6月

山頂の大仕事 その1

 6月3日午前8時半。天気は曇り。6月最初の実習は、山の上にあるブドウ畑での作業となった。


 内容は、農薬散布だ。

「農薬って聞くだけで拒絶反応出すクソ野郎共も、その原因作ったクソ野郎共も残らず死ね」

 早速、口の悪いと噂の涼さんが、農薬よりもきつめの毒を漏らす。そばで聞いていた晴間と秀明は、全身をゴツめの防除着で覆い、手にはゴム手袋、足には長靴といった装備を纏い、農薬を袋から取り出す。


「そしてそれ以上に、樹につく虫はとっとと滅べ!」

 涼さんは、怒りのこもった口調で声を荒げながら、薬をタンクに投入した。


「あー……薬って、結構いろんなの使うんスね」

 秀明が、荒んだ空気を換える為に話題を振った。こういうときに即行動できるのは、やはり頼もしい。


「ったりめーだ。人間だって病気によっていろんな薬飲むだろ? 植物だっておんなじに決まってんだろーが」

 だが、結局空気は変わらなかった。それどころか、涼さんはさらにぶつぶつと悪態をつき続け、余計に悪い方向へ。


「んな単純なこともわからずに、やれ農薬がどうの。やれ無農薬がどうの。んな文句言うんだったら病院も薬局もいかずに全部の病気を自然治癒しやがれってんだクソが!」

 こんなにイライラとした口調をした涼さんだが、聞くところによると、意外なことにタバコは吸わないらしい。なんとなく、ニコチンが切れたような態度をとっているようにも見えるが、これが素のようだ(それはそれでどうなんだって気もするが)。


「あの、涼…さん?」


 勇気を出して、今度は晴間が話を振ってみる。すると、涼さんは蛇口を思い切りひねりながら言った。


「あ゛?なんだ?」

「もしかしなくても、防除嫌いです?」


 すると、涼さんはホースをタンクの取っ手にくくり付けながら乱暴に言い放った。

「ったりめーだろクソが! なんでこんなクソ暑い格好して、ハウスの中に入んなきゃいけねーんだ! しかも、それを2週間にいっぺんのペースでだぞ! たまに劇物使うしよ! 薬の値段も高いし使用期限もある。農薬に対するマイナスイメージも強い! でもやらなかったらやらなかったで、甚大な被害が出るからやんなきゃいけねえ! んなもん好きになれって方がムリな話だクソが!!」


 そのまま道具に蹴りでも入れそうな勢いだった。だが、かわりに噴霧器のエンジンスターターを勢いよく引っ張ることで、うまく発散したように見える。呆気にとられる二人をよそに、涼さんはエンジンの調子を確認し終え、「おいお前ら!」と怒鳴る。


「昼までかかると、今度は逆に薬害が出て葉が枯れるからな! まだ夏始まったばかりなのに熱中症になるのも笑えねえしな。とっとと終わらすぞ!」


 そういいながら、涼さんは長さ約1mの竿を2人に手渡す。竿の先には、輪のような形の部品がついていて、その輪には等間隔に3か所の微細な噴射口が開いている。ここからタンクからポンプでくみ上げた農薬が、霧状になって散布されるというしくみだ。

 竿を受け取った2人は、涼さんの勢いに乗せられたまま、元気よく返事をした。




 防除、と一口に言っても、その目的と方法は様々だ。使う薬は大まかに分けて、殺菌殺虫除草の3つ。それも、水に溶かすものと溶かさないもの。液体に粉に顆粒と、とにかく種類が多い。さらには、効果がある倍率も用途によって様々で、同じ薬でもこの虫には1000倍希釈が効くけど、この虫には800倍希釈じゃないと効かない、といったものがある。


 まあ、とにかく複雑なのだ。特に、ここ農家農園のように多品目を栽培していると、その複雑な薬を用途によって使い分けなければならない。しかも、農薬は約1~2年で劣化し、使い物にならなくなるものが多いので、無駄なく薬を購入、使用しなければかなりの無駄が出来てしまうというのも、なかなかに大変なポイントだ。


 唯一の救いは、とにかく書くことが多いから、レポートを埋めるのにちょうどいいってところだな。などと思いながら、晴間はブドウの枝葉に霧状の薬液を散布している。防除用のゴーグルが多少曇って見えづらいが、幸いにも枝は真っ直ぐ伸びているので、散布自体は簡単だ。ただ、加減がちょっと難しい。


「晴間! ちょっと下がってきてるぞ」

 少し離れたところから、涼さんのそんな声が聞こえる。枝には大量の葉っぱがついているので、その葉っぱが薬液を塞いでしまい、樹の上まで届いていないのだ。


「秀はちょっと近い! もうちょい離せ」

 逆に近づけすぎると、今度は散布される面積が少なくなって効率が悪い。薬液が雫になって留まりやすくなるというのもある。そうなってしまうと、薬液が蒸発しづらくなり、逆に薬による被害(これを薬害という)が出てしまうのだ。


 それを、3人がかりとはいえ、畑全体に行う。ここ山上ブドウ畑の面積は約3a。つまりは30m×10m=300㎡の広さで、5°ほどの傾斜がある。作業自体に時間はそんなにかからず、1時間もあれば終わる広さだ。


「…ハル。…そっちは終わったか?」


「……あと、ちょっと」


 だが、温まりやすいハウスのなかで、全身フル装備で作業をするというのはかなりの体力を消耗する。5°ほどとはいえ、傾斜な土道も容赦なく足を襲う。たまに風向きが変わって、薬液が全部自分にかかってしまうということもまま起きていた(そのたびに涼さんの怒鳴り声が鳴り響いていた)。



「…よし、終わった…!」


 最後の枝に散布し終わり、引き上げる為に振り向いた。


 そこにあったのは、30mの上り坂。角度は5°ほど。


「……っ~~~~!」

 防塵マスクのせいで多少息苦しい中、晴間は声にならない声をあげながら、とぼとぼと上り坂を登って行った。



 2~3分かけてようやくハウスの入り口に到着したころ、晴間はすっかり、防除作業が嫌いになっていた。




「おつかれさん。もう服脱いでいいぞ」

 と涼さんが言い切る前に、晴間と秀明は防除着を乱暴に脱ぎ散らかし、ゴーグルとマスクを引き剥がした。


「あー疲れた…って寒っ!?」


 いったいどれだけの汗をかいていたのだろう。服を脱いだ瞬間、全身の汗が風に触れて体温を奪い、27℃くらいの気温でも寒く感じる。


「うし、とっとと噴霧器片付けて帰ろーぜ」


 そういいながら、涼さんは噴霧器のエンジンをかけたまま、噴射口のついた竿を外す。すると、圧力のかかった薬液の残りが、勢いよく噴出した。それと同時に、タンクに新しい水を入れる。


「機械とホースの中には薬が残ってるから、こうやって全部洗い流すこと。次使うときにコレが悪さをするからな」


 晴間と秀明は、涼さんから手順を教わりながら、噴霧器を掃除する。タンク、機械内、噴射口と順番に水を通す。出てくる水が泡立たなくなれば、薬液は完全に外に出たという印になる。さっきまで疲労困憊といった状態だった2人は、体温が下がったからかすぐに元気を取り戻し、スムーズに片付けを済ませることができたようだ。


 その後、噴霧器とタンクを倉庫に戻した後、涼さんがペットボトルのお茶を2人に投げ渡しながら言った。


「午前の研修は、これでしまいだ。お疲れさん」

「え、もうっすか?」


 時計を見ると、時刻は午前10時半。いつもより1時間以上も早い。


「いいんですか? こんなに早くても」


 そう晴間が聞くと、涼さんはお前ら元気だなと苦笑しながら言った。


「薬撒いた後はシャワー浴びて休む。これは鉄則だ。特に疲れやすい仕事だからってのもあるが、薬まみれの状態でウロウロされるのも迷惑になるしな」


 それとも、まだなんか作業するか? と、涼さんは付け加えて言う。それに対して、2人は仲良く首を横に振った。

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