No.5-3




 赤。

 目に映る景色を赤が覆い隠していく。


 なるべく奥へと逃げようとする人が。

 隙を見て彼の横を抜けようとする人が。

 視界に入らぬよう端で縮こまる人が。

 地獄絵図に放心して崩れ落ちた人が。

 涙を流して謝り続ける人が。

 頭を穿たれ、首を千切られ、腕をむしられ、胸を貫かれ、腹を抉られ、腰を削がれ、足をもがれていく。

 誰のとも分からない目が、耳が、手が、髪が、足が、唇が、肺が、骨が、腸が、脳が、心臓が、身体の一部がどんどん、どんどん混ざって散らばっていく。


 助けを求める悲鳴と断末魔と破壊する水音だけが聞こえていた部屋に、パリン、と高い破裂音が場違いなほど響いた。


 導く者が──矢竹の母親が窓ガラスを割り、護衛の男に連れられ逃げたのだ。そこへ残りの見捨てられた信者達が殺到する。蜘蛛の糸に群がる地獄の亡者のごとく。絶望からの希望へと、無我夢中で手を伸ばす。

 しかし、大人しく逃がされるはずもなかった。



 矢竹が我に返ったとき、ちょうど林檎が床に倒れ伏すところだった。

 名の通り赤く熟れた林檎のようになってしまった彼女は、脇腹が大きく欠損していた。痛みに悶える素振りもなく微塵も動かない。華奢な腕も普通の人体では不可能な方向へ曲がっている。

 矢竹は緩慢な動作で視線を上げ、何の感情も無く少年を見た。


 血塗れだが白い着物を被った彼と、黒いヴェールを被った矢竹。

 布越しで目線も不鮮明なはずだが、何故か矢竹には少年と目が合った確信があった。


 人、なのだろうか。矢竹は不意に確かめたくなり、重い身体をなんとか動かして正座から体勢を崩し、後ろに倒れないようにしてずりずりと前へ動く。台座に腰かけ足を畳の上へ下ろし、やっと矢竹は立ち上がった。

 少年へ一歩、また一歩と踏み出す。恐る恐るの足取りだったが、いくら近付いても向こうから離れていくことはなかった。そっと目の前に立つ。そして矢竹は少年の胸にもたれ掛かり、耳を当てた。


 遅く、弱々しい。だが、確かに心臓が動く音が聞こえてくる。この少年は


 そう感じた瞬間、少年の全身から力が抜けた。

 少年が倒れかかってきたが、矢竹は後ろ手に縛られていて受け止められなかった。そのまま少年は矢竹の肩から横にずり落ち、ベシャと血を含んでぬかるんだ畳へ倒れこむ。大丈夫かと心配して少しの間見守っていたが、彼が動き出す様子はなかった。

 矢竹は少年をうつ伏せで放置しておくのも気が引け、かと言って蹴飛ばすのも躊躇したため仕方なく何回か膝で押して仰向けの状態へと転がす。転がった拍子に、面と着物が外れた。



 円城寺衛だった。



「────────ッ!?」

 声にならない悲鳴が口を衝く。

 信じられなくて、彼の顔をちゃんと近くで見たくて、矢竹は膝をつく。すぐ血がズボンに染み込み、冷たい温度と悪寒がゾッと下から上へと這い上がった。

 学校で見るよりも、ずっと顔が青ざめて見える。目を閉じたその表情もどこか苦しげに顔をしかめている。いつも整えられている色素の薄い髪は艶を無くしており、毛先が血に浸り染まってしまっていた。

 何故だ? 何故彼がこんなことを?

 矢竹の頭の中はパニックになっていた。思考が真っ白になり脳裏には答えの無い疑問が堂々巡りする。半狂乱になって叫び出してしまいたいのに猿ぐつわが邪魔をする。頭を抱えたいのに後ろ手に縛る縄が邪魔をする。

 いっそのこと、悪い夢だと思ってしまいたかった。



「矢竹は、幸運が訪れた際に『自分が』とか思ったことはあるか?」



 見知った声に混乱したまま顔を上げると、蘇芳が部屋の敷居に立っていた。


 矢竹の表情は『何故ここに?』『何故今そんなことを?』といった疑問符がありありと見える困惑顔だっただろうに、彼は矢竹へ何も言わず微笑みかけると近付いてくる。

 蘇芳は衛に倒された襖を土足で踏みつけていく。散らばった肉片も同じく土足で踏みつけていく。どちらも同じ物体かのように。そこで矢竹は初めて、この友人に得体の知れない恐怖を覚えた。

「他に『ツキが回ってきた』なんて言ったりもするな。だが、その『ツキ』が何なのか考えたことはあるか?」

 恐怖を覚えたが、意地でも身体が後ろに下がろうとするのを堪えた。いくら怖くても蘇芳を傷付けたくはなかった。声に出ていたわけではないが、蘇芳がふと笑った空気がした。

なんだよ。何も他の家とは大差ないのに急に良いことが起こり出すのは、その裕福になった家が『もの』に憑かれていたからだと考えられていたんだ。裕福になったことを妬み迫害したり、自分の家が繁栄するようにと呪術的に願掛けしたのが『憑き物筋』だな」

 蘇芳は衛の側で立ち止まり、屈んで彼を着物ごと抱えて持ち上げた。

「その憑く『もの』だが、善し悪しによって呼ばれ方が違っていた。益を為すものが守護霊や神、害を為すものが物怪もののけ。物怪の中でも特に力の強いものは──、と呼ばれていた」

 語りながら元は矢竹が座っていた、返り血のほとんどかかっていない台座に蘇芳は歩を進める。そしてその上へと労るかのように静かに、ゆっくりと衛を横たえさせた。

「さて、その『もの』の善し悪しを決めるのは何だと思う? 人だ。昔は、憑き物が当たり前みたいに信じられていた当時は、近所の人のイメージを祈祷師が聞き集めてが憑いているかの判断をした。集められたそれはイメージでも評判でも情報でもレッテルでも、言い方は何でもいい。要はそれがということだ。人間同士が語り継いできた口伝だ。『』は


 そこまで蘇芳は話すと、長い長い息をついた。そして矢竹へ振り向くと再び近付く。

「お前、神様にされかけてたぞ。これを見ろ」

 冊子が膝の上に投げ置かれた感触がする。だがヴェールが邪魔で読めない。矢竹が顔を上げ布を揺らして抗議すると、蘇芳は今度は声に出して苦笑し、優しくそっとヴェールを上へまくり上げた。久しぶりに見た彼の顔は疲れたような、何処か泣き出しそうな表情をしていた。

 目を通したその宗教パンフレットは嘘にまみれていた。矢竹がこれまでどんな善行を重ねてきたのか、これまでどんな奇跡を起こしてきたのかが信者の声とやらと共に載せられていた。これからどんな素晴らしい加護がもたらせるのかも。

 そのほとんどに覚えがない。矢竹がやったのは、昔少しだけ信者から話を聞いただけだ。思わず膝からパンフレットを蹴り払い首を横に振る。

「こんなの知らない、か? 嘘でもアイツらは構わないんだよ、信者が信じればな」

 信じた末がこの死だというのだろうか。遠くに飛ばした視界の端のパンフレットは、徐々に赤黒く染まり読めなくなっていった。

「この街の多くの住人がお前の母親を盲信していた。あの立地の悪い場所にあんな立派な学校が建っているのも、そこに転がってるお偉いさんから寄贈したからだ。お前の母親が要求したのか自主的なのかは知らん。まあ、そのお偉いさんも死んだから今後大変だろうが頑張れよ……なんて、それを俺が言うなって話かもしれないがな」


 蘇芳はドッ、と気怠げに台座の上、衛の横に腰かけた。そして天を仰ぐ。

「とんだ笑い話があったもんだ。お前と衛は全く同じ、だが真反対のことをされていたんだからな」

 話が読めなくて眉を寄せると、本当に知らなかったんだなと蘇芳は嘲笑気味に口だけ笑った。今日は色んな笑い方をするな、と矢竹は場違いな感想を覚えた。

「お前がプラスの情報を集められて生き神にされそうになっているように……衛はマイナスの情報を集められて、鬼にされそうになっている」

 矢竹は驚くと共に納得がいった。確かに人を引き裂くなんて荒業は普通の人間には出来やしない。でも何故、鬼になど。

「前に会ったって報告にあったオカマ野郎だがな、奴の言ったことは本当だよ。俺達の町は、その女のせいで滅びた」

 もうぴくりとも動かない林檎を、蘇芳は射殺さんばかりの冷たい目線で睨む。

「ある日、俺達の町に元凶の怪異をその女が持ってきてな、俺と衛は家出をしていて無事だった。帰ってきたら酷い有り様だったよ。女子供は、みんな血肉を吐き出して苦しそうに死んでいた。……アイツらは『怪異を町に入れてしまったのはだった』で片付けた。ただの農家で無力だった俺達は、権威にも武力にも逆らえやしなかった。無力だったんだよ。それでも諦められなかった大人達は呪いを……負の意志を一つに集めて、怪異の力を得ることにしたんだ。…………その結果が、このザマだ」

 蘇芳はおどけたように両腕を広げた。矢竹には苦痛を紛れさせるためにわざと道化を演じて──演じようとして、失敗しているようにしか見えなかった。

 少しの期間しか一緒にいなかったが、矢竹には分かっている。蘇芳はドライな一面もあるが根は真面目で仲間想いで、義理堅い。だからこうして上手く裏切れず、非道になりきれずにいるのだと分かっている。

 目が合うと蘇芳は笑みを作るのを止めた。見透かされていると分かったのだろうか。大人びた面を見せることが多かった彼が、くしゃりと帰り道を見失った子供みたいに顔を歪ませた。

「衛は、お前と友達になりたいと言ってた。『事故』のことを何も知らない、お前と友達になりたいと。だから、衛はお前を殺さなかった。殺せなかったんだよ。仇の家族なのに」

 蘇芳は顔を手で覆い、俯く。つられて矢竹も頭を垂れた。この場所に来る前と変わらない、だが血塗れになってしまった自分の膝が視界に映る。

「それでも俺は、町を見捨てて逃げて生き残ってしまった俺は、母親や小さかった妹を亡くした俺は、憑坐よりましにすら選ばれなかった俺は…………親父や叔父ら、大人達を裏切るなんて、とても許されない。もう止められないんだ」

 ごめんな、と掠れた声で呟いたきり蘇芳は何も言わなくなった。どちらに謝ったのかは不明だが、問い質すような真似など矢竹には出来なかった。




 永遠とも思えるような静寂の中、蘇芳が立ち上がった。

 立った蘇芳を矢竹が見上げるよりも早く、彼の手の中からは連続した炸裂音が鳴り始めた。

「俺達はこれからお前の母親を探す。また会う機会があるかもしれないが、そのときはよろしく頼む」

 青白い火花が幾重にも散るスタンガンを片手に、蘇芳はゆっくりと歩み寄ってくる。短く近い距離。それでも逃げずに真っ直ぐ自分を見つめる矢竹に、蘇芳は目を細めた。抱擁でもするくらいまで近付いた彼は肩口で囁く。

「最後に一つだけ……柊に、悪いと言っておいてくれ。さようなら、矢竹」

 腹部に激しい痛み。

 矢竹の意識は再び途切れた。




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