山頂の大仕事 その3

「棘なしキュウリって知ってるか?」


 6月19日水曜日。午前11時を過ぎたころ。日が昇って、少し暑くなってきたころに、涼さんがそう切り出した。


「……ズッキーニですか?」

 菜津希がぼんやりと答える。すると涼さんは「ちげーよ馬鹿」と一言呟き、解説を始める。


「キュウリの棘が刺さって危険だってクレームが、ある農家に届けられた。その農家は、鮮度が落ちるからと説明したが、クレーマーは聞く耳持たず。仕方がないから棘をとるっていう作業を追加して対応することにした。それがどんどん波及してって、ある日種苗屋が最初から棘のないキュウリを作ることにした。数年かけて棘なしキュウリは完成したが、同じころに、鮮度がいいのは棘のあるキュウリだってテレビで取り上げられるようになった。すると、この前まで棘が危険だってクレーム入れてたやつが、新鮮じゃないキュウリを売るなとクレームを入れるようになった。そして、せっかく品種改良して作った棘なしキュウリもその被害に遭い、売れなくなって忘れ去られた。と、まあそんな寓話だ」


 解説を言い終わると、涼さんは切れ気味に「実話かどうかは知らんがな」と付け加えた。

 その様子を見て、涼さんはその話に出てきたクレーマーみたいな人に対して切れるんだなと、菜津希はふと思いながら、作業を再開する。


 今日の作業は、ホルモン処理。使う植物ホルモンの名称からとって、ジベレリン処理ともいわれてる。ブドウにおける代表的な作業で、種を無くしたり、実を大きくしたりする作業。名前だけは知っていたけど、実際に作業をしてみるとわりと単純で簡潔なので、ちょっと拍子抜けしたような気分。


 やり方は簡単。薬液を房につけるだけ。1秒とかからない、非常に簡単な作業。


 使う道具も単純。15㎝程度のカップと3L入るタンクを、管でつないだだけのもの。カップの縁から薬液が出て、それを房に当てて、余った液はカップの底から管を通ってタンクの中へ。そしてタンクからポンプの力で薬液を吸い上げ、カップの縁からまた出すという循環構造。


 こんな簡単な方法で種を消せるのかと思うと、菜津希はやっぱり拍子抜けした様子だったが、生まれて初めて単一電池で動くものを見た、という感動だけはあった。


「種があって食べにくいってクレームに答えて、こうやって手間かけて種を無くしたり実を大きくしたりしてるが、いつかこの手間も余計な事扱いされる日がくるんじゃないかと思うと、無性に腹が立ってくる」


 実際、種なしの方が食べやすさは上だけど、糖度や香りは種ありのほうがいいらしい。そして、有機栽培が流行する昨今では、たとえ植物由来の成分であっても薬液という時点で悪いイメージが付きやすいこの作業は、確かにいつストップをかけられてもおかしくはない。


「まあ仕方ないですよ。流行とかもそうですけど、器用に流れに乗らないと」

「野菜を栽培するだけなら、そりゃ器用に変えられるだろうさ。だがな、そういうわけにはいかねえモンは山ほどあんだよ」


 菜津希がなだめるように言うと、突然涼さんの目つきが変わったような気がする。というか、完全に何かのスイッチが入ってしまったようだ。


「知ってるか? 品種改良は1/10000の確率のガチャを10000回引く作業を延々繰り返してやるんだぜ? 当然生育にかかる時間があるから、結果の確認は年に数回程度しか出来ねえ。確定ガチャ引く方法遺伝子組み換えだってあるのに、どこかの馬鹿がなんか怖いからってだけの理由で禁止したせいで使えねえ。あと有機無農薬。あれも指定の薬物を過去10年間使っていない畑じゃないと始めるこすら出来ねえ。突然やれって言われても、それじゃあ対応できねえんだ」


 ホルモン処理と並行して行っている脇芽取りの手が、段々乱暴になっていく。これ以上気分を害させるのはまずいと思ったので、菜津希はそれ以上はなにも言わないことにした。幸いなことに、午前の仕事はあと少しで終わる。菜津希は目の前の房に向き合い、処理を黙々とこなすことにした。




 畑から帰る途中、ふと、甘酸っぱい香りが漂っていたのを菜津希は感じた。香りのもとを探してあたりを見渡すと、畑から少し離れた場所に別の樹が植わっているのが見えた。


「涼さん。あの樹ってもしかして…!」


 香りの正体はすぐに分かった。1年生の頃からずっと授業で取り扱ってきた植物。日本の食卓を代表するといっても過言ではない食べ物。


「ああ、梅の樹だ。早いやつはそろそろ収穫できるかもな」


 梅が熟す時期に降る雨だから、梅雨。当たり前のことだけれど、梅の樹に触れたことのない菜津希からすると、それはとてつもない大発見のような感動があった。普通の人にとって梅雨は、ジメジメして嫌な天気が続く時期か、梅味のお菓子がいっぱい出回りだす時期という認識しか持っていない。だからこそ、こうやって実際に熟した梅を見ることは、ある種の感動を覚えさせる。


「ホレ。食ってみるか?」


 菜津希が梅の樹をキラキラした目で見つめていると、涼さんが熟した梅をひとつ採って渡した。食紅も紫蘇も使っていない、緑でも赤でも紅色でもない、黄色い色をした梅。昼ごはん前のすきっ腹のお腹に、食欲をそそる甘酸っぱい香りが刺激する。菜津希はこらえることなく、梅の実を一齧り。


「いただきます! ……んーっ酸っぱい!」


 ただ酸っぱいだけじゃない。微かな苦みとほのかな甘みがある。完熟特有の柔らかい歯触りもあって、梅というよりスモモに近い。でも、口の中一杯に広がる柔らかな香りは梅そのものだ。


「この梅は収穫したら、ほとんどを梅干しに加工する。期待してるぞ2科」


 涼さんもそういいながら、熟れた梅を齧る。菜津希はそれに元気な声で、「任せてください!」と返事しながら、残りの梅を口に放り込んだ。

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