第20話「陽姫は朗らかに」

 朝宮邸から飛び出した朝宮さんの姿は、ほどなくして発見することができた。

 夕刻時に西側の天井から降り注ぐ黄昏の光を浴びて、朝宮さんは道路に長い影を作り出している。

 落ち込んだように背中を丸め、とぼとぼと力なく歩いている姿に心がざわめく。

 彼女にとって、大切な歌う行為そのものを止めざるを得なかった。

 空食に小地球が襲われてしまうことを考えたら仕方のないことだけれど、理屈と感情は別物だ。

 感情は理屈で抑えきれないし、どうにかなるものではない。

 十五郎さんやおやっさんの前では気丈に振る舞っていたけど、やっぱりひとりになると辛い感情が先行してしまうのだろうな。

 こういう時はひとりになるものじゃない。追いかけてよかった。

 走りながら空と顔を合わせて頷き合ったあと、呼びかける。


「朝宮さん」

「……?」


 朝宮さんは足を止めて、ゆっくりと身体ごと振り向く。

 こちらを捉えた目は入り込む茜色の光によって陰影が強く、深い哀愁に満ちているように思えた。

 俺と空は朝宮さんの間で止まり。

 なぜ? と戸惑うように視線を空中に彷徨わせていた朝宮さんが、はっとして俺たちを捉える。

 俺たちが朝宮さんを追いかけてここにいるってことは理解してもらえたらしく、次の瞬間には静かな笑みを湛える。


「あなたたちは……追いかけてきてくれたの?」

「うん。少しお話しない?」


 空も笑いながら話しかける。が、朝宮さんは残念そうに首を横に振った。


「ごめん……それはできない」


 やっぱりひとりになりたいのだろうか。こういう時、すぐに吐き出すのは難しいかもしれないけれど……。


「言い辛かったら俺たちは待つよ。もし抱える感情があるのなら──」


 朝宮さんが俺たちを真剣な目で見つめ、再び否定するように首を振る。


「違うの。私、本当に佐野のおじいちゃんのところに行かないといけないの」


 ……ん?

 この発言には空も驚いたらしく、口を半開きにしてから朝宮さんに問いかけた。


「佐野のおじいちゃんのところに行かないとって言うのは、その、建前とか、あの場所に居づらかったからとか、そういうことじゃなく……?」


 朝宮さんが小首をかしげる。


「違うよ? 確かに居づらかったのは確かだけど……あれぐらいで私は逃げないよ。佐野のおじいちゃんの家に、お喋りをしにいく約束なんだ」


 朝宮さんはとろっとした満面の笑み。

 朝宮さんの心を表すように思えていた黄昏の光から、輝く黄金の光へ。静かに意味の変わりつつある茜色の光。

 朝宮さんの表情から、瞳からは嘘を一切感じられず、無理をせずに本当のことだけを言っているようだった。

 ……なんだ、もしかして。


「本当に行かなきゃいけなくて、時間が迫ってたから急いでただけ……?」


 歌うのを止めてくれと、自分の歌が敵をおびき寄せているのかもしれないと知った、あの出来過ぎたタイミングで。

 呼び止められない疾風のような速度で出ていって。


「そんなことあるの……?」


 空は信じられないとでも言うような口調で発したあと、朝宮さんを見た。

 思ったよりも背負いこんでいなくて、本来なら喜ぶべきなんだろう。でも、嘘でしょ? と言いたくもなる気分でもある。

 俺たちが向ける視線に込められた驚きの感情を察した朝宮さんが、答えをくれた。


「ごめんね。でも心配して追いかけてきてくれたの、本当に嬉しかった。ありがとう」


 投げかけられるのは、俺たちに向けられた優しい言葉。

 おっかしいなぁ……。


「約束があるわりには、とぼとぼと歩いてたみたいんなんだが」


 朝宮さんに追いついた時、彼女は背を丸めて、落ち込んでいることを俺たちの目にこれでもかというぐらい教えてくれていたはずだ。

 あれは俺たちがそう思ってたから見えてしまったのだろうか……?

 朝宮さんは照れたように頬をぽりぽりと書きながら。


「いやー、お恥ずかしいところ見られてたみたいで照れるね。落ち込んでたのは確かだよ。もう私の歌を聞いてもらえないんだって。私の歌がその、敵の餌になっておびき寄せてしまうのなら、敵がいなくなるまで歌えないってことなのも、ちゃんとわかってる」


 おやっさんが朝宮さんに告げたのは、朝宮さんは空食によって閉じられた地球が開放されるまで歌わないでほしいということ。

 明言はしていなかったけど、朝宮さんは気づいていたのだ。いつまた歌えるようになるかもわからない、途方もないお願いだって。

 朝宮さん自身が本気で、好きでやっているからこそ、比較的狭いコミュニティである小地球であっても道に人の川ができてしまうほどに人が集まっていたことは想像できる。

 本気でなにかをできる人の元に集まるのは、それが光のように輝かしく思えるから。

 その輝かしさに触れてみたいと思うから。

 一度だけ歌を聞いた俺でもそう思ったのだから、朝宮さんの歌は、想いは本物だ。 

 そこまで至った想いを封印してくれと言っているだから、告げられた朝宮さんが落ち込んでいると俺たちが思うのも当然……のはずなんだけど、朝宮さん本人はさしてそれが大事であるとは捉えていないような。

 朝宮さんはあくまで、自分の心のまま自然な姿を貫く。

 一呼吸してから前置きしながら、朝宮さんは力強く続ける。


「歌が歌えないからって私にできることは変わらないよ。辛いこと。悲しいこと。この閉塞した小地球の中でもいっぱいある。だからこそ私は、みんなに笑顔でいて欲しい。みんなが笑顔で居られるのなら私ができることをするって決めてるんだ。たまたまみんなが笑顔になったのが歌だっただけで、歌がなくなったって、みんなのために私ができることは、なにひとつ変わらないよ」


 俺たちを真摯に見つめる朝宮さんの瞳と声色には、1本の芯が通っているように揺れることのない強固な覚悟が宿っている。

 俺も空も、覚悟にあてられてしばらく言葉を返せないでいた。

 自分の中にある意思を明確に持って言葉にしている朝宮さんは、きっとひたすらに前を向いていられる人間なのだろう。

 壁が立ちふさがろうと、ひとつの目的のために回り道も、強引に昇り切ることも、とにかくなんでも自分にできることはする。

 後退を許さずに、ひたすらに前へ行ける人なのだ。


「ま、歌えないのが寂しいのは本当だけどね。それでうじうじしてもどうにもなんないし! 気にしないで!」


 朝宮さんは体の前で両手をぎゅっと握って、元気元気!とリズムを取りながら伝えてくる。

 そうだ。落ち込んでいたと思っていた人自身が、こんなに元気であろうとしている。  

 前を向こうとしているんだ。

 朝宮さんが納得した上で言っているのだから、俺たちが心配することでもないか。


「だな。後ろだけを向いていても、なにも意味がないか」

「わかった。朝宮さんがそう言うなら、私も気にしないことにするよ」

「うんうん。そうしてくれると嬉しいなって、あっ!」


 朝宮さんが口を大きく開きながら手を口に当てる。

 なんだなんだ。やってしまったみたいな顔をして。


「私、佐野のおじいちゃんとおばあちゃんのところ行かなきゃいけないんだった!」

「行く途中だったんだよな。勘違いで呼び止めてごめん」

「謝ることなんてないよ。気持ちはすっごく嬉しかったからっ! あなたたちは軍蔵さんのところでやることがあるんだよね。私のことはもういいから戻ってあげて」

「いや、どうだろうなぁ……」


 実際のところ、軍蔵さんが小地球を整備している間は俺たちにやることがあると思えない。

 機械の整備なんてしたことはないし、居ても邪魔になるだけだろう。


「まあ、私たちやることはないよね。で、朝宮さんさえ良ければなんだけど」

「なにかな?」

「いまから朝宮さんに付いていっていいかな? この小地球のこと色々知りたいし、見て回りたいんだ。いいよね、大地くん」


 反対する理由はない。空が言っていることは俺も考えていたことなので、首肯しておく。

 手持ち無沙汰でただぼーっとしているだけなのは悪いと思ってしまうから、ちょうどいい提案だ。


「……えっと、いいの? 私、他にも色々約束しててやることあって、あんまり案内ってことにはならないかもしれないけど」

「望むところだ。俺たちにやれることがあるなら遠慮なしに言ってくれたらいい」

「そうそう。素敵な歌を聞かせてもらったお礼もしたいからね」

「素敵な歌だなんてそんなこと……でも、ありがとう!」


 朝宮さんは空に素直に歌を褒めてもらって、もじもじと照れていた。


「じゃ、じゃあ頼らせてもらうね。えーっと……あっ、そういえば名前も聞いてなかったね」


 確かにそうだ。朝宮さんと会ってからあれやこれやと場所を移動したり、話がとんとん拍子に進んでしまったので自己紹介すらしていない。

 俺たちが朝宮さんの名前を一方的に知っているだけだ。

 空はまず自分からとでも示すように人差し指を立てて、言った。


「じゃあ自己紹介からだねっ!私は青見 空。空って呼んで。次は大地くん」


 空が自己紹介の道筋を作ってくれたので、それに乗っかろう。


「わかった。俺は空海 大地。俺も大地って名前で呼んでくれ」

「空さんと大地くん、ね。改めて、これからよろしくっ! 私のことも朝宮さんじゃなくて、名前の陽姫って呼んでね」


 こうして俺たちは、互いの紹介をやっと済ませて、陽姫が向かう予定の佐野家に急いで向かったのだった。


 ……

 …


 できるだけ役に立てれば、と引き受けた──というより、陽姫が言っていた色々約束があってやることがいっぱいだと告げていたことは、想像よりも大変なスケジュールだったことを、俺たちは陽姫に付き合ううちに思い知らされることになった。

 まずは聞いていた通りに佐野家で佐野のおばあちゃんとおじいちゃんと談笑する。話を聞いていると、10年前の空食の侵攻によって娘や孫と離れ離れになってしまって気分が沈んでいたらしいのだが、いまは陽姫の歌、少しの間だけでも陽気で太陽のような輝きを持つ陽姫に会えることが生きがいなのだと教えてくれた。

 陽姫のような明るい人と毎日会えるのなら、それは幸せとして生きがいになるのかもしれない。

 短い時間ながらも楽しい談笑が終わって、惜しまれながらも別れを告げた俺たちは移動する。

 俺たちを最初に出迎えてくれた、小地球004の出入口とも言うべき場所。川の文字のように3列になっている道路の両サイドに住宅が等間隔に並んでいる住宅地に俺たちは足を踏み入れた。

 どうやら3列のうち右側の道路の奥まった場所に広場があるらしくて、そこを目指しているとのことだ。

 小地球にしては珍しく暮らしている人が多いこともあって、住民たちが集まって居られる、憩いの場というものが作られているのかもしれない。

 広場に向かう間にすれ違う人たちに陽姫は人気で。老若男女問わず声をかけられては足を止め、話してから再び進むものだから広場に着くまで時間がかかってしまった。

 陽姫いわく、


「せっかく私に話しかけてきてくれてるんだもん、なにより私は誰かとお話するのが好きだからね。嬉しいの」


 らしい。

 陽姫は誰と話していても真っすぐ。どんな闇でも飲み込む、侵されることのない光であるように純真だ。

 光が突き進むように前を向き続ける陽姫だからこそ、歌だけでなく平時から色々な人と交流を持って、慕われているのだろう。

 広場に着いてからは、この時間に約束していたらしい子供たち数人との遊びが始まった。

 遊びと言っても鬼ごっこなどは体格差の問題があるので、だるまさんがころんだだったり、じゃんけんだったり道具が必要なくて、手軽に出来る遊びが主だ。

 ……人数が多いとこれがまた単純なものでも楽しくて、俺たちは時間を忘れたように遊び続けた。

 西から注ぎ込まれる夕刻を示す茜色の光が、ぼんやりとした夜を表す光に少しずつ変わり始める頃、子供たちと笑顔でさよならする。

 そろそろ住宅地の人通りも少なくなってきて、活気もなくなってくる時間になり。

 陽姫がこんな時間だけど、と申し訳なさそうに最後に行く場所があると言うで、俺と空は大丈夫と告げて。色よい返事に飛び跳ねそうなほどにっこりとした陽姫に案内されるがまま、本日最後の目的地に向かった。

 

 ……

 …


「ここが目的地だよ」


 と言って、陽姫が足を止めた。

 現在地は小地球004の中央。住宅地を道路に沿って真っすぐに抜けた先にある病院の広場だ。陽姫が段上で歌っていた場所でもある。

 夜に差し掛かっていることもあって人出はなく、物静かな雰囲気だけが周囲を包み込んでいた。

 小地球で迎える夜特有の、ぼんやりとした一種の荘厳さすら兼ね備えた光は、病院を神秘的なもののように見せてくれる。

 空は病院を見上げつつ言った。


「ここに用なの?」


 陽姫はこれまでにっこりしていた表情に哀愁の要素を混ぜながら病院の一角を見つめる。

 目的は、視線の先にある灯りがついている病室なのだろうか。


「入院してる女の子がいてね……明日は手術なんだけど、その励ましっていうのかな。応援なんだ」

「手術なんだ。その子もきっと不安だよね……」

「たぶん、そうだと思う。だから少しでも不安を和らげられたらって思って。私の応援とかそういうのにどれほどの効果があるのか、わからないけどね」


 言ったあと、陽姫は「時間も時間だし、病院内では静かにいこう」と告げて歩き始めた。

 これまでのスキップをしそうな足取りに比べると、少量の鉛を靴底に付けられているかのように足取りが僅かに重い。

 陽姫が沈んでしまうなにかが、女の子と陽姫の間にはあるのだろう。

 理由を聞くか聞くまいか悩む時間さえ与えないように、陽姫は前に進んでいった。

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