第32話「絶望を変えるものは」
灰色の葉をつけた低木の群れをしばらく進むと、開けた場所に出た。
川のほとりだろう。土が支配していた地面は森との境界線を示すかの如く、敷き詰められた石へと変わる。
山頂の湧水が降りることで形成された川は、せせらぎを生んでいく。
安らかな自然にしばし耳を澄ませたあと、視界を彷徨わせる。
咲はどこだ……?
「居た」
咲は足首が浸かる程度の浅瀬にいた。
ひとまず、なにも起こってなかったみたいだ。よかった。
声を掛けようと踏み出しかける。でもその足は進まなかった。
咲は黒いワンピースを、湿った穏やかな風の吹くままに揺らし、腰までかかる髪を重力に従わせながら暗黒の空を見上げている。
端正な絵と見紛うような光景に、見惚れてしまっていた。
咲はなにを思って、空を仰いでいるのだろう。リビングから花畑を眺めている時のように、無感情なのか。鼻にかかるほど伸びた髪で、表情は覆い隠されている。
俺に見せていない表情だらけなんだろうな、あの髪の下は……と、ぼーっとしていたら、咲はちゃぷちゃぷと遊び出した。
波音を刻むように、咲の足が軽くステップすると髪が躍る。ワンピースの裾が空気を含んで舞う。
ここ数日で培った咲のイメージ像からは、かけ離れた姿だ。
彼女にも、外に出て遊びたくなることがあったのかもしれない。室内で動かずに過ごすのは、案外に疲れることなのだ。
「ま、声かけるか」
盗み見しているようで、そろそろ罰が悪いな……と足を踏み出した時だった。
軽快に、歌うような音を鳴らしていた咲の右足が、浅瀬の石の上で滑る。片足の制御を失ってバランスの取れなくなった体が、ぐらっと倒れ始めた。
咲の美しさに見惚れていたが、水の上で跳ね回るなんて危険極まりない。止めるべきことだったのに。後悔を思いながらも。
「っ!」
目視した瞬間には、走り出していた。
──間に合え!
世界そのものが間延びしたように引き延ばされて、川のせせらぎも意識の外に放り出される。俺の世界から、音と色が消えていく。
己の焦りと、心臓の鼓動が嫌にはっきり聞こえる。咲が倒れようとしている先に、彼女の頭の大きさに似た石があったせいだろう。あんなものに頭をぶつけたら、死は揺るがない。
体が傾くにつれて、咲の前髪が左右に流れて、覆い隠していた目元が露わになっていく。
咲は生気のない瞳でただ空を見上げていた。自分が死ぬ可能性のある状況ですら、彼女の表情に変化はない。目を閉じようともしない。ただ流れの中に身を置くだけで……。
咲の中に巣食う闇は、死の概念すらも関心の追いやってしまうものなのだ。
ふつふつと、沸騰するように湧き上がるものがあった。
死なれるなんて冗談じゃない。樹里さんになんと言えばいいんだ。俺はまだ、恩を返してないんだぞ。
すべての孤独と絶望を詰め込んだ瞳のままで、咲の命を終わらせたりしない。
次第に、世界が色と音を取り戻して、遅まきになっていた景色が加速していく。
「まっにあぇぇー!」
叫びながら、俺は無茶だと理解しつつもスライディングする。
川底の小石が下半身にごりごりと当たる。瞬間的な痛みがあろうとも、なんとか動作が止まることはなかった。
真横から咲の真下に滑り込み、既の所で腕に抱きとめる。
「はぁー……よかった……」
咲の上半身の重みを、僅かに感じながら安堵する。
というか軽くないか? 抱いた咲の肩から伝うぬるい体温は、そこに居ることを教えてくれる。でも人のような重量を感じない。中身のないダンボールを抱えているようだ。
見た目からして、ワンピースをすらっと着こなすスレンダーさなのだから、おかしく……ないのだろうか? 人の重さって明確に感じたことはないのだけど。特に女性を抱えるなんてことは──空を抱えたことはあるか。緊急時だったから重さの印象なんてものはないけれど。
そんなどうでもいいことを思考していた時だった。
咲がぽつりと言った。
「ようやく……死ねると思ったのに」
時が止まったように感じられた。
それは咲が俺に初めて見せる、心の底からの感情を伴った言葉だ。ドロドロとして、粘着質な絶望を露わにしている、生の感情そのもの。
咲の表情に注視する。
酷く疲れたように濁った目は根深く。顔を覗き込んだ俺ではなく、もっと先の暗黒の空を見上げているようだった。
こんな苦しみに満ちた表情は、見たくない。
心に走る鈍痛は、僅かな言葉を紡がせる。
「どうして、死ぬだなんて……」
自分からすべてを閉ざそうとするだなんて。まだ咲は生きているのに。
咲の目から、一筋の涙が流れ落ちた。それは波紋にすらならず、無慈悲に川へ溶け込む。
彼女の姿は、この瞬間にも闇の中に掻き消えてしまいそうなほど儚いように思えた。
「……私は、ね、この世界で生きるのが辛いのよ。私に優しかったパパ、ママ、可愛い妹も、誰もいない世界で生きるのなんて、拷問のようだわ」
俺は、返す言葉がなかった。
過去の出来事から連なる、積層した因果を紐解く術を俺は所持していない。
咲の事情を一切知らないからだ。もし知っていたとしても、咲の心に届かせる言葉があったかもわからないが──それでも自分から諦めることだけは、させたくなかった。
「ダメだ。死ぬことは俺が許さない」
「死ぬのにあなたの許可がいるの?」
心底どうでもよさそうではあったが、咲は俺に涙で濡れた瞳を向けた。
俺に人の死を左右する、おこがましい資格がないことは承知している。
しかし目の前で死を選ばせるほど達観していないし、薄情でもない。
「俺は、まだ咲に恩を返してない」
「恩……?」
「助けてくれた。咲は俺の命の恩人だ。だから恩返しするまで死なれるわけにはいかない」
「……勝手だわ。そんな身勝手な恩ならもういい。私を放っておいて」
恩返しする相手に、恩の押し売りをする。
荒唐無稽で理論の伴わないことを言っている自覚はあったが、口を止めたら今度こそ行き止まりな気がした。
どんな言葉でもいい。咲をこの世界に繋ぎ止めるために、口を回し続けるしかない。
僅かにでも、咲の心に響くものがあると信じて。
「無理だ。俺は俺のために咲に恩を返す。傍若無人やら身勝手でも構わない。俺は俺が恩を返すまで咲が死ぬことは許さない」
断定する口調で言い付ける。
咲は決して譲らない俺の意思を読み取ったのか、諦めが過分に含まれているため息をついた。
まあ勝手な言い分だ。呆れられるのも仕方ない。
「それは……いつ返してくれるのかしら」
咲は死者のようにどろっとした瞳で、見つめてくる。
恩を返したその場で死ぬとでも言いかねない様子だったが、期限なんて考えるまでもない。
そもそも、こちらに選択権を委ねている時点で答えはひとつしかないのだ。
「俺が死ぬまで返し続ける。絶対に俺より先立たせたりしない」
野ざらしで気絶していたところを助けられたには、命を救われたと言っても過言ではないことだ。なら、その恩は一生返す。
自分の正直な気持ちを伝えることに、一抹の躊躇いもなかった。
言い切ってからも、生真面目に咲を見続けていたら。
「……ふふっ」
咲が耐えきれなくなったように、口元から吹き出した。
目尻は柔らかく、口角は僅かに上がって微笑みを表している。
初めて見る、咲の笑顔だった。
なにがあった。
笑えることだったか。覚えがまったくないのだが。
先ほどまでの諦念とした雰囲気とはこれっぽっちも合わない事態に、ぽかんと口を開けて驚いていると。
「ごめんなさいね。なんだかとても似つかわしくない、プロポーズのセリフみたいだわって思ったら、おかしくて……あははっ」
どうやら咲のよくわからないトリガーを引いてしまったらしい。
笑い上戸となった咲に、ジトッとした目を向ける。
そんなに笑うことか?
「こちらは大真面目だったんだが」
「ぷっ、あはっははは。わかってる、わかってるけど、はーっ、なんかおかしくなっちゃって」
咲は今まで堰き止めていた感情を、洪水のように流し、肩を小刻みに震わせた。
ここまで笑われると、ちょっと後悔が脳裏に過ぎる。
無意識とはいえ、恥ずかしいことを言ってしまったもんだと思ってしまう。
「こんな笑われるなら言わなきゃよかったよ……」
「ごめん、ごめんなさいね。こんなに笑ったの10年ぶりだから、ぜんっぜん収まらなくて」
いまだに笑い続ける咲を見つめながら、考える。
どろっと汚泥したような虚ろな目で外を眺めていた咲のことを思えば、笑えることがあったのは、喜ばしい。
咄嗟に拗ねるようなことを口にしてしまったが、自分きっかけというのも悪い気分ではない──むしろ良い気持ちだ。
無表情だった咲に、なにかを与えられた、ということなのだから。
「……まあいいか。咲、そろそろ立ち上がれるか? 腕、疲れてきた」
地面や小石に打ち付けないために左腕を咲の腰に回し、右手で頭を支えているのが震えてきた。
咲に集中していた意識を周囲に向けると、冷えた川に浸りっぱなしなせいで、寒さも覚えるようになりつつあり、限界が近い。
それは咲も同じのようで、水に浸かった下半身を見つめて、ぶるっと体を震わせた。
「……それもそうね。私を重いみたいな言い草は気になるのだけど」
「いや、軽いよ」
本当に臓器が入っているのか疑うような軽さなのだが、自分で自分を持ち上げることなどできないので、証明する手段はなかった。
咲が納得するには説明をどうするべきか……と眉を八の字にしていると、咲は穏やかに息を吐いて笑う。
「ふふっ、そーいうことにしといてあげるわ……よいしょーっと」
そういうこともなにも、真実を伝えただけなのだが。
咲は上体を起こしたあと、なんなく立ち上がる。
怪我してる箇所はないか、さっと咲に目を通しつつ俺も立ち上がった。
一見する限り、怪我はしてないみたいだが聞いておこう。
「どっか痛いところはないか?」
「……あるわ」
「なにっ? どこだ、見せてくれ」
もしや、支え切れずに体を打っていたのか?
打身なんてあったら、一大事だ。
あたふたと視線を彷徨わせていると。
「体はなんとも……心が痛いのよ。あなたのせいね」
俺のせいとは言っているが、咲の声は弾んで、柔らかに微笑している。
俺が咲の目的を果たせないようにしたのは、紛れもない事実だ。多少の憎まれ口は甘んじて受け入れよう。
少なくともいまは、生きてくれているのだから。
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