じことを繰り返している閉じた土地であった。
小さな水たまりのなかでさえ、生き物たちは生と死の葛藤を繰り広げられているというのに、この土地には約束された安寧があった。
息苦しかった。
誰もが同じような顔をして、同じことをしている。
そんな生に生きていく意味はあるのかと思っていた。
村の者は皆、どこからかやってきたのか分からない異物にはよそよそしい態度をとり続けた。
触れれば自分たちの日常が壊れていくかのように、できるだけ近寄ろうとしてこなかった。
僕たち二人になにも変わらぬ態度で接してくれたのは父と兄だけであった。
父と母は兄をどうにか土地神さまのもとへやらずにすむようにこっそりと策を練っていた。母は自分がやってきた結界の向こうへ兄が行けば、助かるはずと考えていた。
だがある日、父はふらりとどこかへ出かけたきり二度と帰ってこなかった。
警告だった。
土地神さまからの、兄に手出しをするなら容赦しないという明確な殺意であった。
本当は母を連れていきたかったのだろう。
けれど、母と僕には不思議な守があるため手出しできず、かわりに父を連れていったのだ。
母の家系は代々精霊と関わる役目を果たしていたためある程度の耐性があり、それがお前にも受け継がれているのだよと、母がいつか言っていた。
生まれながらに僕を守るこの不思議な守があれば土地神さまは手出しできない。
けれど、土地神さまの領域に入れば、それはあっという間にはじけるものだとも知っていた。
父がいなくなってから、祖父は態度を変えた。
これ以上犠牲がでないよう、母を遠くへ追いやり兄に冷たい態度をとり続けた。
本心でないことを言い、心はいつも泣いていた。
兄はよくめげた。めそめそよく泣いていた。
だからといっていじけたり誰かにあたるということもなく、どこまでも真っ直ぐであった。
その反面、魂はボロボロであった。
散り散りになりそうなのを必死にかき集め、どうにか崩れないように縫い止めているようで、色はとても濁っていた。
兄一人だけどうしてそのような魂をしているのか、なぜみんな疑問に思わないのか僕には不思議でしょうがなかったが、それは僕にしか見えないもので、他の者にとって兄は何ら普通の人と変わらないように見えるのだと最近になって気づいた。
土地神さまとなにか関係しているのだろう、ということだけは自明であった。
土地神さまは僕と母をよく見ていたけれど、それ以上に兄を見ていた。
執着していると言っても良い。
兄が僕を可愛がるときなんて、突き刺さるような視線となる。
兄はまるで気づいていない様子であったが、それは却って幸いであったのかもしれない。
あんな目で四六時中見られたら、僕だったら気が変になるだろう。
土地神さまに連れて行かれれば、その一部となる。
泡のように儚く、今にも弾けそうな兄の魂がそんなことされたら死ぬよりももっと恐ろしいことになるという予感があった。
けれど僕が兄に何かしようものなら、まとわりつく視線は瞬時に茨のように鋭く貫く悪意あるものとなる。
――お前も父のようになりたいのか、と。
僕にはどうすることもできなかった。
だからこそ、兄が土地神さまのもとから無事に帰ってきたときは本当に驚いた。
二度と会えないと思っていた。
兄に抱きつき泣きじゃくりながらも、一方でどこか冷静な思考で考えていた。
兄より先に僕を土地神さまは連れて行くつもりなのだろう。
僕に残された時間はあと二年。
それまでに何か突破口が必要であった。
兄が帰ってきたその夜。
僕は祖父に部屋へと呼ばれた。
「この家の長男は代々、三人に一人は海の子として土地神さまのもとへ去っていった。最後に連れられていったのは私の父の兄にあたる人で、そこから私もお前の父も海の子としては連れていかれることはなかった。慣習どおりであれば連れられていくはずのお前の兄もまた戻ってきた。今回は弟であるお前をより良い海の子として選ばれたのだろう。お前は恐らく、人の子になることはない。これも土地の為だ。これ以上、土地神様の一部となる海の子がいなければ、この土地の守りは薄れ荒れ果てたものになる」
「分かりました。今まで育てて頂いたこの土地を守るため、勤めを無事果たせるよう精進します」
祖父を慰めるため、僕はそう言うしかなかった。
僕はなんとか手がかりはないか、祖父に頼み込み、代々の村長が書き残すこの土地の歴史について読み始めることにした。とにかく土地神さまにまつわる話を少しでも集めたかった。
けれど、どれだけ時間を費やし過去にさかのぼっても内容はどれも似たり寄ったりであった。
本日も平和であった。
土地神様に感謝を。
という言葉が、永遠と続くばかりであった。
今日、海の子が一人土地神さまのもとへいった、という記述以外は五代村長も十代村長の書いてある内容はほとんど一緒であった。
必ずしも八つになる直前に連れて行かれるわけではなく、生まれてすぐにいなくなったことがあるということ。
連れて行かれる海の子を宿した母は、生んだ直後にたいてい亡くなること。
限られた時間の中で、分かったことと言えばそれだけであった。
僕が八つを迎える誕生日の前日、祖父と兄とともに僕は七海八人への儀式へ向かった。
初めて入る森の奥は濃密な生き物の気配がした。
羽の破れた蝶に蟻がたかり巣に持ち運ぶ。
待ち伏せしていたカエルがその蟻の一匹を捕まえて食らう。
鳥がそんなカエルを背後から連れ去る。
平穏で平和で怠惰で溶けきった村と違い、そこには生と死が満ちていた。
これこそが正常なのだと僕は思った。
けれど、ある境界を超えたとたん森の中にいるというのに、生き物の気配が消えた。
ここから先は土地神さまの領域だと肌で感じとれた。
僕の守が弱々しく消えていく。
今や陽炎のようになり果てたそれは僕を守ることなどできない。
母の腹から生まれた直後の弱々しい丸裸の赤ん坊のようであった。
そして、目の前に見えてきた土地神さまの宿る大石は、爛々とした目で僕を待ちかまえていた。
兄の悲しげな顔が向こう側へ消え、斎庭の扉が閉められた。
明け方にならないと開かれることはない。
僕はたった一人で土地神さまに立ち向かわなくてはならなかった。
日が暮れるにつれ、闇の気配はいよいよ強まっていった。
そばに、いる。
小さい頃から感じていた何かの気配は今、僕の周りに渦巻いている。
これは蛇のとぐろの中だ。
ぎりぎり締め付け、獲物が弱くなっていくのを待っている。
そうして動けなくなったところを丸飲みする気だ。
僕は、一拍呼吸をおいていった。
「兄の魂がこれ以上弾けると、消えてなくなるぞ」
炎が動揺したように揺らぐ。空気がゆれた。
僕の様子を見ていた気配が一つに凝縮したのを感じた瞬間。
ゆらりと炎の照らす闇の影から足が見えた。
「ふうん? 君には見えるのかい」
音もなく目の前に現れた少年は、兄がいつか言っていた土地神さまの容姿そのままであった。
「村の呪術師たちは気づかない様子だったけどね。君は生まれたときから妙な力があったから分かるのかな?」
少年はすっと目を細め僕を見つめた。
あの視線であった。
生まれた時から僕を見続けてきたもの。
けれど今までと違い、直接見られるのは暴力的な質量をもって僕に襲いかかる。
水の底にいるように体が重く、呼吸がすることさえ辛い。
冷や汗が頬を背中を伝う。
だがここで負ければ、僕は消える。
「あんなにもぼろぼろでつぎはぎだらけなのに、見えない方がおかしい。どうしてあんな風になっているんだ? お前のせいだろう」
「僕をお前呼ばわりする人間なんて久方ぶりだよ。いやはや、生意気奴だなと思ってはいたけれどそれ以上だね、君は」
くすくすと少年は笑った、つもりなのであろう。
けれど、口は歪んだようにつり上がり、笑顔には到底見えなかった
まるで、久方ぶりにそうやって顔を動かしたようで使い方を忘れたようであった。
「あぁ、彼の魂がボロボロになっているかの理由だっけ? 何度も何度も器を入れ替えていくうちにどうしても少しずつこぼれてしまうんだよ。それをどうにか縫い止めて今の形にしているからだ」
少年はくるくる僕のまわりを回りながら言った。
「器を入れ替える……?」
「そう。死んだ瞬間、体から離れようとする魂を捕まえて別の器にいれて生まれ変わらせているんだ」
少年の屈託のない顔で紡がれる話に僕は言葉を失った。
人は死んだ瞬間、魂と体に分かれる。
体は大地へ、魂は海へと還り大いなる流れにのり、原初の地へと向かう。
だというのにそれをせき止めるなど、死の冒涜の何物でもなかった。
「どうして兄にそんなことするんだ? お前は一体なにが目的なんだ?」
「僕はもう一度、彼に会いたいだけなんだ。遠い昔、僕に名前をつけてくれた彼に。初めて会った時の彼に」
少年は動きをとめ、部屋の角の虚空を見つめた。
「そのために、彼の魂をいろんな形で転生させたよ。初めは僕のほうでも勝手が分からなくて土人形に入れたこともあったな。でも海の子は、どうも母の胎内で育てられないと人の子に育たないって分かってからは、母胎に魂を入れ込んだ。それって結構体に負担を与える行為らしくて生んだ瞬間、母親の方がだめになることが多かったけれどね。そうして八つになる直前の、僕と彼が初めて会った年齢になるまで育ててもらった」
「お前に連れて行かれた海の子は、すべて兄と同じ魂を持っていた……?」
「うん、そうだよ。そうして彼と僕の初めてを繰り返しているんだ。何度も何十回も何百回も。でも未だに僕は本当の彼に会えない。どれもこれも彼じゃないんだ。今の彼なんて過去最低の出来だよ。会う前から怖くて泣きじゃくるなんて失敗作にもほどがある。彼は強くて僕をまっすぐ見つめてくれなきゃだめなんだ」
情景、憧れ、届かぬ想い。
恍惚とした表情を浮かべ少年は手を広げた。
ぞわぞわと僕の背筋を悪寒が走る。
狂っている。
とうにいなくなった兄の最初の魂の持ち主であった“彼”への長年の想いが、行き場のないまま積もり積もってどうしようもなくなっていた。
彼は、無表情な顔をし僕の頬を両手でつかんだ。
「ねぇ、不思議な力をもつ君になら、どうにか本当の彼と会える方法を見つけられないかな?」
土地神さまの問いかけに、僕はこくりと頷いた。頷くしかなかった。
この場を生き延びるためには、兄を救うための時間稼ぎにはそうするしかなかった。
「それじゃあ少しの間、ちょっと食べるだけで我慢してあげる。これはその契約の証だ」
そうして僕の左腕を両手で持ち上げると、唇をよせた。
一体、なにを。
そう言い掛けたと同時に、ドンと体に衝撃が走った。
人の背ほどにある丸太で思い切り殴られたような力に、僕は息ができずに倒れ、視界がせばまっていった。
「君、性格はアレだけれど魂は結構おいしいかも。もっと食べたいけれど約束は約束だ。次の新月にまた会おう」
気づいたときには、森の中で寝ていた。
生きて帰ってこれた。左腕には契約の証とやらの青緑色の痣が宿っていたが。
家に帰ると兄が抱きしめてくれ嬉しさに涙がでてきたが、はっと腕の存在を思い出した瞬間、兄を突き飛ばした。
兄にこの腕を近寄らせたくなかった。
祖父は呪術師のもとへ僕を連れていこうとしたが、断固拒否した。
そんな時間はない。もう一度、この土地の歴史を振り返る必要があった。
この土地のことをもっと知る必要があった。
左腕の痣を見せ僕の邪魔をするなと言い放つと、祖父はなにもいわなくなった。
祖父の書斎に籠もり、村長の書いた歴史を再度読み直した。
そして繰り返し何度も読み続けていくうちにあることに気づいてしまった。
最初は内容が似たりよったりだなと思っていたが、ある時期に書いたものとそれから長い時間を経たある時期での内容だがまったく同じだったのだ。
それだけではない。
――二十代目の村長と八代目の村長の筆跡がまるで同じだった。
恐怖のあまり、嗚咽を流しうめいた。
うすうすと感じていた不安が形になって目の前にいた。
繰り返しているのは兄の魂だけではない。
この土地に住む魂もまたどこにも行けず囚われていた。
「君、よく調べたね。その通りだよ」
二度目の邂逅の時に問いただすと、土地神さまはけろりと言った。
「契約以来、結界の外へいった魂はないよ。でもまったく同じことを繰り返しているわけじゃない。村長だったものが必ずしも村長の家に生まれるわけじゃない。でもやっぱり魂が似た体を求めるのか確率が高いよね」
「……なんで、そんなことを?」
「万一彼の魂がどこかにいっても海へ還らないようにするためさ。結果的に村での争いはなくなって平和になったし。人間の魂ってやつは同じ場所で同じような人間と居続けると平坦になっていくようだ。良いことじゃないか」
彼のいう平和は、何も起きないことであった。
人が生まれ子をなし死んでいく。
それを同じような人間が同じことを永遠に繰り返している。
たしかにこの土地には争いはなかったが、どこまでも淀んでいた。
流れいくはずの川の流れがせきとめられ、どこにも行けずどんどんと腐敗物がたまる。
どろどろと沼のように、ボコッボコッと泡が腐敗臭を漂わせて弾けていた。
幼い頃から感じていたこの土地の違和感の原因はこれだったのだ。
「だから、ひさびさに食べた君のようなこの土地のものではない新しい魂が新鮮で美味しく感じるのかも」
心臓のあるあたりに少年に頬をよせられたと思うと、どんと衝撃が走った。
「ひっ、ぐぅ……!」
魂がすわれる。僕は体から力が一気になくなりその場で崩れ落ちた。
「でもさ、一度食べちゃえば新鮮さもなくなるよね」
「これだけ食べておいて、なにを今更……!」
「うん、だから次が最後にしよう。ちょっとずつ食べるのはかえってお腹がすくし、やっぱり僕はあの食べ慣れた味が大好きなんだ。色々君は楽しませてくれたからね、次の新月までのあと一ヶ月だけ、我慢してあげるよ。別れを惜しむ時間をあげる。僕にとってはあっという間だけど、君たちにはすごく長い時間だろう?」
目が覚めたときは、前と違い森の中ではなく家の中で寝ていた。
やつれ果てた祖母が言うに、僕は二週間眠り続けていたそうだ。
僕は二週間無駄にしてしまったこと悔やんだと同時に、僕のことならば、いつもいの一番に駆けつけてくる兄がいないことに疑問を感じた。
兄がどこにいるかと尋ねると、祖母の青白い顔がますます蒼白になった。
祖母はしばらく沈黙したあと、重たい口を開いた。
兄は森の中で倒れていた僕を背負って帰ってきたこと。
そして僕を家に連れ帰るとすぐにどこかへ出かけ、それ以来行方不明になっていることを告げた。
左腕にあった青緑色の痣は今、赤く輝いていた。
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