第2話 Kidnapping ”誘拐”

 カーテンの隙間からこぼれた光が眩しい、少し体が火照っているのを感じる。昨日は溜めていた深夜アニメをいくつか消化しようと試みたものの、疲れのせいか二つ目を見ている途中で寝てしまったようである。社会人は時間があるようで無い、仕事で趣味に割く体力を削ってしまうのだ。


 途中で寝てしまったアニメは頭から見直すつもりだ。じっくりと作品の世界観やキャラクターの心理を気に掛けながら見ないと見た気にならない。学生時代からの悪い癖だ。

 寝落ちしてしまったのは確かであるが、そんな不意の入眠にも関わらず、いつも通りの時間に目が覚めた。人間の体内時計は意外と正確で侮れないなとつくづく実感する。


 いつものようにシャワーを浴び、無難な服装(いわゆるビジネスカジュアル)に着替え、出社への準備を着々と進める。

 少しミニマリスト気味な入嶋の部屋には余計な物が無く、入嶋が散らかっていると感じる部屋は常人からすると整頓されているように感じるほどだ。必要最低限の物しか揃えないため、出社への準備はとても速い。そして履き潰れかけた革靴を履き、準備は万端だ。入嶋は踵をコンコンと玄関の床に打ち付けながらドアノブに手をかける。


 “誰かがドアの向う側にいる”


 勘は間違いなくいい方だ。

 その勘が向こう側に誰かかがいることを警告している。

 誰が待っているのかあれこれ考えてみるが朝で頭が鈍っているのか見当もつかない。恐る恐る小窓から外を除くと、小柄な男性らしき人間が待ちくたびれように立っている。入嶋はこのシルエットに見覚えがあった。


「え、安谷さん?」


 思い切ってドアを開けるとやはり安谷さんであった。気まずそうにする安谷さんの姿がそこにあった。このように彼を玄関で迎えるのは初めての事ではない。

 実のところ独身貴族を謳歌する私と安谷さんは祝日の前日などで不定期ではあるが酒盛りを開催している。両者共に世帯を持つような気量があるとは感じてらず、また持たない方が世間のためになると考えている。そのような思考の一致と、その思考が生んだ時間の余裕と寂しさ(安谷さんは認めていないが)を埋めるために会っている。


「あの、お、おはようございます。わざわざ何ですか?」


 このような違和感しかない対面の際でも、社会人としてのマナーである挨拶がよく出るものだ。ここまでくると無意識の領域で、機械的にその場に適した音を出しているに違いない。そして私の声を聞いた安谷さんは少し泣きそうな顔で口をゆっくりと開いた。


「ああ、急に悪いな。朝から誰かに目をつけられているような気がするんだよ…」


 それを聞いた私はまずなぜその面倒を私のもとに連れてきてくれたのかと不快に思ったが、それと同時に昨日の手紙のことを思い出した。そうか、すっかり今の今まで忘れていた。

 もし扉の向こう側に居たのが安谷さんでなく、手紙の関係者であったらどうなっていただろうか。


 そして安谷さんはそれに心当たりにあるため、わざわざ私の家へ向かい何か心当たりがあるか尋ねたかったのだろう。残念ながら心当たりはない。しかし、なぜ電話でなく直接家に向かう手段を択んだのだろうか。目を付けられているなら家から出なきゃいいのに。この人はいろいろとよくわからない。

 入嶋は明らかに動揺している安谷を冷ややかな目で見つめ、そのように分析した。しかしこの場合はとにかく安谷さんを安心させるのが優先だと考えた。


「とりあえず一緒に会社へ向かいましょう。二人なら大丈夫ですよ」


「え、いや、本当に。あの、大丈夫か?」


「まあ、ともかく悪い考えは一旦忘れた方がいいです」


 そうなだめて(安谷さんが納得したかはわからないが)私は安谷さんを引き連れ、一緒にエレベーターへ乗り込む。

 安谷さんは相変わらず不安そうな顔つきをしている。それは雑誌の売れ行きが一気に落ちた時の絶望した顔つきに近い。あの顔を見るのはあまり好きでない。そんな風に考えながらいつものようにロビーへのボタンを押した。


「あれ?」


 確かにロビーへのボタンを押したはずが、Lの表示が光らない。

 もう一度押してみる、しかし、反応するそぶりが無い。

 まずいと感じた時には既に遅かった。

 行き先を表示しないままエレベーターが動き始めたのである。

 とはいってもエレベーターは基本的にロビーに向かうものだから自分が変に敏感になりすぎているかもしれない。変な汗がにじむのを感じたが、とにかく気のせいだと思い込んだ。


「なあ、どうしたんだ?」


 振り返ると安谷さんが不安そうな声で私にそのように声をかけていた。やはりこの顔だと思い出した。売れ行きが右斜め下に向いた時の安谷さんの顔だ。

 こんな時にもう一度見ることが出来るなんてある意味運がよかったのかも知れないなんて考える。しかしこの今にも泣きだしそうな顔は私を動揺させるには十分だ。人の表情は伝染するとはまさにこのことかもしれない。


「ええと、Lが光らないんですけど。電池切れですかね?」


 動揺を何とか抑えながら他のありえうる選択しから一番パニックにならなさそうな言葉を選んだ。これ以上に安谷さんをいじめて未知の表情を出させるわけには行けないと思ったからだ。でもそれはそれで興味がそそられる。

 が、私の努力もむなしく、安谷さんは青ざめで床にへたり込んだ。文字通りへたり込んだのだ。この人はいろいろ驚かせてくれるなあと感じる。


「おい…。それ…」


 下を向いたまま安谷さんは消え入るような声で確かにそういった。


「どうしたんです?」


 安谷さんからは反応がない。まさかと思って振り返り、エスカレーターのパネルを見ると、何と全階層のボタンが煌々と光っていた。

 体をパネルによりかけたつもりはないし、仮にそうだとしても全階層のボタンが光ることなんてまずありえないことだ。


「え…。なんだ、これ」


 はっきり言ってパニックどころではない。全身がぞくぞくと嫌な汗を感じている。

 困ったことに何一つ取るべき行動が思いつかない。

 脳が全く機能しないまま、じいいんとした眩暈に近い感覚だけを神経が拾い続けている。とにかく私だけでも冷静にならなければ。


「一体、どこへ?」


 全ランプが不気味に光るこのエレベーターはいつものロビーを過ぎ、エレベーターの窓はいよいよ冷たいコンクリートを映し始めた。こいつは私たちを地下へと導いているようだ。無機質な箱がのっそりと動く音と、心臓の音だけが広がる世界にいる。


 そしてこのエレベーターは地下2階で止まり、ゆっくりとドアが開き始めた。何かが起きる予感を感じ取ったが、すでに遅かったのだ。

 救けを求める声をあげる前に謎の白い煙に包まれ、そこから入嶋の記憶はいったん途切れることになる。



 入嶋を拘束拉致したグループはそのまま彼を車で港まで運んで一般的な貨物の中に押し込んだ。そしてその貨物を載せた船は国境線や監視の目をかいくぐることが出来る特殊なルートを経て、とある東南アジアの島国の使われなくなった港に寄港した。そこからさらに入嶋は貨物から潜水艦へと移される。


 潜水艦はぐおんぐおんと勢い良く水の中を進んでいく、船内では椅子に入嶋が気を失ったまま座らされている。手足を縛られていない辺り、彼を招待客として扱う意思が伺える。


 迷うことなく進み続ける潜水艦の中で入嶋はゆっくり目を覚ます。自分が揺るぎない一定のリズムで呼吸をしていることを確認し、心臓がやや早くはあるものの正しく鼓動を打っていることに安心する。


 ここはどこだろう。

 ずいぶんと長い悪い夢を見た心地がする。

 恐らく強引に眠らされていたに違いない。


 入嶋は煙を吸い込んでからの記憶がまるでないことに気付き、即座に頭の中で自身が置かれている状況を理解しようとする。それと同時に入嶋は全身がぐったりしているのを感じる。


 これはあの煙のせいだろうか。

 ただふわふわとして不快な感覚が私を包む。

 納品に追われ、会社に三日連続寝泊りした時の朝の気怠さを思い出す。


 そして先ほどから気に留めてはいたが、それが現実かどうか断言できない事実をようやく認めることにした。


 私は誘拐されたのだ。


 その事実を受け入れているにも関わらず想像以上に冷静でいる私を恐ろしく思う。きっと私の一挙一動を確認した後にテレビ局のクルーがカメラを持って現れ、「どっきりです!」なんて言ってくれるとどこか期待しているためだろうか。もしそうならば、私の冷静さに企画は失敗だろう。今の私は世間に放送できるような表情をしていない。


 いや、そもそもなぜ私を企画の被験者に選んだのだろうか。被験者に選ぶなら安谷さんの方がいいに決まっている。長年付き添った私が言うのだから間違いない。そういえば安谷さんは大丈夫だろうか。自分ではなく他人の身を案じたその時、入嶋は人の気配を感じた。


「ミスター入嶋、目が覚めたようで」


 急に名前を呼ばれ私は少しぎくりとする。まるで悪いことをしようとした子供が急に親に名前を呼ばれた時のようだ。しかしその声はどこか懐かしく落ち着いたものであった。とても誘拐するような人間の出すような声ではない。むしろ誘拐された親族の関係者であると思った。


 ところで私のこの失踪について誰か気づいてくれるだろうか。ふらふらと取材やらの為に家を空けることが多いためになかなか気づいてもらえないんじゃないかと考えると少し寂しくなる。


「これからこの船はロシアへと向かいます。少々海の機嫌がよくないようですので、お気をつけくださいませ」とその声の主はそう続けた。


 先程から気になっていたこの不思議な浮遊感の正体が分かった。なるほど私は船内にいて、この船はロシアに向かっているのか。

 そうかそうか。久しぶりの海外出張という訳だ。

 いや、まてよ。パスポート不携帯だ。これでは入国審査を通れないではないか。

 入国審査は何故あんなにも緊張するものなのだろうか。これは帰国の際も同じことで、万が一何かの不備で呼び止められて、警備員に挟まれて別室へ連れていかれるのではと毎回並びながら空想している。


 いや、それどころではない。これは冗談ではない。


 確かに私はこの耳で「船にいること」と「ロシアに向かっていること」を把握した。ロシアだって?会社に向かう途中にこんなことがあっていいものか。

 やっぱりこれは悪い夢の中ではないのか。だったら何とか理解できる。きっとそのうち目が覚めていつもの日常が始まる気がする。そうでないと本当に困る。


 入嶋はこの現状に対して怒りの感情を持つことよりも、この現状が単なる夢で、巧妙な嘘であることを信じることに積極的になった。


「これは夢でも冗談でもありませんよ、ミスター入嶋」


 しかしその願いも叶わず、急にそのような声が私の耳に届いた。それはどこか優しい声で、私を落ち着かせてくれるような感じがあったが、内容が内容なだけに戦慄する。


 いや、おかしいぞ。なぜこの声の主はこの暗闇で私の目が覚めていることに気づいたのだろうか。その上、私の思考を読み取っているとしか思えないような発言をしてくるではないか。その謎に気付いてから、声の主に対する得も言われぬ不信感だけがどんどん募っていく。


 そしてこの船内(暗闇のため船内であるかどうかはまだ確信していない)で感じる人の気配は私と声の主である彼だけである。

 つまり安谷さんはここにいない。それは私がこのような状況にいること以上に私を心配させた。


それからどのくらいの時間が経ったのだろう。私はこれから起こりうるすべての可能性について思案し、そのくだらなさに苦笑する。こんな30を超えた一般男性を誘拐したってお金にはならないはずだ。それに臓器を売買するものならもっと若い人間を攫う方が臓器提供を受ける側にとってもありがたいだろう。それ以上の自分の予想を超えた目的があって私を誘拐したに違いない。


 だが、その目的というものが全く見当たらない。それはそれで怖いことに間違いないが、命を奪われる可能性がかなり低いだろう断言できそうだ。


「もうすぐで到着となります。ロシアは東、樺太でございます。こちらに上陸したのち目的地へと向かいます」


 脳内での思考を遮るように新たな情報が頭の中に入ってくる。

 私が到着するのは樺太か。聞き覚えはあるが、当然上陸したことはない。ましてや何がそこに存在するのかも全く分からない。

 しかしそこまで日本から離れていないことに対して不思議な安心感を覚えた。それでも忘れてならないのは依然として周りは真っ暗であることである。


 つまり彼の言っている言葉に確証はない。


 むしろ安心させるためにあえて言っているのかもしれない。その可能性だけは否定せずにいる必要がありそうだ。相手は誘拐犯、あくまでも冷静に。


 するとふふふという笑い声と共にその声の主は「あなたは選ばれただけありますね。ミスター入嶋」と言った。

 急な笑い声にまた戦慄したが、そこまで不快ではない笑い方であると感じた。

 しかしまた私の疑いを読みとられてしまったのだろうか。もしそうであるならば予想通り、この船は樺太でないどこかに向かっているはずだ。


 それならばどこへ?


 まさか。


「その通りでございます。こちら“ロストワールド直行便”でございます」

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