第38話「追憶の樹里」

 深い水底から、静かに意識が浮上してぱちっと目が覚める。

 気持ちよく目覚めることができた気がする。最近は目覚めが悪かったから、落ち着いていることが新鮮だった。

 視界に違和感を覚える。

 地面から横に生えた小型コンロ、椅子と続いて遠方の壁がぼんやりと光っていた。

 どうやら頭が真横を向いてるようだ。

 確か、俺は。

 深い眠りの中にいたからか、前後の状況が曖昧だ。


「ん、起きたか」


 真上から声がする。

 俺はなにかに頭を乗せているらしい。じわりとぬくもりが右耳から伝わっていた。

 くるっと頭を上に回転させる。


「こらっ、急に動くんじゃない。くすぐったいじゃないか」


 白のシャツに覆われた影のある胸の間から、いたずらを咎めるような表情の樹里さんが見えた。


「えっと、これって」


 俺が頭を乗せているのは、樹里さんの膝だ。人肌は心地よく、気を抜くと寝ていたばかりなのに再び微睡そうになる。

 これは俗に膝枕と呼ばれるものだろう。

 恩人によれば、夫婦が行うものだと言っていたはず。

 ふむ。夫婦とは婚姻を結んだ男女のもので、人生の墓場。一度入るとなにがあっても抜け出せないものだと聞いている。

 ……。

 俺と樹里さんは夫婦だろうか……いや、ないっ!

 飛び起きようとする俺の頭を、樹里さんはがっちりと両手で固定した。

 なんで!?


「いいから。寝ているといい。まだ寝てから1時間も経っていないぞ?」

「でも膝枕って言うのは!」

「……なんだ?」


 恩人に聞いた膝枕についての知識を、そのまま樹里さんに伝える。

 もしかして、またか。

 恩人の授けてくれた知識に偏りがあることを恐怖する今日この頃です。

 樹里さんはきょとんとした表情をしてから、俺の髪を撫で始める。


「仲の良い男女がするという意味では、あながち間違いではないかもしれないが、夫婦間でしか為されない行為ではないな」

「そうなんですか……」


 これまでも散々あったし、騙されているわけではないけど……。

 もうちょっとまともな知識を授けてほしかったなぁ。と言えば自分で調べることだって返ってくるに違いない。

 先生が生徒に教えるように、知識を積極的に喋っていたのは、あの人なのにな。

 うーむむ。先生と生徒の間柄は教える側と教えてもらう側と言っていたが、これも怪しく思えてくる。

 なにが正解でなにが不正解なんだ。


「ふふっ、まあそんなにどうでもいいことで悩めるんだ。気持ちは落ち着いたみたいだな」


 樹里さんは、優しくか語りかけた。

 心の中で渦巻いていた憎しみや後悔が混ざり合った薄暗い感情は、霧散している。

俺ひとりだったら、延々と抱え続けたに違いない。

 樹里さんには、感謝しかないな……。


「はい。ありがとうございます。すいません、避けたりして」

「私が君の立場であれば、同じようになっていたさ。謝る必要もないだろう。けど、ありがとう。咲の死を思ってくれて」

「俺のほうそこ、咲のおかげで楽しかったですから」

「そうか。それはよかった」


 見上げる樹里さんの笑顔は、これまで見てきた彼女のどの表情よりも幸福に満ちていた。


 ……

 …


 さて、俺はいつまで膝枕されていればいいのだろう。

 安堵が身体中に渡っているのか、先ほども寝ていたのにまた眠くなっていた。

 戦闘して、遺跡探索までしているのだ。体力も気づかないうちに相当使っていたらしい。1時程度の睡眠では回復できないみたいだ。

 ようやく自分の身体の様子にも気づけるようになるぐらい、心も軽くなっていた。


「また眠くなってきたか?」

「少し」

「私の膝でよければ、眠るといい。簡易コンロは防寒器具としての役割もあるし、この遺跡自体が不思議と温かい。そのまま寝ても問題ないだろう」

「……ありがとうございます」


 言われてみれば、夜のはずなのに空調でも効いているかのように快適だ。

 こんなことにも気づかなかったなんてな……。

 いつも通り振る舞っていたはずだが、みんなが心配するのも当然なわけだ。


「膝を貸してやっているだけだ……うん。いい機会だ」


 ひとりで納得した樹里さんが、頭に手を伸ばして俺を安心させるように撫で始める。

 少し気恥ずかしいが、辞退するとは言いずらかった。

 膝枕してもらっているのに、今更ながらの話だよなぁ。


「私の過去を話すとしよう。君も気になっていただろう?」

「気になっていなかったと言えば、嘘になりますけど……秘密なんじゃないんですか?」


 俺が初めてスカイナイトに搭乗しようとした時、樹里さんは震えていた。

 俺以外は理由を知っているのだろう。誰も言及しないし、触れてはいけないものだと思っていた。

 これまでに状況と言葉から察することはあるが、樹里さんの口から聞けるのなら、それは憶測ではなく真実になる。


「秘密なことはないさ。ただ、そうだな。面白い話ではなく、私がどれだけ弱いかを証明することだからな。失望されないか恐ろしいのかもしれないな」

「俺が樹里さんに失望することなんて、ないです。樹里さんはいつも頼れる司令官ですよ」

「……ありがとう。そう言ってもらえるのは素直に受け取っておくよ」


 樹里さんはそれからしばらく心を整理するような時間を置いた。

 容易く話せることではないのは、わかっている。だから話してくれるまで待つ。

 俺の頭を撫でながら、樹里さんは穏やかに語り出した。


「君も気づいているとは思うが、正式に言っておこう。格納庫にある黒いスカイナイト、あれのパイロットは私だ。正式名称はスカイナイト1号機-フラガラッハ-。10年前に製造された2機のスカイナイトのうちの1機だ」

「1機はレーバテインですか?」

「いや、スカイナイト0号機があったんだ。パイロットは、島 百合」


 名前を聞いた途端、背筋に氷でも当てられたようにゾクッとした。

 その名前には、聞き覚えがある。

 小地球004に向かう車中で聞いた、おやっさんのひとり娘の名前だ。10年前に行方不明になったと言っていたけど……。


「お察しの通り、百合は軍蔵さんの娘さんだ。私と百合は親戚で近所に住んでいたこともあって、親友だった。私たちが、スカイナイトのパイロットに選ばれたのは偶然だがな」

「ふたりともパイロットだったんですか? 百合さんが行方不明になったのは、10年前ですよね。10年前って樹里さんは……」


 いまが20歳のはずだから、10歳の頃だ。年端もいかない年齢と言っても過言ではない。

 空が12歳からレーバテインのパイロットだったから、さらに若いことになる。

 みんな小さな頃から戦っていたんだな……。それだけの歴史が空食との戦いの間にあるということだ。


「あの時は幼かったよ。私と百合は、スカイナイトのテストパイロットとして、日夜訓練を続けていた」

「空食と戦うために、ですか?」

「いや──私も本当のところは知らないが、当時、調さんは私たちが戦うことになるのは、10年先だと言っていた。誰も好き好んで子供を戦わせたりはしない。本来なら私たちが大人になって、操縦技術を学んでから実戦に出るはずだったんだ」


 子供を戦わせるなんてこと、個々人を大切にしている調がするだろうか、と疑問だったが、氷解した。

 本来は大人に──樹里さんぐらいの年になってからの予定だったのなら、頷ける。

 調にとっても、不測の事態が起きたということだ。


「それは……空食の襲撃を調は予見していて、早まった?」

「調さんが明言したことはない。私は、空食と戦うためにスカイナイトを用意したのではないと推測している。もし空食の勢力が地球を覆い尽くすほどに強大なことを知っていたのなら、調さんは策を講じていたはずだ。小地球の配備も後手に回ることもなかっただろう」


 訪れる脅威に対して、子供の頃から樹里さんと百合さんを選び、パイロットとして育てようとしていた調だ。

 空食も事前に把握していれば入念に準備をする。少なくとも現在の人類のようにどん詰まりの状況にはならないよう、先手で対策を講じるだろう。

 少なくとも俺が持っている調への認識とは、そういうものだ。


「スカイナイトが空食と戦うために用意されたのではないとしたなら、なにと戦うためのものなんでしょう」

「まだわからない。私たち人類が空食の脅威を乗り越えれば、きっと話してくれるだろうと思っている──話が逸れたな」


 樹里さんは仕切り直すように間を置いた。

 これ以上は樹里さんも情報がないのだろう。

 調が秘密にしていることに一歩近づいた。いまは、それでいいか。


「私と百合がスカイナイトの訓練を始めてからしばらく、宇宙から空食が訪れた。最初の襲撃地点は東京。調さんと軍蔵さんは悩んだ末に私たちを送り出したが、操縦技術も拙く、実戦経験もなかった私たちは敗北した」


 樹里さんの声が、押し殺したものに変わる。

 声色からでも、心が掻き乱されるような出来事を思い出していることが、わかってしまう。


「樹里さん、辛かったらやめてもらっても……」


 髪がそっと撫でられる。

 触れた感触から、手が震えているのがはっきりとわかった。

 人の傷ついた心は時間で癒えない、と口にした樹里さんだ。

 実感として、当時から10年経とうとも癒えない傷を抱えている。だからこそ、思いの詰まった言葉だったと深く納得する。

 

「気遣い、ありがとう。君にも知っておいてほしいんだ。戦闘中にスカイナイト0号機は、百合は空食と宇宙空間に上昇し、そのままMIA──戦闘中行方不明になってしまった。私はあの時なにもできなくて、自分の無力さに、スカイナイトに搭乗することが怖くなってしまった」


 俺の髪に当てられた手の震えが、大きくなる。

 樹里さんはずっと傷と戦っている。

 俺にはなにもできないけれど、その震えが止まるといいと思って、自分の手を樹里さんの手に重ねた。

 樹里さんの手はぞわっとするほど冷えていて、いかに辛い思いを吐き出しているかが伝わってくる。


「それでも樹里さんは……乗り続けるしかなかったんですよね」

「ああ。百合の最後の言葉が、みんなを助けようって言葉を支えに、私はスカイナイトに乗り続けたよ」


 自分の中にある無念や後悔、そういった恐怖を押しつぶすように、樹里さんは無理をし続けたはずだ。

 百合さんの残した言葉は道標ではあったけど、樹里さんを縛り付けてしまったようにも思えた。


「5年ほど戦い続けて──空と出会った。彼女がスカイナイトに乗ると言った時、恥ずかしながら私はもう乗らなくていいと、そう心の片隅で思ってしまった」


 険しい言葉尻は、次第に自分を責め立てるようなものに変わっていく。

 不思議と樹里さんから、冷たい風が吹いている気さえする。


「思ってしまったら、最後だった。何度スカイナイトに乗ろうとしても指先が震えて、心が狂ったように崩れてしまうようになっていた。その時初めて思ったよ、もう私はスカイナイトに乗れないのだと」

「でも樹里さんは」


 樹里さんの氷のような手にぬくもりを通わせるため、強く握る。

 少しでも俺の熱が、抱いた思いが樹里さんに伝わればいい。そう思って手を合わせる。

 多くの人を守ってきた手は、ひどく小さいものに感じられた。


「空が乗るまでひとりで戦って、みんなを守ってくれた。樹里さんにしかできなかったことです。俺だって樹里さんに守られてたと思います。ありがとうございます」

「……そう言ってもらえたのなら、私が乗っていた意味もあったのだろうな。次代に繋ぐことができたんだから」


 声色はほんの少しだけ、晴れやかさを帯びていた。

 さっきは樹里さんに支えてもらったんだ。俺だって支えられたらいい。

 いまは膝枕なんてされているから、格好がつかないけど。

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