スカイブレイク・ナイト

エルアインス

第0章「閉ざされる世界」

第0話「世界が闇に染まる時」

 晴れ晴れしい青空には不釣り合いな人々の悲鳴が絶え間なく響いていた。地上を当てもなく逃げ惑う人々が発しているものだ。

 世界的に見れば非常に小さい国である日本。さらにその1都市──東京で、人類を絶望に突き落とす、未曾有の危機が始まっていた。

 まばらに立つ高層ビルには巨大な刃物で切り裂いたような亀裂が走っている。耐えきれなくなった高層ビルは、地鳴りのような激しい音を立てて倒壊していく。

 どこから出たのか、火災は荒れ狂う龍のように踊り、住居を飲み込む。それは瞬く間に火の海を思わせるように広がった。

 コンクリート道に亀裂が生まれ、空を向いているのか地上を向いているのか、でたらめに突き出る。もはや道とは到底言えないようなありさまに変貌していく。

 まさに地獄がこの世に噴出してしまったかのような光景が広がりつつあった。

 誰もこの惨状を止められる者はいない。

 地獄が繰り広げられている場所から離れた、安全な地域との境目では駆けつけたばかりの自衛隊員が声を張り上げ、逃げる人々を誘導していた。


「避難している方々は、こちらに!」

「どういうことなんだこれは! あんたら自衛隊だろっ! あれ、なんとかしてくれよ!」


 逃げ惑っていた1人が、自衛隊員を見つけるなりくってかかる。

 気性の荒い男なのか、すべてが自衛隊のせいだとでも言いたげな目と荒々しい口調をしていた。

 非常事態にはどこにでも現れる、受け入れがたい現実を誰かに押し付けることで自己を保つ輩だ。


「あんた見えないのかっ! いまやってるよっ! あんたも早く逃げるんだ!」


 自衛隊員が煩わしそうに言い返すと、男は反論するために口を開けようとするが人の波を縫ってやってきた女性に遮られた。


「あんた、こんな時に何やってんの! 早く逃げるよ!」

「母ちゃん!?」


 お母さんと思しき人が男の首根っこを掴んで、物を扱うように引きずっていく。

 突っかかるだけ突っかかってきて、なんだったのか。

 自衛隊員は関心すら持てない出来事を確認せずに、天を仰いで舌打ちする。さっきの男のせいで、必死に抑えていた感情が爆発してしまいそうだった。


「くそっ、こんなのどうしろってんだ」


 異常を把握した自衛隊が派遣されたのは30分ほど前になるが、その時、すでに東京は手遅れな状況だった。

 見るも無残な高層ビル、真っ二つに折れた電柱、もはや元がなんだったのか、原型すらない瓦礫の山、絶えることのない大勢の悲鳴。

 都市機能が麻痺しているどころか、物理的に東京が壊滅しているありさまだ。一人の自衛隊員にできることはないと断言できる。

 こんな事態は自衛隊が一丸となっても解決できるはずがないと遠方を見据えて、奥歯を噛みしめながら憎しみを溢れさせるように自衛隊員は言った。


「化物めっ……!」


 いまも東京を壊滅させている元凶──巨大な化物が派手に住居を崩しながら進行している様子が、肉眼でもハッキリと確認できる。

 見た目は、そう、巨大な昆虫だ。それも地球上にはありふれている類の種たるアリを、そのまま巨大化させたような存在である。

 6本の脚で立ち、瓦礫の山をものともせずに移動している。まるで創作物から出てきてしまったかのような非常識さがあり、不気味だ。

 こうしている間にも、巨大な蟻は人だと気づかないうちに逃げ惑う人々を踏みつぶしているのだろう。

 どうしようもない。

 あんなものを止める術など、誰も持っていない。

 いずれ、この場所も踏みつぶされておしまいだ。避難している住民も、こちらに来ているのは東京の総人口からすれば僅かなもので、他の地区がどうなっているのか、通信状況も芳しくないため、まったくわからない。

 ふと、足元に大きな影がすっと現れる。巨大な穴が開いたかのようだったが、足元に突然として落とし穴ができたわけではなかった。


「あっ……あぁっ!」


 自衛隊員は黒い影を作り出した正体を確かめるために見上げて、反射的に恐怖で支配された声を吐き出した。

 黒いなにかが、空から降りてくる。

 大きすぎて、何が来ているのかもわからない。だが、その時に彼は悟った。

 もう、終わりだ。俺は死ぬ。


 ……

 …


 地獄に見舞われている東京の空を直進する、2つの物体があった。

 遠くからその物体を視認できた人物がいたのなら、あたかも鎧を着こんだ人が飛んでいるように思えたかもしれない。

 巨大なロボット──つまりは人型機動兵器と呼ぶに相応しいものが飛行している。

 2機の人型機動兵器は、全身を中世の騎士が着用するような形状の鎧を装甲として身に纏っていた。

 片方は漆黒の騎士。

 片方は純白の騎士。

 ロボットは両機共に機体色と同じ粒子を背面から放出して、それを推力として飛んでいるようだった。

 漆黒と純白の人型機動兵器は、怪物たちがいまも暴れている地点に向かっている。

 純白の騎士の胸部、その内部には人型機動兵器を操縦するためのパイロットが搭乗していた。人が2人入るには狭く、1人だと手頃な広さだと思える絶妙な空間だ。

 パイロットシート正面の、胸部の内側を丸々使ったモニターに、純白の人型機動兵器が頭部で捉えた映像が出力されている。遠方から見ても理解できる巨大な蜘蛛が、ゆっくりと地上に落下している。

 蜘蛛の真下には大勢の人が逃げているけれど、立ち止まって見上げている者もいた。このままでは押し潰されて彼らは死ぬだろう。一刻も早く助けなければ。


「すー……はー……」


 パイロットの年は10歳ほどだろうか。幼く愛嬌のある容姿の女の子は、コックピットの中で緊張を落ち着けるように息を吸って吐いた。

 コックピットの下部からパイロットシートの左右にとび出ている球体の操縦桿を握っている両手に力が入って、ぐにゃっと歪んだ。手に馴染んで気持ちいい柔らかさなので不快感はない。むしろ気持ちよくて、この人型機動兵器を作った人間の心遣いがよくでていると感じられる。

 どうでもいいことを考えてしまうのは、緊張しているからか。

 女の子は一度、ごくりと喉を鳴らしてから。


「これが私たちの初戦。いけるよね、樹里じゅりちゃん」


 問いかけた幼さのある高い声色は、少し震えていた。

 初めての実戦だ。大人でも震えあがってしまうかもしれない状況で、年端もいかない女の子が恐怖に打ち勝つのは難しい。

 誰かの支えでもなければ。

 それ理解したわけではないだろうけど、すぐに待ち望んだ返事がやってくる。

 

「うん、百合ゆり。訓練は積んできたんだ。いつもの通りに、やろう」


 顔は見えないものの、澄んだ迷いのない声がコックピットに満ちる。純白の人型機動兵器を操縦している百合は、緊張で強張っていた気持ちが穏やかさを幾分か取り戻すのを感じた。

 やはり安心する。きゅっと結ばれていた百合の唇が自然に緩む。

 自分と同い年で、幼馴染の女の子──樹里は漆黒の人型機動兵器のパイロットだ。

 いつも心は前を向き、上を見上げて、何事にも臆さない樹里は、百合の一番の親友で、理解者と言っても差し支えがない。

 彼女のことならなんでも知っているし、自分のことも彼女ならなんでも知っているとすら思っている。

 心が安らぐ。2人でなら戦いの恐怖にも打ち勝てる。それを確かめるために百合は口にする。


「私たち、二人ならやれるよね」

「うん、これまでたくさんの訓練を積んできた。私たちがみんなを助けよう。絶対に」


 樹里の言葉を区切りにして。百合は喋り合うことで整えた覚悟を一度だけ深く息として吐き、覚悟をひとつの形へと心の中で昇華するために吸った。


「よし、いこう」


 ひとまず恐怖は捨てた。戦える。

 百合は純白の人型機動兵器に、加速するよう思考を巡らせた。

 人型機動兵器が思考に答えてくれる。

 モニターに映し出された空が早送りするかのように過ぎていく。まずは、人々を押し潰そうと落下している巨大な蜘蛛を片付けなければならない。


 ……

 …


 2機の人型機動兵器が地上に落下しようとしている巨大な蜘蛛に向けて、矢のような鋭さで直進する。

 仲良く足を前に突き出して、スライディングの姿勢になった。操縦者2名ともに考えることは同じだ。

 打ち合わせなしの息の合った動作に、百合の安心感は増す。


「樹里ちゃん!」

「百合!」


 互いを鼓舞するために名前を叫ぶ。

 2機の人型機動兵器は空を裂くように加速して巨大な蜘蛛に迫る。

 至近距離にきてようやく反応。折りたたまれた8本の脚のうち、前脚の2本を人型機動兵器に向けようとする。

 もう遅い。

 スライディング姿勢を維持したまま、足の先端を頭胸部に抉り込む形で激突させる。 

 2機の人型機動兵器が巨大な蜘蛛を連れ去っていくのを、真下にいた人たちは一様に驚きから目を見開きながら追っていく。


「「いっせーのー!」」


 樹里と百合は呼吸と言葉を合わせながら、人型機動兵器の足に力を込める。

 人型機動兵器が瞬く間だけ減速したのちに、素早く再加速して巨大な蜘蛛を──呼吸を重ねて。


「「せっー!」」


 蹴り飛ばす。

 仰向けに吹っ飛ぶ巨大な蜘蛛が、散乱した瓦礫に腹の底から響くような音をたてながら突っ込む。それでも勢いを殺しきれず、球が転がるように地上を転がっていく。

 まだ倒壊していなかったビルに突入すると、勢いが止まったようで瓦礫を潰していた音が鳴りやむ。


「やった!」

「喜ぶより早く他のも片付けないと!」


 最初の敵を打ちのめして百合は喜びに声を張り上げてしまったが、樹里の言う通りだ。

 まだ1体目を処理したに過ぎず、東京を地獄へと化した化物は見渡せば発見できる。

 

「わかってる! 樹里ちゃんは──亀みたいなのお願い!」

「ん、わかった。百合、私たちのやってきたことを信じてがんばろうっ!」

「当然っ!」


 2人とも初動が上手く為せたことで、僅かながらの自信がついたようだった。

 初めての実戦ということもあり、頭の中では高揚感が作用しているのだろう。接敵しても委縮したり、怯えることはない。ここまでは順調だ。

 百合と樹里は高まる感情を途切れさせず、人型機動兵器を次の怪物に目掛けて操った。


 ……

 …


 コンクリート道を容易く足で粉砕しながら進む巨大な蟻の正面に、純白の人型機動兵器が重力でも操っているかのような軽やかさで降り立つ。

 背面に装備された薙刀の柄を掴む。

 訓練の成果がある。手慣れた様子で取り出し、手の中で一回転させてから構える。


「これ以上、誰も悲しませないんだから!」


 純白の人型機動兵器に前進と命じる。

 人型機動兵器が粒子を放出して、ふわっと地面から1メートルほど浮き上がった。

 並び立つビル群を背景にぐんぐんと加速して、巨大な蟻とすれ違う寸前に、薙刀を横一閃。


「このまま──やあっ!」


 巨大な蟻を抜けたらすぐに勢い付いたまま振り向き、急停止。薙刀を振り上げて、縦に切り裂く。

 十文字に切り裂かれた巨大な蟻は断末魔をあげることなく、崩れ落ちた。

 裂かれた端から、まるで分解されるように黒色の粒子が舞う。どうやらこの怪物は、倒されると粒子のようになって消えるようだ。


「次の敵はっ!」


 跡形もなく消滅したことを確認して、百合は周囲に目を配る。

 東京に落ちた怪物の数は決して多くはない。飛来が確認されていたのは4体ほどのはずだった。

 樹里のほうは倒すことができているだろうか?

 そう心の片隅で百合が思った直後のことだ。

 ガラス片でも割れたような頭を揺さぶる轟音が届く。

 コックピットの中にいても、衝撃にも似た音で腹の底が重くなる。


「なっ、なにっ!?」

「百合……ちゃっ、さっきの、蜘蛛が──」


 通信が途切れ途切れに入ってくる。樹里が伝えてこようとしているのはわかる。でも、具体的な情報が寸断されている。

 危険な状態かもしれないことだけ、瞬時に理解できた。


「樹里ちゃんどうしたの! 蜘蛛がなにっ!? 返事してっ!」


 無意識化での逸った百合の思考が流れ込み、人型機動兵器が瓦礫を派手に踏みつぶしながら走り出す。

 勢いを殺さないでタイミングよくジャンプして、飛行状態に移行した。

 樹里からの返事がない。まさか気絶している?


「樹里ちゃんどこっ!」


 忙しなく眼下をくまなく確認する。瓦礫の山、まさに粒子となって消え去ろうとしている巨大な蝉が見えた。

 樹里が倒したものに違いない。

 どこだ。樹里はどこにいる。

 もはや毎日になくてはならない存在で。変かもしれないけれど、空気に等しいほど当たり前にいる存在が樹里だ。

 樹里に何かがあって、もし死んでしまったら自分は。

 きっとそんな世界耐えられない。泣いて、泣いて、最期に樹里を探し求めて自分すら消してしまうかもしれない。

 ぐるぐると逆巻く思考に支配されつつも、百合は目的の姿を見つける。


「いた!」


 崩れかけたビルに、漆黒の人型機動兵器が力なく体を預けている。

 損傷個所は。

 右肩がすでになく、左も腕から下がない。両脚は残っているものの、支えなく立つのは困難な状態だろう。

 誰だ、こんなことをしたのは。

 結論を探すまでもない。漆黒の人型機動兵器へ悠然と歩みを進めている巨大な蜘蛛が原因に違いない。

 まだ倒せていなかったのか。確かに粒子が舞っている様を確認していなかった。

 百合の思考が沸騰したように熱くなり、視界が狭まる。あの蜘蛛だ!


「樹里ちゃんに近づくなあぁぁぁ──!」


 一度回り込み、蜘蛛の真正面から両腕を突き出して、純白の人型機動兵器が加速しながら蜘蛛に肉薄する。

 頭胸部を両腕でがむしゃらに押しだしていく。瓦礫を潰すのも、ビルの中も容赦なく必死に突き進む。


「うああぁぁぁっ!」


 二度、三度、ビルを突っ切ったところで停止して、手早く薙刀を取り出す。

 蜘蛛が押し出した反動でよろけているうちに、薙刀を振り上げた。


「これでぇぇ!」


 力の限り叫び、全身に力を込めるようにして、振り下ろす。

 真正面。頭胸部を確実に切り裂ける。そのあと加速、足を細切れにして、止めをさすところまで、思い描いていた。

 カンっと勢いに合わない音が響く。


「えっ……」


 振り下ろしたはずの薙刀が止まっている。

 確実に切り裂ける距離だったはずだ。どうして蜘蛛はまだこちらを見ている。赤い眼が射抜くように純白の人型機動兵器を捉えた。

 数秒遅れて、自体を把握する。

 薙刀は相手を両断することなく、頭胸部の真上で止まっている。蜘蛛の背甲に刃が届いてすらいない。

 次の一手を。

 そう考えた直後には、蜘蛛が針のような鋭さがある2本の前脚を振り上げていた。

 考えるよりも早く人型機動兵器が後方に飛び上がりながら右半身を逸らして、刺すような左前脚を回避。

 同時に放たれた右前脚の攻撃は避けきれなかった。左腕を根こそぎ持っていかれ、宙を舞う。

 飛び上がった直後に攻撃を受けた人型機動兵器は姿勢を崩されて、あえなく背面から地面に落下する。


「がっ……!」


 衝撃でコックピットが激しく振動し、百合の口から空気が漏れる。パイロットシートは柔らかな作りにはなっているが、地面から力なく落下するようなことは想定しておらず、衝撃に目が白黒した。


「ぐっ……うっ……」


 右手で頭を押さえて、軽く振る。まだ大丈夫だ。軽く揺れている気もするが、戦闘は継続されている。

 正面のモニターに目を向ける。


「あっ……」


 黒い。

 ひたすらに闇が広がっていた。

 それが何かを理解するのに時間を要する。

 ナイフのような鋭さを持った鋏角が得物を探し求めて動く。

 身体の震えが止まらない、純粋な恐怖だった。

 これからコックピットを鋏角に串刺しにされて、命が奪われてしまうのか。

 単純に結末だけが頭の中で想像される。

 受け入れるのか、結末を。

 いやだ。

 ここで自分が死んだらどうなる?

 たぶん……樹里は死ぬ。いまも遠いところで自分の無事を祈ってくれている、お父さんも死ぬ。

 学校の友人だって、先生だって、自分の行動範囲にいた人間は誰かれ構わず死んでしまうかも。いや、もっと多く。自分が未来で知り合うかもしれない人も、登校中にすれ違っていたような人も。百合にはそれが命として例外のないもののように思えた。

 頭で少しは理解していたつもりだったけれど、実際に場面に遭遇したら死は偽物じゃない。本物として脳が認識する。

 樹里の人型機動兵器は両腕がなくなっていて、攻撃の手段がない。

 百合の人型機動兵器はまだ右腕がある。百合もまだ動ける。心の中にある炉は今も火が灯り続けている。

 状況を打破できるのは百合だけだ。

 思考を前に向き直させる。

 誰かが死ぬのは嫌だ。誰にも死んでほしくない──いや、みんなに生きてほしい。前を向くとは、そういうことだ。

 巨大な蜘蛛の鋏角は得物を見つけたか。コックピットを貫こうとしているのがわかった。

 前を見ろ。

 恐怖に竦むな。

 感情が溢れる。想いが操縦桿を伝わって純白の人型機動兵器の炉に燃料をくべる。

 確信があった。答えてくれると。

 そうだ。だから──。


「私たちは生きるんだからああぁぁっー!」


 世界が揺れた。

 純白の人型機動兵器の、騎士のようにも思える鎧の隙間から粒子が溢れ出る。それはせき止められていたダムから水が溢れ出るような勢いで天にまで届きそうな柱となる。

 放出され続ける粒子の中で、巨大な蜘蛛が危険を察知したのか動き出す。


「シャアアアアッ!」


 巨大な蜘蛛の鋏角がコックピットを貫く直前に、純白の人型機動兵器の右腕が力強く稼働し、剥きだしの暗闇の口に腕を突っ込む。

 そのまま内側で指を抉り込ませるようにして固定する。


「うぬぬあああぁぁ-!」


 粒子に後押しされる形で起き上がりながら、巨大な蜘蛛を右腕で天に掲げる。

 千載一遇の好機。

 この状態で薙刀を拾いにはいけない。そもそも薙刀は弾かれたのだ。ダメージが与えられる場所がわからない以上、このまま無責任に振り下ろすわけにもいかない。

 地上は駄目だ。なら、と上を向いた。

 考える時間もない。素早く決断する。

 巨大な蜘蛛が必死に足掻いて、純白の人型機動兵器の上半身を脚で貫こうと攻撃している。粒子は壁としての役割もあるのか、いまは粒子によって攻撃が阻まれているようだが、これがいつ切れるのかも不明だ。

 まずはこの場を離れよう。

 天に柱を形成するほどの爆発的に生み出される粒子を加速に利用することで、純白の人型機動兵器は空へ駆け上っていく。

 遠方から見て、それは人類の災厄を空へ連れ去ろうとする天使のように思えたことだろう。

 地上で空を見上げた誰もが息を呑んで、純白の人型機動兵器の行方を見守る。


「百合なにしてるの!?」

「……樹里ちゃん、起きたんだ」

「その粒子の量は──どこにいこうとしてるの!」


 樹里は無事に意識を取り戻したらしい。

 焦燥していることがわかる声色だが、詳しく説明している時間もないようだ。

 巨大な蜘蛛の脚が頭を貫こうと何度も、何度も襲い掛かる。別の脚の攻撃が通り、右肩が貫かれた。まだ巨大な蜘蛛を支えることができているのは、衰えず放出される粒子が助けてくれているからか。

 全身が貫かれるのも、時間の問題かもしれない。

 どう足掻いても詰みな状況で、百合はひたすらに前を見据える。


「だいじょうぶ、絶対帰ってくるから」

「帰ってくるってなに! 動いてっ! 動いてよっ!」


 樹里は漆黒の人型機動兵器を操ろうとしているらしいが、起動しないみたいだ。

 なおさら退けない理由ができる。


「私が帰ってくるまで、頼んだよ」

「待って、待って待ってっ! なんでお別れみたいなこと言うの! いま動いてよっ!動いて動いて動いて動い──!」


 樹里の音声が乱れる。それは一瞬で回復するものの、目の前にいないのに泣き顔の樹里が浮かんだ。

 いつもとても凛々しいのに、いざという時には泣いてしまう樹里を、百合は愛おしく思う。また絶対に会う。心の中でそう誓う。


「樹里ちゃん、みんなを助けようね」

「うっ、うんっ!助けるから、待ってっ!待っ──」


 樹里の最後の声は聞こえなかった。喋っている間に雲を抜けて、成層圏にまで到達していた。

 下には雲の白と青が広がり、上には黒が広がっている。宇宙空間にまで行ってみようか。

 そこでどう戦うべきか考えようと、宇宙を見上げた時だった。


「……えっ……?」


 宇宙の中に、黒があった。

 無数の虫のように蠢くそれは、地球に向かってきている。

 数えるのが馬鹿らしくなるくらいの黒いなにか。

 それは東京で起きたことが取るに足らない可愛らしいくらいに思える災厄そのものだった。


 ……

 …


「百合っ、百合っ!」


 樹里は漆黒の人型機動兵器のコックピットで、百合に呼びかけ続けていた。

 涙はとめどなく溢れ続けて、止まることを知らない。


「どごにっどこに、いったのぉ……百合ぃっ……」


 悲痛な声をあげながら、空を見上げた。


「……なっに……空、が……」


 見上げた空に、墨を一滴たらした黒が浮かび上がる。

 違う、一滴どころではない。無数の黒が、空を丸ごと覆うように広がっていく。

 太陽が掻き消える。空の青が消える。雲が消える。すべてが黒に染まる。

 まるで世界の終わりを物理的に表しているような光景だった。

 突然、夜が訪れたかのようにも思えたが、星は見えない。月もない。


「なんなの……」


 常識からあまりにも外れた事象に目が勝手に見開かれ、離せない。

 

 この日、地球の空は黒に閉ざされた。

 安寧は理想郷のように遠くへ消え去り、行方が知れない。

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