No.1-5





 彼女が扉を開けた。

 月明かりに照らされた、経年劣化した木材の枠組みと濁ったガラス張りの扉。それを華奢な少女の手が、なるべく音をたてないようにゆっくりと押し開けた。

 自分はそれを後ろから見ている。

 朽ちかけて黒ずんだ床板に彼女がそっと踏み出して行くのを、ただ見ている。

 暗い廊下だ。慣れれば壁の割れ目から射し込む月明かりでなんとか見えるのだろうが、彼女は持参してきただろう懐中電灯の灯りを頼りに歩いている。古い窓ガラスがその人工的な光を鈍く反射する。

 自分はその後ろをついていく。

 怯えもせずひたすら目的地を目指す彼女を、ただ見ている。

 音をたてないように慎重ではあったが彼女の足取りに迷いは無かった。目的のためだけに進むそのスピードは速い。

 あっという間に着いてしまう。

 あの階段に。

 建物の一番端の、見つけにくい位置の階段。彼女が階段の前に立つのを見たときに嫌な感じがした。

 胸に虫を入れられたみたいな落ち着かない感覚、心臓を毛で撫でられているようなおぞましい感覚。それは何とも言いようが無かったが、ただ一つだけ確かに分かることがあった。


 彼女を一番上まで行かせてはならない。


 何の根拠も無いが直感的にそう思った。

 だが彼女は時計で時間を確認すると、無情にも一つ一つ階段を踏みしめるように上り始めた。

 止めろ、と言いたいのに声にならない。

 駆けつけて引き留めたいのに足が動かない。

 腕を伸ばしても空を切るばかり。

 そんな焦燥も知らず、彼女は上るのを止めない。


 ────4、5、6、


 行かないでくれ。その階段は危険なんだ。もう数えるのを止めてくれ。


 ────7、8、9、


 早く、引き返してくれ。今ならまだ間に合う。戻ってきてくれ。


 ────10、11、12、


 行くな、止めろッ!!


 ────────── 13。


 その段は踏んだ瞬間に、無くなった。

 彼女の体は宙に浮く。

 しかし、次の瞬間吊るされた。

 重力に従って落ちる最中、いきなり何もなかったはずの空間に縄が現れた。彼女の首はそこにかかった。グン、と引っ張られるように彼女の体は勢い良く空中で垂れ下がる。縄は張り彼女の首に容赦なく食い込む。

 彼女は必死にもがいた。

 しかしいくら首元を引っ掻いても、足をばたつかせても、爪が割れようとも縄は取れない。圧迫された、自身の体重で潰れた彼女の喉から聞こえない声が鳴る。

 彼女を今すぐ助けたかった。

 しかし自分の体は自分のものじゃないみたいに重い。必死に動かそうとしてもその場から一ミリたりとも動かない。自分の足元を確認しようにも、首すら彼女の方を向いてびくともしなかった。まるで見届けることを強要するように。

 彼女は縄を掴み懸命に輪から首を外そうとしていたが、ぶるぶると体を持ち上げるだけで精一杯だった。やがて縄が彼女の手から滑り、今まで支えていた体重の全てが激しい衝撃となって彼女の首を襲った。彼女の体は一瞬跳ね、しかし腕がだらりと垂れ下がった後は何の反応も見せなくなった。


 彼女は動かなくなった。


 明確な死がそこにはあった。

 彼女は、死んでしまった。

 ただ体液を垂れ流すだけの肉袋と化してしまった。

 そこには彼女の自我は無くなってしまった。

 現実が受け入れられなくて気が遠くなりそうだった。

 救いたかったのに救えなかった。

 悔しくて苦しくて、床をすがり付くように引っ掻いた。今更になってやっと自分の体が自由に動いた。

 何も出来なかったことに自分の無力さを呪った。

 どうして自分は声が出せなかったのか。

 どうして自分は足が動かなかったのか。

 どうして自分は手すら届かなかったのか。

 どうして…………どうして塗装の剥げたささくれだらけの床を引っ掻いても、自分の指は痛くないのか?





「──────────!!」


 矢竹は声にならない悲鳴をあげながら目を覚ました。

 肺が今まで止まっていたかのように必死に酸素を取り込もうと荒い呼吸を繰り返す。何回か噎せながらもなんとか息を整えた。

 今のは何だ? 状況が分からない。

 軽いパニックに責め立てられるまま重い身体を起こすと、寝間着は水を被ったように濡れ体は冷えきっていた。寒さと恐怖で震える体を自分で抱きしめ緩慢に辺りを見回す。

 今入っているベッド、そしてシンプルな机と椅子が並ぶ自分の部屋。

 辺りを見回して、ようやく矢竹は自分が布団の上で寝ていたのだと、今までのは夢だったのだということが理解出来た。


 林檎が死ぬ夢。


 覚めた今でも思い返すと矢竹は胃がひっくり返りそうだった。まだ胸騒ぎの余韻が残って少し目眩がする。

 実に鮮明な夢だった。

 色彩や音は無かったが、覚えのある旧校舎の光景だけでもいやに現実味を帯びていた。

 だが、矢竹は林檎の見知らぬ服装がどうもひとつ引っかかった。夢の中の林檎は春先らしく厚手のワンピースにコートを羽織っていた。想像上の私服だろう。学校以外で会ったことが無いのだから私服を知らないのは当然だ。しかし夢に見れるほど女子の服に着目した記憶は無い。

 それに林檎が事切れる場面もやけにリアルだった。矢竹は普段テレビなどは見ない。だからドラマや映画で演じているのを無意識にでも覚えていた、なんてことは無いのだ。無論実際に首吊り現場を見たということはあり得ない。

 何れにしろ、夢が矢竹の意識以上に事細かであった所以は分からなかった。


 色々と考えていたら随分と落ち着いてきた。悪夢というのは大体起きて言語化するような段階では怖さが薄れるもので、矢竹も例外では無かった。何であそこまで怖がったのかすらもよく分からなくなっていた。

 冷静になった矢竹の視界の端に、寝る前に枕元へ置いた自分のスマホが見えた。通知が着て点滅している。どうやらこれが鳴ったことが起きた原因だろう。目が冴えてしまった矢竹は手持ちぶさたになって、何と無しにスマホのホーム画面を開いた。



『気になって旧校舎に来ちゃいました。』



 と、通知欄に出ていた。

 SNSアプリに入れたばかりの林檎のIDから。


「…………………………ッ!?」

 夢の内容がフラッシュバックする。

 林檎が夜に旧校舎へ向かう理由など一つしか考えられなかった。

 

 心臓がうるさいほど音を立てる。スマホを持つ手が震えた。思考停止した頭が何度も夢の内容を反芻する。林檎が旧校舎へ行き、十三階段を上り終えて首を吊られた夢の内容を。

 軽い通知音を響かせ未読数が増えた。驚きのあまり矢竹の喉がヒュッ、とか細い声で鳴る。

 見たくない。早く見なきゃ。

 相反する思いで矢竹は激しく揺れ動いた。けれど最悪以外の希望を信じて、覚束ない指先を無理矢理押さえ込みアプリを開いた。


『結果は明日お知らせしますね。じゃあ丑三つ時に時間調節してから入ります!』


 時間調節してから。

 ということはまだ間に合うかもしれない。それに矢竹は全て賭けることにした。

 スマホの一番右上に表示されている今の時刻は、1時46分。丑三つ時は、確か……2時から2時30分の間。朝登校にかかった時間は20分以上。迷っている余裕は無かった。

 矢竹はスマホを無造作にポケットに突っ込むと親を起こさないようそっと玄関を出た。そして上着も着ずに寝間着姿のまま、街灯の少ない夜の町へと駆け出していた。




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