No.1-6




 あの心臓破りの坂を全力で走ってきた。

 運動部でもない矢竹がいきなりそんなことをすれば、当然心臓が痛くなるし肺が苦しくなるし、膝も面白いくらい笑う。しかし今、その程度のことで足を止める訳にはいかなかった。

 重い足を引き摺りながら昇降口の扉を開ける。月明かりに照らされた、経年劣化した木材の枠組みと濁ったガラス張りの扉を。

 放課後に見た印象とかなり違っていて、夢に見た印象とかなり似ていた。

 夢と違うのはギィ、と蝶番の擦れる音がちゃんと分かることだ。朽ちかけて黒ずんだ床板を踏めば軋む音が鳴る。柱に触れれば木の独特の冷たくないざらついた触感がする。

 今の矢竹には五感がある。

 暗い廊下だ。慣れれば壁の割れ目から射し込む月明かりでなんとか見えるのだろうが、懐中電灯でも持ってくれば良かった。夢の中の彼女のように。

 先程から夢では無いことが嫌に不安をかきたてる。あの悪夢を止めに、ないしはあの悪夢が起こらないことを確認するために旧校舎に来ているというのに。矢竹は不安を振り払うため廊下を走る。

 早く林檎に会わなくては。

 十三段目に辿り着く前に。

 建物の一番端の、見つけにくい位置の階段。

 一度行ったことがあるので矢竹は迷わず一直線に進み……さほどしない内に廊下の半ば辺りで人影を見つけた。


 林檎だ。

 厚手のピンクのワンピースに白いコート。

 夢では色こそ付いていなかったが、寸分違わぬ格好をしていた。矢竹がずっと否定したかった夢との符合。ゾッ、と背筋に冷たいものが走る。

 林檎は時計を確認し、今まさに上ろうとしているときだった。


「嘉木森さん!」

 引き留めようと駆け出したが、勢い良く転んでしまった。廊下の板の割れ目にでもつまづいたかと思い足を引こうとしたが、それも阻まれる。

 何だ? 咄嗟に理解が出来なくて反射的に、何も考えずに足の方を見た。



 廊下から、木で出来たが生えていた。



「……………………ッ!?」

 廊下と同じ、経年劣化し黒ずんだ木材で出来た手。完全にワックスの剥がれ落ちたささくれだらけの手。それが矢竹の足首をがっちり掴んでいたのだった。

「くそっ、離せ……離せよ…………!」

 引き剥がすため手で懸命に抉じ開けようとしたが、びくともしなかった。まるで元からそんな形状のオブジェだったかのように動く気配すら無かった。拳で何回も叩くが、パラパラと表面が崩れるだけで指すら折れない。

「嘉木森さん! 行くな、嘉木森さん!」

 せめて、林檎が階段に行くことだけは阻止したかった。しかし何度も呼び掛けても林檎は全く反応を示さず階段の段へと踏み出す。

 矢竹の焦燥も知らず、彼女は上るのを止めない。


 ────4、5、6、


「行かないでくれ!」

 腕をいくら伸ばしても手は届きはしない。


 ────7、8、9、


「気づけよ! おい、嘉木森さんッ!!」

 どんなに大声を出しても林檎が気づくことは無い。


 ────10、11、12、


「行くなぁ…………!!」

 ガリ、と指が床を引っ掻く。けれども徒に痛んだ板材が指を傷付けるだけだった。



 ────────── 13。



 その段は踏んだ瞬間に、無くなった。

「いやだ……いやだ…………!!」

 グン、と引っ張られるように彼女の体は勢い良く空中で垂れ下がる。縄は張り彼女の首に容赦なく食い込んだ。

 女の子一人さえ止められなかった。

 夢が現実になるのを阻止出来なかった。

 五感が自由になろうと何も出来なかった。

 あまりに無力だった。

 林檎は何も言わぬ死体になってしまう。

 救いたかったのに。

 救いたかったのに!



 そのとき、破裂音が轟いた。



 縄が切れた。

 林檎が踊り場にドサリと落ちる。

 切れた縄の先は暗闇に溶け込むようにして消えた。

 今までのことが嘘だったかのように静寂が訪れた。大きな音の余韻の耳鳴りが痛いくらいに。

 矢竹は、ただ呆然と音の発生源を見上げた。


 人形のような美少年がそこに立っていた。

 放課後に見た美少年。だが着ていたのは制服では無かった。

 真っ黒い立て襟のロングコートのようなものを着ていた。重苦しい印象。宗教の祭服に近いが、撥水加工みたいな光沢のある生地が神秘性を削いでいる。

 手には煙が一筋のぼるリボルバー。

 あまりにも現実感が無くて、あまりにもよく似合っていた。


「見たのか、あれを」

 不意に彼の方から口火を切った。

 質問の意図は分からない。しかしおそらくと言っているのは十三階段で、見たことは間違いないので矢竹は一つ頷いた。

「……そうか」

 そう言って目を伏せた彼は相変わらず表情に乏しいが、何だか悲しそうに見えた。

「ケイ、お疲れ様ー」

 ヘッドフォンをかけた、放課後に会った旧校舎委員会の先輩が声をかけてきた。こちらも黒いロングコートのような服を着ていて大分印象が変わっている。ヘッドフォンにはマイクも付属していた。

「あれ? その子放課後に会った子でしょ。大丈夫? かなり唖然~って感じだけど」

「他人の呼び出した怪異を見たそうだ」

「……マジで?」

 その声には驚きと、ほんの少し嫌そうな感じが含まれていた。先輩はうー、とかあー、とか唸りガシガシと頭を掻いていた。かと思うと、矢竹の方を向く。

「俺らの寮においでよ。説明出来る範囲なら説明してあげる」

 美少年は眉を僅かに潜めたが、ヘッドフォンの彼は宥めるようにウインクを一つした。そして、這いつくばる体勢の矢竹に手を伸ばす。

「そりゃー知ることがいいことばっかじゃない、ってのは分かってるけどさ~。……でも、知らなきゃ何も始まれない。でしょ?」

 矢竹は頷いて、彼の手を取った。


 そうだ。

 きっと最初は矢竹は知るために、旧校舎に踏み行ったのだから。

 旧校舎に纏わる出来事、それを夢に見たこと。分からないことだらけだった。だが、矢竹は何故だかそれらを全て知らなきゃいけない気がしてならない。

 何気ない言葉で背中を押してくれた、林檎を助けてくれた彼らを信じて。

 矢竹は林檎が車で家へと運ばれていくのを見送ってから、旧校舎委員会の彼らと共に寮へと向かった。



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