No.3-2




 全身がだるい。頭が痛く、額に熱がある。あとは鼻や喉などにも違和感がある。

「風邪、だな」

「風邪……?」

 矢竹はぼんやりとした頭で、言われたことをただ復唱した。

「もしかして風邪を引いたこと無かったのか? よっぽどの箱入りだったのか、それとも今まで引いたことに気がつかなかったのか」

 こんな調子の良くない状態にはなったことが無いので、矢竹からするとおそらく前者だろうと思われた。少なくとも『馬鹿は風邪を引かない』理論だとは考えたくなかった。

 矢竹が今布団を敷いて寝ているのは管理人室。四畳半ほどの和室だ。窓ガラス一枚で隔てられた外からは、時期的には早いが梅雨のような雨の音が聞こえる。

 この寮の管理人は別の職員寮で寝泊まりしており誰も使っていないはずだった。だがちゃんと掃除がされており、今はこうして風邪を移さないための隔離部屋として使われている。この布団はおそらくこの寮が出来てからほとんど使われず、けれども時々干したりされているのだろう。布団を鼻の上まで引き上げればあまり使われていなさそうな布の匂いがした。

 そんな広いとは言えない場所に蘇芳、百合、紫苑、山吹の四人が矢竹の枕元に集まっていた。鞄を各々持っているのでどうやら登校前に様子を見に来てくれたのだと推測出来る。

「昨日濡れたままスーくんが長話してたからじゃない?」

「それは反省しています。すまなかった、矢竹」

「俺もごめんね~。トウくんからかってないで、そういうとこ気付けば良かったなぁ」

「いやいや、俺が塩について聞きたくて質問したようなものだし。気にしないで、本当に」

 矢竹はどちらにも頭を下げる責など感じなかった。慌てて布団から起き上がり頭を上げさせようとしたが、百合に肩を掴まれ強制的に布団へと戻された。

「とにかく風邪は万病の元だ。甘く見ずに安静に寝ているのが一番良いだろうな」

「えっ、じゃあ『語り手』の仕事は?」

「休みよ休み、当たり前でしょう! 風邪引いてる人にそんな無茶はさせられないわ! 全く、こんな時に仕事のことを気にするなんて!」

「まあまあ百合先輩、それこそ病人相手だから落ち着いて下さいッス」

「どうせ元々続けざまに掃討をする予定は無かったんだ。俺達は普段通りの見回り業務をする。矢竹はゆっくり休むといい」

「で、でも俺だけ休んでるのも申し訳ないというか」

「病人が休むのに何が悪いって言うのよ。矢竹のこれから当分のお仕事は風邪を治すこと! いいわね?」

 多少不満はあるが仕事と言われてしまっては仕方ない。矢竹は渋々頷いた。百合はその肯定をストレートに受け取り、満足げに微笑んで話を続ける。

「今日は先生が担当されてる授業が午後に無い日だから、午後にはかしわ先生が様子を見に来て下さるわ」

 矢竹達の直属の上司である柏は旧校舎管理委員会の顧問だ。一応この寮の管理人でもある。だが一番メインの業務は社会科の歴史担当教師だ。クラス担任など主要な地位からは外されているものの、なかなか忙しいらしく見回りや掃討に参加することはほとんど無い。多忙な先生にまで気を使わせるとは、矢竹は内心恐縮しきりである。

 そんなことを矢竹が考えていると、ふと紫苑が時計に目をやり声をあげた。

「ねえ、そろそろ学校行く時間じゃない?」

「本当だわ! じゃあ矢竹、私達行くから。ちゃんと寝てるのよ? お昼ごはん食べたら風邪薬飲むのよ?」

「矢竹先輩。お粥を百合先輩が作ってくれたッスから、食べる時にはレンジでチンして下さい」

「水分はこまめに取るようにな。ここにスポーツドリンクを置いておく。必要だったらこのストローも使うといい」

「食べたい物とか欲しい物とかあったらメールして~。んじゃ、いってきまーす」

「……いってらっしゃい」

 バタバタと廊下を駆ける音と、ピシャリと閉められた扉の音がやけに心寂しく聞こえた。雨はどんどん激しさを増していった。



 なかなか寝付けない。

 かなり時間を持て余している。昔こんなに何もしない時間は何をしていただろう。矢竹は過去を思い返してみたが、昔の自分は家の手伝いばかりしていたような気がした。流石に今回家事をしていたら怒られるだろうと踏みとどまった。

 仕方なく教科書でも読もうと思い立ち身体を起こそうとした。だが上手く力が入らず、再び布団の上へ倒れ込み逆戻りした。そこで矢竹は、本当に身体が弱った状態なのだとようやく自覚したのだった。

「これかよ」

「え? ああ。ありがとう」

 すっ、と目当ての教科書が視界の中へ差し出される。素直に受け取ってから気がついたが、確かみんな授業中の時間だったはず。誰も寮にいるはずが無いことに気がついた。

 バッと顔を上げると、そこには桃がいた。

「えっ!? なん、」

 何で、と続けたかったのだが、いきなり喉に負担をかけたため乾いた咳が邪魔をした。いきなり大声をあげようとした矢竹を呆れた眼差しで見つつも、桃は枕元のスポーツドリンクを矢竹へと差し出す。

「何してんだよ。ほら飲め」

 咳を多少落ち着かせてから少しずつ飲む。流し込まれるスポーツドリンクは炎症を起こしているだろう喉に心地よく感じた。

「ありがとう。……それで、何で今ここに君がいるんだ?」

 矢竹は礼と共に疑問を口に出す。するとあからさまに話題にされたくないといった様子で桃はふい、と横を向いた。

「別に? オレは休みだっただけだし」

「山吹は普通に登校してた」

「知らねーよ、アイツとは違うクラスだからな」

「うーん、平日に一クラスだけ休みってことも無いと思うけど……まあいいか」

 矢竹の結論に、桃は拍子抜けしたように目を見開いた。

「いいのか?」

「ああ。少なくとも俺がとやかく言う話じゃないよ。様子見に来てくれてありがとう」

「べ、別に! 通りかかったら情けない崩れ落ち方してたから取ってやっただけだ! 勘違いすんな、たまたまだからな!」

 何かのテンプレートみたいな台詞を吐いて、桃は派手な音を立てつつ勢い良く扉を閉めて走り去ってしまった。


 その時はそれで走り去ったのだが、桃は何かにつけて矢竹の元を訪れた。

 家からのメールを読んでいる時。

 レンジでお粥を暖める時。

 ティッシュが切れて在庫を取り出す時。

 トイレに行く際はフェイントをかけられたように男子部屋から出てきてすぐに扉の奥へと引っ込んで行った。

 ようやく眠気が来て大人しく布団に潜ったはいいものの、桃はすぐ横の畳に寝転がりずっと話しかけてくるのだった。


「そろそろ寝たいんだけども」

 矢竹が正直に訴えると苦々しい声色で文句が来た。

「何だよ、オレがいるのに退屈だって言うのかよ」

「違うよ。風邪を治す為には寝た方がいいって言われてるんだ。桃に風邪移す訳にもいかないし」

「……嫌だ」

 先程とは打って変わり、その声は涙声に聞こえた。普段の桃なら聞かせようとしない弱々しい声だった。反射的に布団から半身を起こすと、その矢竹の胸元に桃が抱き付いてくる。

「寝ないでくれ」

「……桃?」

「嫌だ、オレを置いていかないで。寝ないで……怖いんだ……」

「落ち着いてくれ。どうしたんだ?」

「寝ないで……起きてて……」

「……何を恐れている?」

 桃はしばらく寝るなと懇願し続けた。しかし矢竹が根気強く何度も問いを繰り返すと、やがてその訳を震える声で語り始めた。



「誰かが寝ているのを、見るのが怖い」と。



 彼曰く、彼の母親は『猿夢』という怪異に殺されたのだと言う。彼女は亡くなる数日前に印象的な悪夢を見たと話していたらしい。

 彼女はある日、薄暗くて陰気臭い無人駅に一人でいる夢を見た。  

 まもなく駅に電車が入ってきた。しかしそれは普通の電車ではなく猿の子供用電車のようなもので、数人の顔色の悪い男女が一列に座っていた。彼女は電車に乗り込み後ろから三番目の席に座った。 電車が動きだしホームを出るとすぐトンネルに入った。

 その時、アナウンスが流れた。

「次は活けづくり~。活けづくりです」

 彼女が何のことか考えていると、急に後ろから悲鳴が聞こえてきた。振り向くと電車の一番後ろに座っていた男の周りに小人が群がっていた。よく見ると男は刃物で体を裂かれ、本当に魚の活けづくりの様になっていた。

「次はえぐり出し~。えぐり出しです」

 再びアナウンスが流れた。

 今度は小人がギザギザスプーンの様な物で真後ろの女の目を抉り出し始めた。女は鼓膜が破れるかと思うくらい大きな声で悲鳴を上げた。

 順番通りならば次は彼女の番だった。

 彼女は夢から覚めようとしたが、一応アナウンスを確認してから逃げる事にした。

「次は挽肉~。挽肉です」 

 急に機械の音が聞こえてきた。今度は小人が彼女の膝に乗りミンチにする機械を近づけてきた。彼女は夢よ覚めろ、と一生懸命念じた。機械音が大きくなり顔に風圧を感じ、もう駄目だと思った瞬間なんとか悪夢から抜け出すことが出来た。

 それから数年が過ぎた。彼女は夢を忘れ穏やかな生活を過ごしていた。しかしある晩、それは急に再来した。

「次はえぐり出し~。えぐり出しです」

 あの場面だった。

 彼女はすぐに思い出した。前回と全く同じように女が眼球を抉り出されている。彼女は危機感を覚え、再び夢よ覚めろと念じ始めた。

 しかし今回はなかなか目が覚めない。

 覚えのある機械音が近付いている。覚えのある風圧を間近に感じる。それでも彼女は必死に祈り続けた。

 不意に音が止んだ。

 何とか逃れられたのだと思い、瞑っていた目を開けようとしたその時だった。

「また逃げるんですか? 次に来たときは最後ですよ」

 あのアナウンスがはっきりと聞こえた。

 目を開けると夢からは完全に覚めて自分の部屋にいた。彼女によると、最後に聞いたアナウンスは絶対に夢ではなかったそうだ。


 その話をしてから数日後、彼女は寝ている間に心臓麻痺で亡くなった。


 彼女は生前健康そのもので何の前触れも無かった。ただ一つ、夢の話を除いて。

 桃の父親はいきなり妻が死んだことに耐えきれず首を吊った。

 たった一人取り残された桃は、親戚や保護施設など複数の選択肢があった。だが桃は怪異について調べる内に怪異隠蔽課の噂を聞き付け、入るためにわざわざ自分を売り込んだのだという。


「誰かが寝てて起きなくなるのが怖い。親父みたいにオレを見なくなるのが怖い。オレ自身が、その夢を見るんじゃないかと思うと……もう睡眠薬無しじゃ上手く眠れないんだ……」

 嫌な想像を振り払うように桃は頭を横に振る。ぐりぐりと押し付けられている胸元が痛いくらいだった。矢竹にはその力加減の無さが、そのまま怯えの強さに比例している気がした。


「大丈夫」

 矢竹は桃の頭を抱きしめた。


「大丈夫だよ。桃はもう怪異に誰も連れていかれたくなくてに入ったんだろ? だから、もし俺がそんな悪い夢を見ても、誰か続きを見ないような方法をきっと調べてくれる。誰か解決の糸口を見つけてきっと助けてくれる。……他力本願に聞こえるかもしれないけど、怪異について調べる先も怪異に対抗する心構えもある。俺はのみんなを信じることにしたんだ。桃も信じてくれ」

 何せ夢の話だ、助かる道筋があるとは限らない。

 だが、矢竹は仲間達の『怪異から人を助けたいという想い』の強さを心から信じると決めたのだ。桃にも同じものを信じてほしかった。

「みんなを信じる、か」

 桃は胸元から頭を離した。その顔はほの暗さも残っていたが、何処か目に光を感じさせた。

「この話をしてそんなこと言われるのは初めてだ。そうだな……信じたい。オレも、みんなを信じてみたい。それで、ちょっとずつ安心して眠れるようになれたらいいな」

 そう言って桃は身体を起こし立ち上がる。そして背を向けたまま矢竹、と名を呼んできた。

「どうした?」

「……オレがそんな夢見たら対処法考えてくれよな。おやすみ」

「ああ、絶対に探し出してみせるよ。おやすみ」

 矢竹は安心して扉から立ち去る姿を見送り、布団を被り直して眠りについたのだった。雨の音はいつの間にか聞こえなくなっていた。



 それから矢竹が目を覚ましたのは夕暮れ時になってからだ。

「おや、起こしてしまいましたか」

 少し暖かい手のひらを額に感じて覚醒した。もうすっかり熱は下がっていた。

 首を動かし手の主を確認すると、柏厳斗げんとだった。来ると聞いていた顧問兼管理人。白髪混じりの髪を適当に撫で付けただけのふくよかな、見た目に無頓着なタイプの歴史教師。彼は名前に見合わない穏やかな顔付きで矢竹の頭を撫でていた。

「倉敷くん、今回は風邪を引いて災難でしたね。あと五十嵐くんの面倒まで見てくれてありがとうございます」

「……桃、今は何してますか?」

「珍しくちゃんと寝れてますよ。寝る前に倉敷くんに良いことを聞かせてもらったと嬉しそうに言ってくれました」

「本当ですか!」

「ええ。あと、ズル休みしたことも反省してくれています」

 やはりズル休みだったのか、と矢竹は多少呆れた。しかし桃が昼寝出来たことへの喜びの方が遥かに強かった。

 寝起きに水分を取ろうと身を起こす。すると枕元には色んな物が置かれていた。全て寝る前には無かった物だ。

「ああ、倉敷くんが寝ている間に他の子達がお見舞いに来てくれました。全部倉敷くんへのお見舞い品ですよ」

 音楽雑誌の中にエロ本を紛れ込ませた紙袋。

『プリン作ったから食べられるときに食べてね!』と書かれた可愛らしいメモ。

『好みが分からなかった。良かったら使ってくれ』と付箋の貼られた参考書。

『お菓子のお裾分けッス』と直に書かれたパンパンの紙袋。

 最後のアーモンドと小魚の素焼きは誰からか分からなかったが、柏が柊からの物だと教えてくれた。柊の好みが小魚全般だからだろうとも。

 多種多様で、でもそれぞれの想いが詰まった品を矢竹は本当に嬉しく思った。にやけを隠さず眺めていると不意に柏が口を開いた。

「倉敷くん、みんなと良い関係を築けているようですね」

「はい。みんな優しくしてくれますから」

「教師として嬉しく思います。これからも心を許せて協力し合える仲でいて下さい」

「……どうしたんですか。何か問題でも?」

 いきなりの言葉に矢竹は不安を覚えた。柏は目を瞑り疑問に答える。

「あの子達はみんな、かつて怪異に巻き込まれた存在です」

 告げられた事実に矢竹は驚き、そして普段の彼らが感付かせなかったことに思わず唇を噛み締めた。

「みんな怪異で大切なものを失っています。みんな怪異にトラウマを持ち、みんな心の何処かに狂気を植え付けられています。私の上司らはそれらの過去を原動力にすれば良いと考えていますが……私は、思春期の彼らを思うと心配なのです」

 柏は瞑っていた瞳をそっと開き、矢竹に向けて頭を下げる。

「私は不甲斐ない大人です。彼らを支えることも、一緒にいてあげることすら出来ていない。しかし、こんな私でも頭を下げることくらいは出来ます。……倉敷くん。どうか、彼らを見守ってあげていて下さい」

 歳上の教師が生徒に頭を下げている状況にも関わらず、矢竹は言われた内容にばかり胸を支配されていた。返事はもう決まっていた。

「はい。俺で良ければ」

 夕陽が二人を照らしていた。

 この使命と、返しを聞いた柏の嬉しげな表情は矢竹の記憶にずっと刻み込まれるものとなった。




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