銅(あかがね)の騎士、サウセリアの海にて海賊を追う

美尾籠ロウ

〈灰色の右手〉剣風抄・外伝

 水平線の南の彼方に、くらい雲が垂れ込めているのが見て取れた。〈水龍すいりゅうたま〉号の舳先へさきが波に乗り上げ、大きく船体が傾いた。波を越えると、船体はがくんと揺れた。ツバサナガムシの数十匹の群れが、船体の脇を通り過ぎ、海面すれすれを飛び去っていく。

 トマークは、両足で甲板の上に踏ん張りながら、客人の一人がへりにしがみつき、身を乗り出すと青黒く泡立つ海面へ向かって一気に嘔吐するのを冷ややかに見つめた。

「兄さん、だらしねえぞ」

 トマークは鼻で笑った。ほんとうにこんななまっちろ優男やさおとこが、あかがねの騎士様の従者だっていうのか? 

 ふと脇に眼をやると、〈銅の騎士〉と名乗る老人が樽の上に泰然として腰掛け、細長い煙管きせるをくわえて水平線の彼方を半眼で見つめている。銀色の髪に、同じく銀色の長い顎髭。身に着けた革の鎧は新しいが、その下に着込んだ鎖帷子くさりかたびらは、かなりの年季が入っていた。歴戦の騎士というよりは、占い師か、あるいは呪技遣じゅぎつかいのようにも見えなくもない。

 ――ほんとうにこの爺さん、おいらたちの村を救ってくれるんだろうか。確かに堂々としてるけどな……

 トマークは噛み煙草を海中に向かって、ぺっと吐き出した。

 老騎士の背後には、彼以上に老いていると思われる、ハナグロカケトカゲがうずくまっている。その鱗は剥げかけ、全身がぼんやりとくすんだ灰色になっていた。背中に載せた鞍も古びて、今にも革紐はちぎれそうだった。

 色白の若い従者――ザパーチェスという名だった――は、ますます顔色を蒼くしながら、口元の唾液を拭って言った。

「船に乗るのは久しぶりなんだ。でも、旦那様を見なよ。いつ海賊と出くわすともわからないのに、表情ひとつ変えてらっしゃらない。何度も戦場で手柄を上げた歴戦の英雄なんだ。ウェラーグノンの闘いでは、五百人もの兵がいる敵陣にわずか三人で乗り込んで、敵将を槍で討ち取ったんだ。お強い方なんだぞ」

 それを聞いて、トマークは肩をすくめた。

「おいらが生まれる三十年も昔から、たくさんの戦を闘ってきたって言うんだろ? 兄さんから何度も聞いたぜ。とんでもなく偉え〈銅の騎士〉様なんだろ? そんなお方が、おいらの村のために海賊をやっつけてくれるってんだから、ありがてえと思ってるぜ」

「旦那様の作戦に従っておけば、海賊なんか一網打尽さ」

 トマークは、ふたたび肩をすくめた。

「そりゃまあ、おいらたち、騎士様のご命令で、漁にも行かずにさんざん二十日間も弓矢の稽古したんだ。騎士様だけが頼りだぜ」

 トマークの返事を聞いた従者ザパーチェスが、誇らしげに鼻の穴を拡げた。

 トマークの暮らすサキアナ村は、ウェスカリウト半島の半ばに位置する漁村だ。かつては豊かな村だったという。が、彼が物心ついた頃には、すでに村から平穏は奪われていた。

「大公国だろうがシンム国だろうが、おいらたちにゃあ関係ねえ。勝手に戦をやってやがれ」

 砕ける波濤はとうに向かって、トマークは毒づいた。

 ウェスカリウト半島東方に版図を拡げるウェラーグ大公国と、サウセリア海南方の諸島を支配するシンム国は、ちっぽけなクラクト島の領有権を巡り、もう三十年も争い続けてきた。敗残兵たち、あるいは終わりを知らぬ闘いに飽いた脱走兵たちの一部は海賊となり、サウセリア海を行く船や、海岸沿いの村を掠奪するようになった。六年前には、トマークの父がテイオウニシンで満載の船で北西の港町へ向かう途中、海賊に襲われて、かえらぬ人となった。

 ――それが、ほんとに終わるんだろうな?

 トマークは新たに噛み煙草を口に放り込みながら、眼の前の白髪の老人を見下ろした。この〈銅の騎士〉とその従者がサキアナ村に現れたときには、ただの放浪の乞食にしか見えなかった。老人が乗るカケトカゲも、いつぶっ倒れてもおかしくないほどの老いぼれだった。老人が「我こそはウェラーグの騎士なるぞ」と名乗っても、トマークは「頭のいかれた爺に金貨の一、二枚でも恵んでやって、とっとと村から追い出そう」と思ったものだ。

 もしも村のおさリリグリンが〈銅の騎士〉の逸話を思い出さなかったら、トマークも海賊討伐隊の指揮官として、十六人の村人たちと村で最大の船〈水龍の珠〉号に乗って船出をすることはなかっただろう。

 〈銅の騎士〉だという老人が考えたのが、囮の船を出して海賊をおびき出す、という作戦だった。

 ――ほんとに海賊が食いつくのかね?

 トマークは、ふと水平線上へ視線を向けた。

「荒れるかもしんねえぞ」

 ウェスカリウト半島南方のサウセリア海では、ツバサナガムシが海面近くを飛ぶときには、嵐が来るという言い伝えがあるのだ。

 ――もしかすっと、人喰いの〈水底の民ユーサイヌン〉でも出るかもしんねえぜ。

 そんな思いがよぎり、トマークはぶるぶるっと身を震わせた。


 戦闘は、激しい雨とともに始まった。

 見張りに立っていた漁師の一人が、荒れる波間を割って〈水龍の珠〉号に近づいてくる五艘の小舟を見つけた。

「左舷から来たぞ!」

 壮年の漁師が叫ぶのとほぼ同時に、天の底が抜けたかのような、激しい雨が降り出した。風も強まり、波が何度も〈水龍の珠〉号の船体を上下に揺らした。

「総員、配置につけいっ!」

 ウミナガムシの頭部をかたどった船首像を背に、すっくと立ったホドマンテが、船上の漁師たちに鋭い声で命じた。ザパーチェスは、そんな〈銅の騎士〉の姿を、息を飲んで見上げた。

 ――これが、歴戦の〈銅の騎士〉の姿なのだ。

 浮浪児としてウェスカリウト半島を放浪していたザパーチェスが、ホドマンテに拾われて十一年になる。はじめて間近に目の当たりにする凜々りりしい騎士としての姿だった。ザパーチェスは雑念を振り払い、大きくうなずいた。

 甲板に叩きつける雨粒は痛いほどだった。ザパーチェスの頭からかぶった外套がいとうは、強い風にあおられ、今にも水平線の向こうへ吹き飛ばされそうだ。まだ昼を過ぎたばかりだというのに、空には真っ黒な雲が垂れ込め、日暮れのような暗さだ。

 漁師たちは、それぞれ弓と矢を手に取り、揺れる船縁ふなべりへと駆け寄った。慌てながら矢をつがえる光景が、ザパーチェスには見えた。

「放てえっ!」

 ホドマンテの号令一下、漁師たちが一斉に矢を放った。

 が、船が激しく揺れている上に、まだ距離が遠すぎた。海賊たちの乗った小舟へと到達した矢は一本たりともなかった。

「何をしておるか、二の矢、放て!」

 ホドマンテが腹に響く声で怒鳴った。が、急ごしらえの水兵たちが、統率の取れた軍隊のように闘えるはずもなかった。

 ある者は矢をつがえるだけのことに何度も失敗し、ある者は弓を海中に取り落とし、また、激しい風雨と波に煽られ、海中に転落する者すらいた。

 〈水龍の珠〉号にじわじわと恐慌と混乱が拡がっていくのを、ザパーチェスは感じていた。

 雨でずぶ濡れになったトマークが駆け寄ってきた。

「おい、爺さん! 海賊たち、どんどん近づいてくる。どうすりゃいいんだよ!騎士なんだろ? おいらたち、どう闘っていいかなんてわかんねえよ!」

「爺さんとは、無礼だぞ!」

 ザパーチェスが割って入ったが、その姿はトマークの視界には入っていないようだった。

「焦るな、若者よ。戦場では、焦ったほうが負けるのだ」

 ホドマンテが静かに言う。

 そのときだった。彼らの背後から「わっ」という悲鳴が聞こえた。と同時に、がちゃがちゃという金属音が鳴り響く。

 海賊たちだった。彼らが投げた鍵縄が、船尾に近い船縁に食い込む音だった。小舟に乗った彼らは縄を引き寄せ、〈水龍の珠〉号に近づきつつあった。船縁で弓を構えていた漁民たちが、いっせいに蜘蛛の子を散らすように船首側の甲板に逃げ出し始めた。

 いくつもの汚れて黒ずんだ手が外側から船縁を摑むのが、激しく降りしきる雨粒の向こうに小さく見えた。ザパーチェスの背筋を冷気が駆け上がった。

「おい爺さん、どうしたらいいんだ!」

 トマークが叫ぶ。

 ホドマンテは、ゆっくりと剣を抜いた。

「憶するな。憶するでないぞ……」

 そう言いながら、ゆっくりとホドマンテは剣を天に向かって振り上げた。

 叩きつけるように降りしきる雨の下、すっくと立つホドマンテの姿を見上げ、ザパーチェスは息を飲んだ。

「我が主、破れざる騎士様……!」

 ザパーチェスは自分自身に言い聞かせ、噛み締めるようにして、つぶやいた。

 トマークは何やら怒りのうめき声を上げると、甲板に転がるもりを摑んで船尾に向かって駆け出した。

 トマークは不意に立ち止まると、一気に銛を投げた。命中したらしい。悲鳴が船外に遠ざかって行くのが聞こえた。

 トマークが歓声を上げ、振り向いた。

「どうだ爺さん! おいらにゃ、弓矢なんかよりこっちのほうが得意さ!」

「いや待て、若者よ、功を急くでない!」

 ホドマンテは言ったが、もはやトマークは聞いていない様子だった。彼は船倉へ逃げ込もうとする漁師たちに向かって怒鳴った。

「弓も矢も捨てちまえ! おいらたちにゃ、銛があるんだぞ!」

 その言葉に、慌てふためいていた漁師たちが、動きを止めた。彼らは一瞬、迷ったようにホドマンテとザパーチェスを一瞥した。

 ホドマンテは一歩踏み出すと、天高く剣を突き上げた。

すなどりの民よ、聞け! 我が剣の下に集いて闘うのだ!」

「そうだ! みんな聞け! ご主人さまのご命令に従うんだ!」

 ザパーチェスも声の限りに叫んだ。

 そんなザパーチェスの背後で、ホドマンテは胸を張り、さらに朗々とした声を張り上げた。

「我が名は、ウェラーグ大公国総督閣下麾下きかの第九十九騎士団長、ホドマンテなるぞ!  『エジラシル三十人殺しのホドマンテ』とは、我のことなり! 漁りの民よ、海神サウセリアのご加護は我らにあり!」

 そのときだった。トマークの体ががくっとのけぞり、仰向けに甲板にくずおれた。その額には、海賊が投げた手斧が深々と突き刺さっていた。どす黒い血潮とはみ出した脳髄が雨に流され、見る見るうちに甲板に広がっていくのが見えた。

 垢で汚れた顔をした海賊たちが 、次々に船べりを超えて〈水龍の珠〉に乗り込んできた。その数はあっという間に十人を超えた。

「ご主人さま、逃げましょう!」

 ザパーチェスは呼びかけた。

 彼の視界の片隅で、漁師の何人かが慌てて銛を投げるのが見えた。そのうち何本かが海賊に命中したが、さらにその何倍もの漁師が、瞬く間に斬られ、刺され、突かれ、命を落とした。自ら海中に身を投げて逃げようとする者もいた。

 ザパーチェスは必死に隣のホドマンテに向かって声を上げた。

「ご主人さま、もういいんです! もう充分です! 船室に戻りましょう」

が、ホドマンテは頑なな視線をザパーチェスに返した。

「何を言うか、ザパーチェス! おぬしは下がっておれ。漁りの民よ、我が名はホドマンテ! 我こそは〈銅の騎士〉――」


 我こそは〈あかがねの騎士〉――

 はて、〈銅の騎士〉とな……〈銅の騎士〉とは、何であったかの?

 わしが大公国総督閣下にお仕えして早三十九年の長き月日が経つ。わしは総督閣下の下で、数々の手柄を上げたのだ。そう、最初は、歴史書にも残る〈ウェラーグノンの戦役〉だ。まだ一兵卒であったわしが、エジラシルの卑しい〈灰色兵団〉を、たった独りで打ち破ったのだ、今から百六十年前のあの戦役で。

 ――ご主人さま、もうお目覚めください!

 百六十年前……だと?

 確かに幾多の書物には、そう書かれておる。誰しもが〈ウェラーグノンの戦役〉は、この地上界の歴史に残る奇跡の大逆転だと書き記しておる。が……百六十年前……そんな時代に、わしは……生きていたか?

 いや、おかしい。わしは漆黒のカケトカゲに乗って長槍を振るい、エジラシル兵たちを幾十人も屠ったのだ。その武勲は、幾代にも渡って吟遊詩人たちに歌われ、旅芸人によって演じられた。我こそは歴史に名を残す英雄……

 ――ご主人さま、早く船倉へ!

 ええい、やかましい声が、わしを惑わす。呪技遣じゅぎつかいでも、この船には乗っておるのか?

 我こそは〈ウェラーグノンの戦役〉の英雄ホドマンテ……であったのか?

 わしは……ホドマンテだ。我が名はホドマンテなり!

 ――もういいんです、英雄のふりをしなくてもいいんです。ああ、海賊が!

 ええい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!

 誰だ、わしを罵る者は? 誰だ、我が武勲いさおしに唾吐く者は?

「我こそは、ウェラーグノンの英雄、ホドマンテなるぞ!」

 あ……あれは何だ? わしの記憶の底で、ちらちらと瞬くおぼろな記憶は何だ? 記憶の彼方の草原に立っているあの後ろ姿は……

 我が母君!

 紅が差した頬、漆黒の髪。うつくしき我が母君! そのか細き指先が、分厚い書物をめくる。ああ、わしは今まで文字の読み書きを学ぶことはなかったが、母君は古きお伽噺や英雄譚を、幼き頃のわしによく読み聞かせてくれたものだった。よく覚えている。あの狭い板敷きの部屋を。夏になるとキノボリシロナメクジ退治がたいへんだった、あのじめじめとした暗い部屋……

 狭い板敷きの暗い部屋……?

 何だそれは? 

 わしは、母君とともに五十人の家来と召使いらとともに、城下の大屋敷に暮らしていたはずだ!

 ――ご主人さま、海賊が……!

 ええい、黙らぬか! わしは……わしは、母君が寝物語に読んでくださった伝説の騎士そのものなのだ。我こそはウェラーグの騎士団長!

 母君、今の私を見てくだされ。この〈銅の騎士〉たるこの姿を……

 いや、〈銅の騎士〉とな。聞いたことがないぞ。ウェラーグ大公国に〈あかがね〉などという騎士の位はない。では、なぜわしが〈銅の騎士〉なぞと呼ばれるのか?

 ――船が、転覆するっ!

 叫ぶ声。おお、海が盛り上がる。船が傾く。大波が来たのか。いや、嵐はおさまりつつあるはずだ。何が起きた? オニイサナか? 海がさらに盛り上がる。ああ、危ない! すぐ脇の索具を摑む。海が荒れ狂っている。海賊たちも慌てふためき、甲板で転倒しているのが見える。何が起きたのか。

 海面がさらに盛り上がる。あれは何だ? オニイサナではないぞ。サウセリア神よ! ニアール神よ! 我は騎士団長なり。我が名はホドマンテ……〈銅の騎士〉なり! 我が船にご加護を!

 なんということか。海中から現れた〈浮島〉は、いったい何ぞ? 〈浮島〉ではない。とてつもなく大きな甲羅だ! 夢ではないのか? なんと巨大な海亀か! ああ、甲羅の上に貼り付くように、多くの「人」がおるではないか。何なのだ? 全身、灰色の鱗に覆われた「人」の姿……まさか……嘘だ。

 おお、母君、私は夢の国から逃れられぬのでしょうか? どうかお助けを! 恐ろしい。震えが止まらぬ。ああ、ニアール神よ、どうかお守りください! 今こそ告解いたします。私は、騎士ではありませぬ。大公国の総督閣下とはお会いしたこともございませぬ。サウセリア神よ、騎士を騙った私をお許しください! 私はマイドレ群島パイロヌケ島に生まれた、貧しく卑しい職工のせがれに過ぎませぬ! 父は鎖帷子を作り、母は織物に刺繍をしておりました。私は……私は職人の道も継げぬ放蕩息子でした。神々よ! ここに告解いたします。〈ウェラーグノンの戦役〉など、参戦しておりませぬ。戦場で闘ったことなどありませぬ。シンム国との戦から逃げ出した末に飢え死にし、林のなかで朽ち果てつつある兵士の屍体から、剣を盗みました。鎧も盗みました。騎士の肩書きを盗みました! どうかお慈悲を!

 灰色の鱗をまとった「人」が船に上がってくる……ああ、どうか見つかりませぬように。震えが止まらぬ。恐ろしい。怖い怖い怖い怖い……

 私は、母君が寝物語に離してくれた騎士になりたかっただけなのです。

 やめろ、やめてくれ! 助けて……命だけはどうかお助け……わしを喰わないで……ああ、なんということだ! 嘘だ、嘘に違いない。幻だ。まさか、お伽噺の〈水底の民ユーサイヌン〉が、我が眼の前に……


「巨大な海亀の甲羅の上に、〈水底の民〉が幾人も立っていたと?」

 銀髪で短い口髭を生やした医師が訊ねると、ザパーチェスは寝台の上に横たわったまま、かぶりを振った。

「違うんです。立っていたというか……貼り付いていたんです。全身が銀色の鱗に覆われ、身の丈は七エーム(約二一〇センチ)を越える細長い体。片手には十エーム(約三メートル)もの長さの二叉の銛を構え、目蓋のない眼は濃い紫色をして、背中にはとげとげした鰭が……そんな〈水底の民〉が、二十人も!」

 そう言うや、ザパーチェスは毛布を首までたくし上げ、がたがたと熱病に浮かされたかのように震え出した。

「そして、海賊たちを一掃した〈琥珀こはくの戦士〉が、たった独りで〈水底の民〉に立ち向かったと言うんだね?」

「え……? 〈琥珀の戦士〉? 違います。ご主人様は〈銅の騎士〉です。あのお方は、ウェラーデ大公国総督閣下の……」

「わかったわかった。それはもういい。結局、〈水龍の珠〉号は転覆し、きみは海に投げ出された、そして、きみのご主人とはそれっきり離れ離れになってしまった、というわけだね?」

「はい……ご主人さまは、最後まで〈銅の騎士〉の務めを果たされようと、〈水底の民〉に向かって剣を振るい続けていました」

 ザパーチェスは、天井のさらにその奥を見るようにして、答えた。

「なるほど、きみの話はよくわかったよ。板きれに乗って五日間もサウセリア海を漂流していたんだ。生き延びられただけでも、海神の奇蹟と言えるかもしれんね」

「助かったのは……」

「そう、きみだけだ。海賊は討伐できたかもしれないが……犠牲も大きかった。船も喪ったし、なにより、多くの若者たちを喪ってしまった」

 医師は悲痛なため息をつき、目頭を押さえた。

 ザパーチェスは、毛布をさらに引き上げ、顔を覆った。

 医師はふと顔を上げ、続けた。

「しかし、奇妙だね。三日ほど前、私が隣のサキアナ村のおさ、リリグリン爺に〈銅の騎士〉について訊ねると、何も覚えてはいなかった。それどころか、リリグリン爺、『〈琥珀の戦士〉はどうした?』と何度も私に訊ねるんだ。まあ、慣れっこだがね。昨年だったか、村に現れた乞食に向かって『ようこそ〈瑪瑙めのう導術師どうじゅつし〉様!』と呼んで、さんざん食事を与えて饗応したらしいが……まあ、知っての通り、男の導術師なんて存在しない。女の呪技遣いが存在しないのと同様にね。年老いた乞食は喰うだけ喰って、村からすぐに逃げるように出て行ったという話だよ。そんな出来事のあった数年前から、リリグリン爺のけは始まっていたんだろうが……」

 そこまで言うと、医師は寝台のザパーチェスを見やった。ザパーチェスは、毛布から少しだけ眼を出した。

「たまには、耄碌もうろくした爺も本当のことを言うんだね。そう、本当だったとしておこう。〈銅の騎士〉が本当に存在したということにしておこう。しかし……この村も早急に次の長を決めないといかんな……」

 医師はつぶやくように言いながら、部屋から出て行こうとした。

 その背中に向かって、ザパーチェスは毛布の下から声を漏らした。

「はい、ホドマンテ様は真の〈銅の騎士〉でございました。最期まで、騎士として闘ったのです。剣を振るい、ばっさばっさと並みいる敵を次々に斬り倒し、一騎当千の活躍を……されたはずです。しなきゃいけない。そうでなきゃいけない。騎士でなきゃいけないんだよ! ホドマンテ様が〈銅の騎士〉でなきゃ俺は……この俺は……ただの俺は……!」

 破裂するような激しい嗚咽を聞きながら、医師はそっと扉を閉じた。


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