報告ログNo.3 プールから伸びる手
No.3-1
『プールから伸びる手』────真夜中のプールに近付くと、水の底から手が無数に伸びてきて掴みかかられて、溺れ死んでしまう。それらはプールで事故死した生徒達の霊だという。
引き上げられた生徒の足には、手の形をしたアザが残っているらしい。
【報告書ログNo.3 プールから伸びる手】
矢竹は、自分の口から出た泡を見た。
ごぽりと音をたてて出たそれは、ゆっくりと水面へと上がっていく。一緒に浮上しようとした。しかし矢竹は浮かぶことが出来ない。
足元を見ると手が掴んでいた。異様に真っ白で根元が見えなくて、関節の位置も曖昧な手が。何本も水底から生えた、死人の手が。
懸命に振りほどこうともがく。だが手は矢竹の足を離そうとはせず、引っ張ってもびくともしない。暴れるだけ徒にスタミナが奪われていくばかりだった。そのうち手が矢竹を掴む面積はどんどん増え、今や肩さえ掴み完全に底へ引きずり込む体勢になってきている。
矢竹の息もそう長くは続きそうになく、徐々に限界が近づいていた。
だが、いきなり手の集団は一斉に矢竹から離れた。そして水に毒でも入ったかのようにもがき苦しみ始めた。
やがて何かから逃れようとする手の集団は排水口を目指す。それに同調して水もその一点へと流れ始める。このままでは矢竹も一緒に何処へ繋がってるか分からない場所へ、未知の暗闇へと排水されてしまいそうだ。だが抗うだけの体力も残されていない。
焦る矢竹の背中を、不意に何かが掴んだ。
そして一気に浮上する。
「大丈夫か?」
ずぶ濡れの蘇芳と目が合った。
矢竹が頷くと安堵した表情になり、背中を掴んだ状態のまま矢竹を旧校舎のプールから引きずり上げた。真夜中のプール際に打ち上げられた矢竹は、肺へと入る空気が随分久しぶりのように感じられた。噎せつつもなんとか蘇芳に礼を述べる。
「ありがとう。ごめんな、しくじった」
「矢竹が無事なら良いんだ」
「謝んなくていいよチーくん。不意討ちとはいえ完全気ィ抜いてたのはこっちだし。引きずり込んでくる系な怪異なんだから、俺達が予測くらいするべきだったよね~」
自身の裾の水分を絞りながら紫苑が擁護する。位置的にどうやら蘇芳とプールの上り下りする梯子をそれぞれ掴み流されないようにしていたらしい。
「先輩もありがとうございます。ヘッドフォンとか大丈夫ですか?」
「入る前に放り投げたから大丈夫。……あ~、銃は抱えたままだったからガス部分水入ったかもしれなーい」
「いや、そっちも放り投げましょうよ……」
「咄嗟のことだったし? まあ、救命のため仕方なかったってことで」
それで良いのかと思ったが、そもそも濡れる原因となってしまったので矢竹は強く言えない。
「てかトウくん全然濡れてないじゃん! なんかズルい~。ちゃんと働けよー後輩」
トウは桃から取ったあだ名である。紫苑の呼ぶあだ名の中では比較的分かりやすい部類だ。
急に話を振られた桃は、むっとしたように眉をひそめた。そして自身を指差す紫苑を睨みながら抗弁する。
「オレは塩投げ入れたぞ! 先輩なら幼気な後輩が濡れなくてよかった、くらい思えよなー」
「入れろって指示はスーくんがしたでしょー? 身体張った俺達の方が偉いですぅ。あ、アレかな? 身長ちっちゃくて足つかないから入れなかったのかな~?」
「はあぁ!? 誰が小さいだこのおマヌケ調子乗り胡散臭野郎! このオレが! 怪異を消したんだから文句言うなよ!」
「胡散臭いって何だよ、先輩に向かって生意気だぞー! 怪異倒したっていうのも結果論だもーん!」
「少々賭けな部分はあったが効いて良かった。噂をした人間の中に神道信仰の奴がいて何よりだな」
二人のやり取りを余所にうんうんと頷く蘇芳は満足そうだ。矢竹は無駄な喧嘩を制止するよりも蘇芳の発言が気になり、二人の元へと向かう足を途中で止めた。
「俺、塩ってだいたいどこの宗教でも共通して清めるものとして使われてると思ってたよ」
「清めに塩を使うのは世界では珍しいぞ。諸説はあるが、俺は日本由来のものだと考えている。元を辿れば塩が食べ物の腐敗を防ぐのに使われていて、そこから禊や祓いの力があるとされたのが有力だ。死を穢れとして塩で祓うのは仏教などには見られない文化だが、たまに寺院で置かれてたりもする。これは神仏集合により境が曖昧になったせいだな」
「なるほどな」
「……寮に戻って身体を乾かしてから語れば良かった。どうも、俺は延々と話に熱中する癖があるらしい。直そうとは思っているんだが」
「別にいいんじゃないか? 俺は聞いてて楽しかったよ」
「そうか? そう言ってくれると有難いな。本やネットの一部を聞きかじっただけの知識だが、こうして何かに使えたり聞いてもらったりするだけでも嬉しいもんだ」
蘇芳は手放しの褒め言葉に少しだけ頬を赤らめて笑った。そして照れ隠しに一つ咳払いをすると、まだ下らない言い合いをしている二人に向かって手を叩いて注目を促した。
「桃、紫苑先輩。そろそろ戻りますよ。もうここに残ってる意味は無いし、気温もだいぶ下がってきました」
「あーい」
「分かった。紫苑、帰ったら覚えとけよ」
「紫苑先輩。でしょ?」
「……紫苑先輩覚えてやがれ!」
「やだー、口が悪ーい!」
二人の軽口が誰もいない旧校舎に反響する。去り際にふとプールを見ると、何事も無かったかのように乾いた苔だらけの底が見えた。矢竹は光景すら簡単に塗り替えてしまう怪異というモノに薄ら寒いものを感じた。
五月に入ったばかりのまだ冷たい風が、矢竹の濡れた身体を撫でる。空を見上げれば灰色の雲が全体を覆い星一つさえ見えなかった。
帰還後、壊してしまった銃のことで紫苑がこっぴどく百合に怒られたのは言うまでもない話である。
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