第1章「空で始まる物語」
第1話「すべてが変わった世界」
夜が音もなく、風もなく静かに明ける。
まさしく火が灯ったように、地表が不自然なまでに照らされていく。
朝の訪れを知らせていたらしい太陽は登らず、空は黒色の絵の具を丹念に塗りたくったように黒だ。
見慣れた光景ではあるが、ずっと見ていたら、気分が滅入ってしまうこと請け合い。
聞いた話では、本来の空は心が澄み渡るほどに青いものらしいが、この陰鬱な空からは想像もつかない。
俺、騙されたりしてないよな?
「なんだ、もう、いくのかい?」
背後からのしわがれた声に振り返る。
俺の出立に気づいたらしいおじいさんが、にこやかな顔で立っていた。
早朝から起こすのも悪いだろうから別れの置き手紙はしておいたんだが。気づいて追いかけてくれたらしい。
二度と会えるかもわからないご時世。別れを面と向き合って言えるのは良いことだと、嬉しく思う。
「うん、じいさんには世話になった。ありがとう」
握手を求めるために右手を差し出すと、じいさんが快く握り返してきた。
ざらざらとした生きている分の苦労を感じる皺のある手で、一見では心許ないように思える。でも、生きた年数分の力強さを感じる握手。
「こんなご時世だ。気にせんでいい。ワシらはこの小地球をもらっただけだしな、外からの人はいつでも歓迎だ。村と言っても人口は十人足らず、住居も土地もありあまっとる」
「その通りみたいだったけど、家庭的で活気があって元気をもらった。楽しかったよ」
「そりゃよかった」
ところどころ欠けた歯をにっと見せて、老人は笑う。
こんな先行きのわからないご時世に、元気のあるご老人だ。
空は黒く陰鬱だが、それでも人は前へ進むことをやめていない。
この世界に希望があるわけでもないだろうが、無駄に悲観的であることより、よっぽど健全だ。
「お前さんは孫たちともたくさん遊んでくれたしな、また寄ってくれ。歓迎するよ」
「また絶対にくるよ」
「……
どこへ行くのか。
俺に取って最も大事なことで、生きるための目的を老人は聞いていた。
空と海と大地。
地球の自然を思わせる、ストレートすぎるネーミング。
唯一、記憶の中に鍵が掛けられていたかの如く、失われず残っていた俺の名前だ。
……誰がこんな自然そのものな名前と苗字にしたんだろうな?
両親に面白がってつけられたりしたのだろうか。強く生きろ、昔の俺。
1年ほど前のことだ。記憶を失って、大地に生き倒れていた俺は、見ず知らずの人に命を助けられた。
拾ってくれたのは親切な人で、日々の生活に必要なことから、わかる範囲で今の世界情勢や歴史を教えてくれた。
多少、マイナーな知識が多かったような気がする。しかもサブカルチャー方面に。
この先行きの不明な世の中を生きるのに不便がないようにと、なんでも教えてくれていたんだろう。うん。
少しの期間を経て、人並みの生活を不自由なくできるようになっても、記憶が戻ることはなかった。
ただ一つだけ記憶の海原に、小さな灯台が淡く灯っていた。吹けば消えそうな灯火でも、確かに心に根付いているものがあった。
それが唯一の生きる目的であると、俺は思っている。
「たぶん、俺は大切な何かに出会うために旅を続けてる。何がしたいのかは、わからないけどね。あてのない放浪さ」
「そういえば記憶喪失だったんだな。その誰かに会えることを、記憶が戻ることを天の代わりに、地に祈っておるよ」
昔は天命に任せるだとか、そんな言葉があったらしいけど、いまは天が暗闇に閉じられているからか、不吉な天に祈ることは誰もしない。
天に神さまがいないってことを、みんな知っている。もし神さまがいたのなら、この世界は外敵の侵略なんて受けなかったということだとか。
人間本位の都合のいい考えではあるけど、この傲慢さも人間というものだ。
それでも人は偶像の、自分ではない何かに運命を託してしまうもので、神さまに代わり大地に祈ることを、人はここ10年で自然に覚えていた。
と偉そうに言ったが、これは俺を拾ってくれた恩人からの受け売りだ。恩人は少し捻くれ、歪曲した物の見方をする人で、話し方も大仰な人だった。
恩人の思想は抜きにして、祈ってくれることは嬉しく思う。
「母なる大地に感謝を。そろそろ行くよ。もらった欠片の力がなくなるより先に、次の小地球に着かないといけないからさ」
昨日のうちに許可を取って、小地球の内壁から削り取った米粒程度の欠片を見せながら答える。
今のご時世、小地球の欠片がなければ迂闊にも出歩けない。
人にとって、小地球の外は安全ではなく命の危険を伴う領域なのだから。
「おおっ、そうじゃった。長話してすまんね、外からの客人なぞ、5年来のことだったもんで。いってらっしゃい」
「じゃあ! いってきます!」
後ろ歩きしながら、じいさんに手を振る。
一日をともに過ごした人に温かみのある送り出しに、心が静かに温まるのを感じながら、俺は次の目的地へあてもなく歩き出した。
……
…
歩き始めて、もう半日が過ぎた。
地表を照らす光が、少しずつ茜色に変化していく。
聞くところによると、夕日──に近いものらしい。
実際に太陽はないが、光は人間が昔に営んでいた時間に合わせて変化する。
これまで小地球を巡りながら理由も探していたが、理屈はいまのところ、わからない。いつでも朝は明るくなり、夜は暗くなる。
夜は、昔に大地を照らしていた星の光というものがないらしく、人の目でも見えるようにするためか、うすらぼんやりとしている。
神さまが人を助けてくれてるとか、そんな都合のいい奇跡的現象だったら解明してみたいところだ。
恩人に言ったら、神さまなんてばかばかしい。もし神さまがいたのなら、こんな世界にはなっていないのだから、と毎度のように言われてしまうかもしれない。
俺は閑散とした都市に、足を踏み入れた。
ビルがすぱっと半分に切られたような断面があったり、建物だったと思しき残骸が、そこら中に転がっている。
こうなるまでに月日は経っているだろうに、片付けられもしていない戦闘の痕跡が痛々しい。
無造作に転がっている車はタイヤがもげているし。近くには、全身が汚れた手のひらサイズのクマのぬいぐるみが落ちていた。
どれほど前のものかわからないが、避難中に落としてしまったのだろうか。
無造作に拾い上げて、クマのぬいぐるみについた汚れを手で払う。ぱっと被っていた土が舞って、少しの間遠ざける。
「うん、大丈夫だ。お前はまだいける」
見たところ汚れてはいるが、多少解れていたり、耳がないだけだ。どこかで耳を付け足せば観賞用にできるのではないだろうか。
クマのぬいぐるみのような娯楽品を生産している人は、もう殆どいないと言われている。みんな日々を生きるだけで精一杯になって、流通の手段もないし当然なのだけども。
少なくとも一年間ほどの旅を通じて、娯楽を生業にしている人を見かけたことはない。
娯楽品は、世界が平和だった頃を象徴する貴重なものだ。
クマのぬいぐるみを、丁寧にリュックサックへ仕舞う。
ついでに、今朝作ってプラスチック容器に入れていたおにぎりを取り出す。
「朝からなにも食ってないから腹減ったなー」
誰に聞こえるわけでもないが、言ってみる。
1人旅というものに慣れてはいるものの、一緒にご飯を食べる人がいないのには寂しさを覚える。昨日はおじいさんの家で、やってきた子供たち相手とわいわい食事をしたこともあって、なおさらなのかもしれない。
適当に転がっている大きめのコンクリート片に座って、食事をしながら周囲を見渡す。
当然のことながら、人の住んでいる息というものは存在しない。
色がないとも言うべきか。昔は栄えていたであろう都市でも、高層ビルが、車が、一軒家が、電柱があっても、住む人がいなければ途端にすべてが灰色に見えてしまう。
人の手のないところは緑が戻る、と昔の人は言ったらしいが、干からびた大地から緑を見ることはなかった。
世界にはこの光景が溢れんばかりに存在し、誰も都市に戻ってくることはない。
戻りたくても、戻れないんだけども。
もはや、人の居場所はひとつしかなかった。
「どうにかできたらいいんだけどなぁ」
生暖かいそよ風を身に受けながら、この光景を作っている元凶がいるらしい真っ黒い空をぼーっと見上げ、しばらく食事を続けた。
……
足腰が疲れたと悲鳴をあげそうになり、ぼんやりと世界が暗くなり始めた頃、今日の目的地になんとかたどり着いた。
実際、目的地とは言ってもどこにあるかもわからない賭けみたいなものだが、適当に歩いていても等間隔で設置されているので、意外と見つかるのだ。
大地に根を張るかの如く、青々しい不動の要塞が眼前にそびえ立っている。
ドーム型の生活施設であり、これが小地球と言われている建造物だ。
地球各所にまばらに点在していて、開発者は不明。
宇宙から外敵の脅威に晒されながらも、人類が今日まで生きながらえたのは、小地球のおかげだ。
小地球は半球状の見た目をしており、分厚い外壁に覆われている。
この外壁には外敵が人間を発見し辛くする処理がされており、小地球にいれば外敵に襲われることは殆どないらしい。
殆ど、というのは小地球の中にいても外敵に襲われてしまった例がこれまでに少しはあるからということ。
完璧なものでなくとも、人類はこの中で生活を営むしかない。
空を黒く埋め尽くす、外敵がいる限り。
小地球の外周部をぐるっと回り、閉ざされた扉を見つける。その隣にはコンソール設置されていた。
壁面にある小地球の型番をコンソールに入力すると、電子音がぴこんと軽快に鳴る。
「S-000……って最初期の小地球か」
小地球の型番はどれもSから始まっている。末尾が00ということは最初に製造されたモデルだろう。
今まで20番台までの小地球を見たが、一桁台は初めてだ。
……中が、古臭かったりするかな。もしかしたら老朽化しすぎて小地球として意味のない建造物になっていたりするかも。
思案していると認証が済み、ゆっくりと扉が開いていく。
さらっとした風が吹き出して、清浄な空気が外気と溶け合う。施設自体の稼働は止まっていないらしい。
「さ、いってみるか」
小地球へ踏み込む。
中は外観通りの半球場で、天井には空や太陽や月を模した映像が浮かんでいる。
地球上の天候の再現という、小地球の特徴のひとつだ。
柔らかな風と温もりある光を受けながら、入ってすぐのところにあったコンソールを操作する。
「さて住居者はっと……海鳴 調、青見 空、大波 小波、土宮 樹里、島 軍蔵って5人だけか?」
表示されている名前は5名。
これが現在この小地球に住んでいるすべての人たちというわけだ。
小地球は規模だけで言えば、数百人は優に暮らせるだけの設備と土地と食物供給がある。
その中に5名だけ。
しかも名前を見る限り家族でもないようだが……別々に暮らしていたりするかもしれない。
そうだとしたら、他人にまともに会えるかもわからない時代なのに悲しいことだ。
……
…
コンソールから離れて、周辺を見渡しながら歩き始める。
少し遠い場所にある背丈の低い木々が乱立している場所から、川が小地球の中を横断するようにある。
地面は生い茂る草に覆われていて、自然が溢れていた。
外の荒れ果てた大地とは、大違いだ。
毎日誰かが歩いているのだろう、踏みしめられた道なりを見つけた。
「これに沿って歩けば、民家にいけるかね」
小地球は人間ならば誰でも入れるとはいえ、村のようなものだ。
ここを仕切っている人がいるはず。明日には出立するだろうけど、しっかり挨拶はしておくべきだろう。
また、しばらく歩き続ける。
心地よい風が抜けて、日が落ちていく。
これも小地球の機能で、人の生活に必要なことを補助するようにできている。
天候の管理、気温の管理、空気の管理など、小地球と言うに相応しい活躍をして、自然や人間の体調管理をしてくれている。
律儀に地球と同じく天候が気分屋なので、一部では非難の声もあるらしいが……。
ただ、俺にとって小地球は人を好きな人が作ったのだろうという確信があった。
煩わしい部分は存在するものの、それは人類が暮らすべき自然だ。
もし天候が自由に制御できるなら、人間は雨を都合のいい時に降らせるようになるだろうし、適温で暮らそうとするだろう。でも、小地球はそうできていない。
人間の手だけでは、制御できないように出来ている。
いずれ人間がまた外で──本当の地球で暮らせる時に適応できるように。
小地球のありようを思うと、そう考えてしまう。
これを作った技術者は地球が外敵に解放される、いつかを望んでいるのかもしれない。
……
道なりに歩いていくと、前方にコンクリート造りっぽい白の建物が見えてきた。
家というには面積が広く取られており建物は正方形に大きく、来訪者を歓迎するかの如く門が大きく口を開けている。
「なんだ? 見たことのない建物だな」
教えてもらったことの中には、覚えがない。
大きな建物の中央には人ほどの大きさがある時計が針を刻んでいる。時計塔とかそういうものだろうか? 昔見せてもらったものは、長方形の直立した建造物で、ビッグ・ベンとか呼ばれていた気がするが。
門から中に進む。
広場だろうか、砂が剥き出しにされている。
遊具のようなもの──あれは確か鉄棒だったか。公園が備え付けられていた小地球で見たことがある。
公園を一回り大きくしたような空間のわりには、鉄棒しか置いていないし、よくわからない場所だ。
日も完全に傾きつつあって、人っ子1人いない。
「うーむ。あそこに行ってみるか」
建物の裏手に、草が生い茂る小高い丘が見える。
上からなら民家を探しやすいかもしれない。
俺は背中にある荷物の位置を揺するように調整してから、再び歩きだした。
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