第12話 アリスの残した

 暗闇の中、ぽつりと炎が灯る。

 それはとても小さな炎。辺りをやわらかく、薄明りで照らす。

 それはとても優しい炎。目の前の幼子の眠りを、やわらかく包む。

 手をかざし、言環理で炎を灯したのはマイラ。赤の言環理使いとして、豪火を操る勇猛な戦士。

 だがいま操るのは、とても小さなかすかな炎。マルトの眠りをさまたげぬように、そっと静かにおだやかに燃える。

 寝る前にみんなで子供たちの様子を見て回るのは、いつもの日課だった。

 それは今日も、いつも通りに行われていた。

 ただ今日は、その日課が済んだあと深夜になって、マイラが再びマルトの寝室を訪れたのだ。

 灯された明かりの下で、かわいらしい寝息をマルトは立てる。そのマルトの姿を、マイラはじっと見つめる。

 マルトは黒の言環理師だった、という衝撃の事実が判明した。

 大人たちはそれでも、衝撃を表には見せず、何事もなかったかのような顔で、お使いから帰ってきたマルトとメイをむかえ、夕食を共にし、寝かしつけた。

 衝撃的な事実だからこそ、それから子供を守ってやらねばならなかった。

 マイラはマルトをじっと見下ろす。

 いつも通りの愛おしい寝顔。赤ちゃんの時の面影がよく残っている。ぷくぷくしたほっぺ。かわいらしい唇が、むにゃむにゃと動く。

 マイラはそのほっぺたをそっとなでる。マルトは少し身じろぎすると、その手にあまえるかのように頬をすりよせた。

 マイラの胸が、きゅうっとしめつけられる。

 きっとこうして、アリス姉さんにも、マルくんの寝顔を見つめた夜があったんだろうな。

 その時の気持ちがマイラには今、手に取るようにわかった。

 愛しいこの子を守る決意を。

 思えばアリスにロイの死を伝えた時。

 アリスは涙を流しながらも毅然として、最後の戦いの様子を詳細まで知りたがった。

 あの時はロイの死に際を何度も反すうしているようで、辛い思いしかなかったけれど、事情を知った今は理解できる。あの時点でアリスは、自分のところへ刺客がやってくることを見こしていた。愛する伴侶の死の悲しみを無理矢理に乗りこえて、残った我が子を助けるための最大限の努力をしようとしていたのだ。

 それにロイの最後の一言。

 マルトをたのむというあの一言にも、こういう事情がふくまれていたのだ。

 過去動乱の中心となり多くの命をうばってきた存在、黒の言環理師。その色に対する忌避感は戦災孤児であるマイラの心の中にも巣食っている。

 だからこそ、たくされた願いは重い。

 誰も味方になってくれないかもしれない小さな男の子。

 愛する兄と姉の忘れ形見。

 マイラは思う。

 きっとこうしてアリス姉さんもマルくんの寝顔を見つめ、心にちかっていたにちがいない。

 例え世界のすべてにきらわれたとしても。

 例え世界のすべてを敵に回したとしても。

 この愛すべき存在を、すべてをかけて守ってみせる。

 たくされたその思いを、マイラはじっとかみしめていた。


 そのころサキは、ある作業に没頭していた。

 暗がりの研究室。夜遅く研究に打ち込む姿は、そうめずらしいものではない。いやむしろ、ちょくちょくと起きる日常の光景と言えるだろう。

 ただ今日はそのような日常とはちがって、サキは異様な雰囲気をまとっていた。

 いつもと明らかにちがうのは、その表情。

 いつものような淡々とした無表情ではない。いつものように表情を変えず作業しているように見えても、目元、口元、そして顔全体に、思いつめたような緊張感をただよわせている。

 サキは一心不乱に作業を続ける。

 ゆらゆらとゆらめくいくつかの小さな炎に照らされて、サキの影もゆらゆらとゆらめく。

 彼女が今行なっているのは、いつもの新薬の開発ではない。自分の言環理と共に使う薬品を量産していた。

 戦闘準備であった。

 言環理を使った直接戦闘では、サキはロイやマイラのような攻撃力は持たない。言環理の出力としては、あの二人にはおよばない。そういう点では一見戦闘向きでないように思える。

 しかし少し距離をとったり、また他の人と連携をとったりした時には、彼女の力は大きな戦力となる。

 サキは青の言環理師。流体の制御を得意とし、その精緻さにおいては目を見張るものがある。

 サキは自分の攻撃力のなさを、補助的に薬品を使うことによってカバーしている。液体火薬を広範囲に拡散させ面制圧をなしとげる。あるいは薬をはなれた相手の鼻先にまで運び、ねらい撃ちで倒すこともできる。

 しかも、言環理同士の攻防の場で、熱により嵐が巻き起こっているような状態でも、その気流の流れを読み、細い隙間を通すようにして攻撃を行うことが可能。彼女はチームの支援攻撃のスペシャリストなのである。

 そして今、彼女は大いに覚悟を固めていた。

 彼女は心の内を表すのが苦手だ。

 だが、ロイやマイラを兄、姉としたう気持ちはナーナ、マイラに負けていなかった。

 そして兄と姉の忘れ形見である、マルトに対する思いもまた、おとるものではなかった。

 むしろ二人のようにうまく表に出せない分だけ、その思いはぐつぐつとサキの中で煮詰まっていた。

 黒の言環理師に対する忌避感はある。

 黒の言環理師は、動乱の中心となったと伝説は語る。自分は動乱の被害者として、孤児院に身を寄せることになった。黒の言環理師は歴史の中の存在で自分の体験と直接の関係はないけれど、乱世を生み、自分のような被害者を生んだであろう存在に対しては、やはり身構えてしまう。

 だがそんなものは、マルトへの思いの前にはかすんでしまっている。

 だがそんなものは、マルトの愛らしさの前では意味を持たない。

 サキは思う。

 例えマルくんが黒の言環理師として血ぬられた未来を宿命づけられていたとしても、自分は喜んで寄りそい、その運命に従うだろう。

 マルくんのためなら何でもできる。マルくんのためならすべてをささげられる。

 今の自分なら、言環理師の間で伝説となっているあの禁断の祝詞(みことのり)でさえも、口にすることをためらわないだろう。

 言環理師が、その命を代償にすべてを破壊すると言われる、禁忌の呪法。それこそ乱世を治めるために、英雄と言い伝えられた言環理師が最後に己の命で灯した、尊い御業。

 すべてをささげる気持ちは、うそではないのだ。

 でもそれはかなわなぬこと。伝説として語られているのは、今は存在しないからだ。

 なので、サキはもくもくと、自分にできる準備を進める。

 また一つ、できあがった薬を瓶につめた。

 自分のすべての知識を、すべての力を注いで、マルトを守ってみせる。その固い決意もいっしょに。



「それじゃ院長がどこにいるのか、わからないの?」

「ええ、ちょっと出かけてくるとだけ言い残して……。くわしい予定は聞いてないの。ただ、長く空けるつもりならちゃんと言うはずだから、明日にでも帰ってくるんじゃないかしら。何かことづてがあるなら、伝えておくけど?」

「ううん、いいわ。帰ってきてから本人に直接聞くことにする。また明日夜に連絡するね」

 ナーナはそう告げると、水晶に送り込んでいた言環理の力を止めた。空中に浮かんでいた修道院のシスター・パメラの虚像も消える。

 彼女は小さいころからナーナたちを育ててくれた家族のような存在だが、それでもこの秘密を軽々しく告げる気持ちにはなれなかった。

「こんな重大時にどこに行っちゃってるの、もう」

 ナーナはイライラとした口調でそうつぶやき、唇をかむ。

 マルトが黒の言環理師だったこと。

 それがロイとアリスの、ひたかくしにしていた秘密だったこと。

 それを早く相談したいのに。

 ナーナの心中は、マイラやサキとは少しちがっていた。

 マルトを守りたいという気持ちは、もちろんある。

 だがそれを自分たちだけの力で果たせるかどうかは、自信がなかった。

 自分たちの力量が言環理師としてはなかなかのものだという自負はあるが、同時に、自分たちより力が上の者がいるのだということも、よくわかっているのだ。

 例えばこの秘密を探っていたグレイブリッツ派には、カリウスがいる。カリウスとロイは、ハービル修道院出身の言環理師の中でも、とびぬけた力を持っていた。ロイとカリウスなら互角だっただろう。だが、自分たちでは三人がかりでも互角に持ち込めるかどうか。

 さらに言えば、有力派閥であるグレイブリッツのことだ。他にも力のある言環理師はいるだろう。現にロイがその一人に殺されたのだから。それだけの戦力の層の厚さがあるはずだ。

 ロイがいない今、自分たち三人でその戦力に対抗するのはかなり厳しい。

 さらに王宮騎士団もロードフォート派も、さらに言えば他の諸侯も、この事実を知ればだまっていないにちがいない。排除すべしという声も上がるだろう。自分の元へと取り込んで、勢力の逆転を謀る者も出るだろう。

 どちらにせよ、しびれを切らせて実力行使に出るところがあるはずだ。正面切っての戦いでは分が悪すぎる。早急に対応策を練る必要がある。

 それにマルトが黒の言環理師だと気づいた後の他の二人の様子も、ナーナは気になっていた。

 マイラはロイの死に際に立ち会っている。さらにはその後、アリスと最後に話したのもマイラだ。それゆえ彼女がマルトの身を守ることに強い使命感を感じているということは、容易に想像がつく。

 サキは無口で表情があまり表に出ないが、ああ見えて直情型で思い込みが強い。マルトに対する思い入れは並々ならぬものがある。

 そう、多分あの二人は、その身に代えてもマルトを守ると、強く決意しているところだろう。

 ナーナにもそのぐらいの気持ちはある。マルトに思い入れがある部分でも引けは取らない。なにしろ、ナーナママとして自分のおなかを痛めて産んだという、他人には決して語ることのできない妄想をしてしまうぐらいなのだから。

 だが同時に彼女は、三人の中では一番、物事を俯瞰して見ることができる性格だった。それゆえに自然とリーダー的な役割を果たしていたのである。

 決意だけでは守れない。客観的な事実を認めるだけの冷静さを持ち合わせていた。

 何か早急に手を打たなくては。

 あせるナーナは八つ当たり気味に一つ、はき捨てる。

「ああ、やっぱり、こんな一大事にどこに行っちゃってるのよ、ほんとにもう!」


「じゃあ、本日のトレーニングを始めます」

「「はい!」」

 元気な声がダイニングにひびく。ナーナの前に気をつけの姿勢で並ぶのは、マルトとメイ。

 いつもはこんなに形式ばった感じで始めないのだけれど、今日は特別。マルトが初めて言環理のトレーニングをする日だからだ。

 そのマルトはわくわくとした期待の色を瞳に浮かべながら、ナーナを見上げている。

 メイに白の言環理師であることを告げていないように、マルトにも自身が黒の言環理師であることは告げていない。自分の色は深緑でお母さんの色を受け継いでいると聞いている。最初はあまりに深い暗い色を、きれいではないとがっかりしていたけれど、緑なら母と同系色だと言われ、すっかり気にいったようだ。

 ただ、その緑色は母から受け継いだものではなく、検査水晶の中に残したナーナの緑と混じったものだ。並以上の力を持つナーナの緑をぬりつぶしかねないほどの深い闇の黒の力を、マルトは見せていた。

 表面上はにこやかに、張り切る子どもたちの様子を見守る風を装いながら、ナーナの心の内は深刻だった。

 黒の言環理師がここにいるということが発覚すれば、他派閥の目の色が変わるであろうことは明白。

 白の言環理師の存在でさえ、ロイを失ったナーナたち三人だけで守るには少し荷が重いというのに、そこに黒の言環理師まで加わった。

 一晩考えていたのだが、すぐに事態を解決する妙案は思いつかなかった。となれば、早急に二人の力をきたえあげて、最悪の場合でも多少なりとも自分の身を守れるようにしておかなくてはいけない。それが緊急の課題となっていた。

 メイはまだいい。ここまでコツコツと基礎的なトレーニングを積み続けてきた。最近マルトの存在がプラスに働いて自信をつけたことにより、急速に腕を上げている。実戦的な技術をいくつか教えてあげれば、すぐにでもある程度の形にはできるだろう。

 問題はマルトだ。

 どうやらロイとアリスは自分の息子が黒の言環理師であると、どこかで測って知っていたようだ。考えてみればメイと共にロイと私たちは出ていくとしても、アリスとマルトは孤児院に残ってもよかったのだから、マルトの存在をかくす方が本当の目的だったと思われる。メイが白の言環理師であるとわかったあの赤ちゃんの時に、すでにマルトの色も計測していたのだろう。

 その後アリスとマルトはあの辺境の村に隠遁して、マルトが黒の言環理師であるなどとはおくびも出さずに暮らしてきた。マルト自身にもまったく知らせず、言環理の力はないと告げていた。

 その状態で一からトレーニングするとなると、応急の形に持ち込むだけでも、かなり時間がかかるだろう。

「マルくん、がんばれー!」

 マイラから応援の声がかかる。先生役のナーナ、生徒役のマルトとメイから一歩はなれたところで、サキと共に見守っていた。

「マルくんの初めてのトレーニングだもの。見届けなくっちゃ」

 表向き言葉にしたそれは、もちろん本心の一部ではある。だがナーナと同じように、マルトを黒の言環理師として一からトレーニングしなければいけないという、困難な局面を心配しているのである。

「じゃあ今日はこれをやろうか」

 ナーナは一つ、トレーニング用の道具を取り出し、食卓に置いた。

 マルトが初心者なので、まずはゲーム性の高い楽しいものから始めようと選んだものだ。言環理の力で、指先ほどの大きさに細かく区切られた盤面の区画をぬりつぶしていく、陣取り合戦。力くらべの要素があるゲームだ。

 ただ力比べというだけではなく、注ぎ込まれた力が弱くなっているところをねらって、うまくひっくり返せば自分の陣地にできる。その攻防では、技術的な要素も同時に要求される。

 力を出すことと力を感じること。さらには正確に送り届けるコントロール。その基礎の部分をきたえるためのトレーニングツールである。

「じゃあ、やり方を説明するからよく聞いて……マルくん?」

 ナーナは訓練の説明をしかけて、マルトがぽかんとした顔で見ているのに気づいた。

「これがトレーニングなの?」

「うん。これは遊びに見えるけど、十分トレーニングになるんだよ。マルくんはもっとすごい特訓を想像していたのかもしれないけれど、まずは簡単なとこから……」

「ううん、ちがうの。これぼくやったことある。お母さんといつも遊んでた」

「えっ?」

 ナーナはびっくりした。

「マルくん、これをやってたって?」

「うん。お母さんも大好きで、いつもこれで遊んでたよ。ぼくけっこう強いんだよ」

 ナーナは壁際の二人と顔を見合わせた。二人もおどろいた様子。アリスがこれをマルトにやらせていたということは、つまり……。

 メイも不思議に思っていたが、それは大人とはちがう別のところ。

「あれ、でもこれって、言環理の力で動いてるんじゃなかった? だからトレーニングになるんだよね?」

 不思議そうな顔で首をひねっている。メイはそう説明されていたし、そちらが正しい。だから首をひねるのは当然の話。その疑問を口にする。

「マルくんのお母さんは、マルくんには力はないと思ってたんだよね? これを動かせたときに、気がつかなかったのかな?」

「ああ、裏技があるんだよ。言環理の力を貸してあげるの。そうすると、力がなくても遊べるんだ。姉さんは孤児院でもこのゲーム好きでよくやってたから、マルくんと遊びたかったんじゃないかな」

「そうなんだ」

 メイの疑問にナーナはとっさにそう答える。実際、小さな子とやるときに、ハンデとして力を貸してあげることはできる。だから、まるっきりの嘘ではない。

 ただ、アリスがマルトの力がない前提で貸していたとしたら、マルトの元々の力の分はどうなっていたのかとか、突っ込みどころは残っている。

 だが、子供たちはそれには思い至らず、納得してくれたようだった。きわどいやり取りに、ゲームを始める前から冷や汗が出そう。子供たちに事情を知らせず特訓するという、このミッションは本当に前途多難だ。ナーナは心中で困難さをかみしめる。

「ねえ、ねえ、マルくん。これは知ってる?」

 マイラが、用意していた他のゲームを取り出してきた。

「うん。それも家にあった。よく遊んでたよ。あれ、それも本当はトレーニングに使うの?」

「うん、そうだよ。じゃあ、やっぱり姉さんは、自分の知ってるゲームでマルくんと遊びたかったんだね。こっちも裏技使って遊べるんだよ」

「そうなんだー」

 マルトを納得させておいて、大人たちはアイコンタクト。まったく一から訓練しなければいけないのではないかと心配していたが、杞憂に終わったようだ。

 マルトはトレーニングを受けている。

 術自体は教わっていないようだが、基本的な力は練られている。我が子に言環理の力はないと言っておきながら、アリスはきちんと基礎訓練をほどこしていたようだ。

 当然と言えば当然。己を守るのに一番重要なのは己の力。その現実からアリスは目を背けていなかったのだ。

 他のゲーム系トレーニングも一通りこなしているようだ。困難の中に射した一筋の光明に、三人は少しほっとした。一からじゃないだけでも、だいぶましだ。

「じゃあ始めようか。そうするとマルくんは使い方もルールもわかってるんだよね。お母さんの力を借りる形じゃないので、力を注ぐところはちょっと意識してね」

 そう言ってナーナはゲーム盤をセットし始めた。赤青黄緑の四色での陣取り合戦。まずはお手並み拝見ということで、ナーナとマルトの一対一。

「マルくんは何色がいい?」

「緑!」

 本当はいつわりなのだけれど、緑を自分の色としてすっかり気にいっているマルト。それではとナーナは緑色をゆずり、黄色を選んで、ゲーム開始。

 まず力を注ぎ込んで最初の陣地を作る。この時点で、力の一端が測れる。ギャラリーとしてのぞき込んでいた三人、特に大人のマイラとサキは、そこでマルトが見せた力に、わかってはいても顔を一瞬こわばらせる。ナーナをちらりと見やる。その視線に気がついたナーナはかすかに首を振る。

(手加減してないよ)

 瞳がそう語っている。最初の陣地をうばう時点で、マルトはナーナを押し込んでいた。検査水晶の色の発現の様子でも見えていたことだが、マルトの力は本当にかなりのものだ。

「そういえば、マルくんはアリス姉さんと、どのルールでやってた? 時間は?」

「制限時間のこと? うん、あったよ。一ターン三十秒だった」

「おっ、早指しだね」

「へへー。ぼく、けっこう強いって言ったでしょ」

 マルトはほこらしげ。一ターン三十秒とは、ここからの差し手に使える時間だ。これはなかなかのハードモードなのだ。

 現にマルトの言葉にメイがびっくり目を丸くしている。メイはもともとトレーニングとしてこのゲームをやってきたのだが、一ターン三十秒はつい最近取り組むようになったばかり。そしてかなり苦労しているのだ。

 このゲームは、小さなマスの一つ一つが検査水晶と似た素材で作られていて、プレイヤーの言環理の力に反応して色を変える。ただ、正確に本人の色を映すのではなく、決められた四色だ。縦横四十二マスで計千七百六十四マス。プレイヤーは言環理の力を流し込んで、マスを自分の色に変更していき、各辺の真ん中三分の一、十四マスに設定された相手の岸まで押し込むか、終了時間まで優勢を保つかすれば勝ちだ。

 その時に、言環理の力の大きさ、操作のうまさが問われるのだ。マスの色は、注ぎ込まれたプレイヤーの言環理に応じている。そこに自分の言環理を注ぎ込んで、乗っ取ってしまえば、色が変わる。

 そこで力ずくで大量の言環理を流し込んで、相手の色を押し出してしまうのが一つの手。パワーファイター向きで、マイラが得意としている。

 もう一つ、注がれた言環理の力は、波打つように濃淡を生じているので、そのタイミングに合わせて押し出すという手もある。自分の領地を通じて言環理を届かせるのだが、波が引くタイミングで相手のマスに入っていくと押し出しやすい。これはナーナが得意としている。

 さらに高等技術として、その波の動きに合わせて相手のマス目に入っていき、隙間、隙間をぬってさらに奥の流入口をおさえてしまうという手もある。マスに注入された言環理の力は時間と共に失われていくので、弱ったところをねらってひっくり返す。超高精度のコントロールが必要だが、これができると、力が圧倒的に不利でもひっくり返せる。これはサキが得意としている。

 さて、力があることはわかったけれど、技の方はどうかしら。お手並み拝見。ナーナはちらりとマルトを見た。口をへの字にして集中しているマルくんかわいい。これが非常時じゃなければ、ずっと愛でていたいけど。

 ターン開始。先手はナーナ。三十秒の間なら、何手繰り出してもいい。ナーナはマルトの言環理のゆらぎをながめる。込められた力は並以上。だが、弱まるタイミングなら十分入っていける。

 今だ。

 ナーナはパタパタパタと、並んだマス目をひっくり返してみせた。

「わあ、うまい!」

 マルトが感嘆の声を上げる。歯車により時間を刻んでいたタイマーが、ちん! と音をたて、マルトの番。

「よし、負けないぞ」

 マルトが意気込む。言環理が盤面に注ぎ込まれるのをナーナは感じる。とてもスムーズな力の流れ。うん、アリス姉さんは、マルくんをうまくきたえている。目の端でとらえたマイラとサキも言環理の流れを感じ取った様子で、ほう、と感心していた。

 その感心はマルトの次の手で、おどろきへと変わった。

 マルトが今おこなったのは、自分の陣地全体に言環理の力を追加すること。これはこのゲームで基本の手筋。時間と共に減っていく言環理の力を補充して、守備を強化する。残りの時間内で攻め手をどう打つか、何度打つかが注目点。

 なのに。

 マルトはなかなか手を打たなかった。じっと盤面を見つめている。

「マルくん……?」

 メイが心配そうにつぶやく。無理もない。制限時間は三十秒。もたもたしていたら、間に合わなくなる。現に今、メイは、四十五秒を三十秒にして、時間内にやりたいことが全部終わらなかったりしているのだ。防御だけでなく反撃をするのなら、もう動かなくてはいけないはず……。

 その時、マルトがいきなり動いた。

 盤面に力を注ぎ込む。マルトの言環理はナーナのように境界線でマス目をひっくり返して陣地を広げるのではなく、一筋の光として、まっすぐナーナの陣地の一角をつらぬいた。右側の角を切り取るように緑の線が描かれた。

「えい!」

 マルトが一声かけると、となりのマスにも緑が広がる。チンと鐘が鳴った。交代の合図。

 けれどナーナは今見た光景が信じられずに、すぐには動けなかった。観戦しているマイラとサキも同じ気持ちだ。

 今マルトは、陣地に満ちたナーナの言環理の波をじっと観察して、隙を見逃さずに自分の言環理を通した。さらにそこにもう一度言環理を追加し、道筋を広げた。二マス分の幅の緑の隔壁ができたので、あの局面はがぜんマルトが優位となった。

 切り取られた区画には、もうナーナの力の補給が来ない。時間と共に弱っていくので、あとで一気に自分の陣地にできる。

 二マス分の幅の道を作ったというのが、またポイントだ。ねらいは飛び地への力の補給路を作るのを困難にすること。道にはかなりみっちり力が注ぎ込まれていて、これを二マスひっくり返すのは手間がかかる。補給路を作り、力を補充するだけで三十秒を使い切りかねない。

 対するマルトはもう一度補給路をつぶしてもいいし、相手がこちらに手間取れば、放置された他の場所を攻めてもいい。

 一気に大きな優位を築く、見事な一手だった。

 そしてゲームの戦略的な見事さだけではない。その技術面、こちらの方が重要だ。

 マルトが一気に相手領地の角を切り取った技術。ナーナの言環理が波打つリズムを読み切って、波の合間にまっすぐ一本道をつらぬいてみせた。二マスに広げた時も同様に引き波に合わせていた。その言環理を読む確かな感覚。そして言環理の流れをコントロールする技術。さらに波を読むのに使った分、残り時間は少なかったのに、そこで二手打つ言環理展開の速さ。

 マルトのトレーニングはかなり進んでいる。力をたくわえているだけではない。技術的な基礎もしっかり養われている。

「ナーナ?」

「おっといけない」

 危うく時間がなくなりかけた。ナーナは自分の陣地に力を注いで補強。とりあえず、緑の陣地をまた少しけずり取った。

 だがナーナがとりあえずの手を打ってしまったため、マルトの優位はさらに拡大。今度は反対側の一角を切り取り、飛び地にする。

「これは、お姉さん、ちょおっと本気を出さないといけないかなあ」

 ナーナは袖をまくった。


「あああん、もうちょっとだったのにいいいい」

「うふふ、まだまだだね、マルくん! お姉さんは本気、ちょっとだけしか出してないのよ?」

 くやしがるマルトに勝ちほこるナーナ。ナーナは余裕ぶったセリフだが、実際のところ顔は紅潮して汗もかいているし、かなり必死だったのは一目瞭然だった。序盤にマルトに優勢を取られたのを、なんとかひっくり返したのだ。

 見ていたギャラリーも、息詰まる攻防に決着がつき、ふう、と息をはく。マルトの実力は予想以上。ナーナ相手に本当に接戦を演じて見せた。マスを並べ直して数えやすくする機能がこのゲーム盤にはついていて、それで調べた盤目の数は八百八十三対八百八十一。これだけたくさんのマス目があって、なんとたったの二目差だ。

 マイラと、そしてわかりづらいがサキの顔は、懸念が少し解消した安堵からほころんでいる。希少な白黒二人の言環理師がそろい、護衛任務が困難を増す中、マルトを基礎の基礎からトレーニングしなくてもいいことがわかった。アリスは、とどこおりなくきちんと準備を進めていたのだ。

 それに対して、メイの顔がこわばっている。

 初めてトレーニングすると思っていたマルトが、明らかに自分以上にうまくやっている。実際はマルトはこのゲームに関してはベテランなのだけれど、「トレーニング」という単語がメイの思考をしばっているのだ。メイはマルトが黒の言環理師だという本当のことを知らされておらず、母アリスが将来に備えて準備をしていたのだということがわからない。なので、「初めての」マルトが自分より上手なのは、ただひたすらプレッシャーとなっていた。

 しかし、無邪気なマルトは、そんなメイの気持ちがわからない。

「ねえねえ、今度はメイちゃんやろうよ!」

 いっしょにゲームをしたくて、無垢なおさそい。

「え……あ……」

 先輩なのにへたくそだなあと思われちゃったらどうしようと、メイがうろたえていたところ、助け舟を出したのはマイラだった。

「そしたらさ、せっかく今日はお仕事お休みでいっしょにできるから、私も入れてよ。これ、四人までできるじゃん。タッグ戦をやろう。私がメイと組むよ」

「そしたら、私がマルくんと。マルくん、実はさっきの戦法、私も得意。連携しよう」

「うわ、やばい、強敵だ。メイ、こっち来て。作戦会議だよ!」

 マイラとサキの参戦で、トレーニングはゲームらしいにぎやかさを取りもどした。

 一休みとなったナーナは、今度は観客に回り、はやしたてる役。

 それにしても本当に、マルくんはよく訓練されている。見る立場になって、ナーナはつくづくと思った。

 力の大きさはもう十分に育っている。最初の陣地の取り合いで自分に押し勝ち、今もパワー派のマイラと互角にわたり合っている。メイも、さっきは自分が一番下手だ、どうしようという顔をしていたが、本当に力をつけてきていて、なかなかいい大きさだ。その分サキが押し込まれていて、しぶい顔。

 そこからサキは持ち前の言環理の制御精度の高さで盛り返していくのだが、それに連携していくマルトが、負けずおとらずの精度を見せている。これが本当にすごい。

 力がない設定で育てられたので、言環理の祝詞は一つも教わっておらず、技はまったく使えないみたいだが、その辺りもアリス姉さんは考慮済みなんだな、とナーナは思った。黒の言環理師の性質をふまえた育て方だ。

 黒の言環理は、対言環理師戦闘に特化した力。相手の言環理をぬりつぶしてしまう力だ。攻防一体が特徴だと、歴史書には記されている。相手の術を打ち消した勢いで術者にも届けば、その体内にたくわえられた力までそぎ、肉体的ダメージも与える。

 他の言環理による戦闘の場合、防御は力ずくではね返すか、もしくは効果の相殺。すると、攻撃と防御における効果は、相対する相手と自分の言環理の相性により左右される。また、攻守連動させて使いやすいのは炎の言環理が筆頭で、なので戦闘言環理師には赤の言環理師が多く、結果同色対決が多くなり、膠着状態におちいりやすい。

 そこで黒の言環理師の登場。あっさりすべてをぬりつぶすのだが。

 それが効果の相殺をねらう「術」ではないということが重要だ。純粋に黒の言環理に付随する「力」。つまり、祝詞を言祝(ことほ)ぐ必要がないのである。

 その身から力をあふれさせるだけで効果を発揮する。詠唱の速さや相手の技を見切る技術など関係ない。これが対言環理師戦無敵と言われるゆえんである。

 その性質がわかっていたから、アリスはひたすらマルトの言環理の出力と制御をきたえあげていた。術はいらない。言環理の便利な使い方など後回し。とにかく身を守れるようになることが第一。

 ゲームは中盤に進んでいる。マルト&サキ組は、相手陣地を切り取る連携で、メイ&マイラ組は得意を生かして攻守分担することで、互角の勝負を展開している。それにしても、とナーナは続けて思う。

 マルトの力はなかなかのものだ。なのに、なぜ、何ヵ月もいっしょに暮らしていて、気がつかなかったのだろう。

 言環理は世界を改変する力。なのでその波動が空間を伝わり、言環理師がそれをとらえることができる。

 特にナーナは、その感受性に自信を持っていた。言環理の使用を感じとることができるだけでなく、言環理が立ち上がる波動さえ感じ取って、それに同調し、相手の祝詞に乗っかるように言環理を展開することができた。

 これはナーナの戦闘における取って置きの技。相手に同調し、同じ技を同じタイミングで展開することができる。

 ただ、対戦相手の祝詞に乗ると、言環理の得意不得意で力負けしてしまうことがあり、そこまで万能とは言えない。だが、これを味方に使うと、味方の放つ技と寸分くるいなくまったく同じタイミングで援護ができることになる。ブースターのように、技の威力を倍増することができるのだ。

 そこまで戦闘向きではない緑の言環理師のナーナだったが、この技によってチーム戦では大きな戦力となれる。先陣を切るマイラ、それに同調してマイラの戦闘力を増強するナーナ、その後方から援護をするサキ、というのが、この三人の最強の布陣だ。

 それほどの感受性を持つナーナだからこそ、マルトの持っていた言環理の気配を察知することができなかったというのは不思議だった。

 これだけ大きな力を持っていれば、ふとしたはずみにそれがもれ出すことは十分にある。メイが赤ん坊のころにすぐに言環理師だとわかったのは、ぐずって泣いたり、きゃっきゃと笑ったりするたびに、ふわふわと光の玉がもれ出していたからだ。

 それに対してマルトが赤ん坊のころにその力を見せなかったのは、幼いころにはまだ力が十分に育っていないことの多い言環理師としてはふつう。ただ表向きはかくしながらもトレーニングを積んできた今であれば、メイの赤ん坊のころのように駄々洩れということはないにせよ、完全に気配を消せるかというと難しい。

 特にナーナは、マルトをからかうために始終ベタベタとくっついていた。あの状態であれば、マルトの体の内の言環理の気配を感じてもおかしくなかったのに。

 そこで思い至る。

 何かしら、アリスの技が影響しているはずだ。黒の言環理の気配など、絶対にさとられてはならないのだから、なんらかのしばりを授けてあるのだろう。

 アリスが亡くなった今もそれが機能しているということは、マルト自身の力でマルトの言環理の気配を消すような、暗示か何かをかけているはずだ。

 そう考えていくと、アリスがいかにマルトをかくし通すことに苦心していたのかが、よくわかる。そしてそれは今度は、私たちの課題だ。

 そんなことを考えているうちに、ゲームは最終局面をむかえていた。

「わあああ、待って! 待って!」

「待つわけないよー! メイ、今だよ! やっちまいな!」

「うん!」

 技のさえを見せるマルト&サキ組に対して、攻守分担していたのがマイラ&メイ組。マイラは自陣の防御をほとんど気にせず、相手への攻撃に大部分の時間を使った。逆にメイは防御重視。陣地に自分の力を注ぎ込み、けずり取らせないことに集中していた。

 そしてそこでのまず一つ目のポイントは、マイラがメイに自分の陣地を明けわたしていたことだった。陣地を強化せず、攻撃の最前線だけを引き受けて、弱った後背地をメイに侵食させる。その結果、現在、陣地が最大なのはメイ。最小がマイラ。合計ではメイ&マイラ組が若干のリードとなっている。このメンバーの中で、メイだけが三十秒という時間制限にまだ慣れず苦しんでいるのだが、やることを単純にすることで、その不利を消した。これが分業の効果だ。

 そしてもう一つのポイントは、ターンの順番だった。このゲームは、最初の陣地取りでターンの一番手が決まる。一番小さい人が先攻。陣地の不利がいきなり拡大しないようにするためだ。そしてこの試合はタッグ戦なので、交互に順番が回ってくるようになっていた。サキ、メイ、マルト、マイラの順だった。

 さて、ここで、マイラが立てた作戦が、隙を突いての捨て身の全力攻撃。

 攻守分担で少しずつ領地を拡大。しかしねらっていたのは別のこと。

 マルトの順が終わり、マイラのターンが来た。ここでマイラはマルトの領地に渾身のくさびを打った。

「えええええ?」

 マルトがおどろくほどの勢いで、マルトの領地に分け入っていく。それはマルトの岸、手前まで届いた。あと少しで、マルトの負けだ。

 ここでマイラの真意に気づいてあわてたのが、次の順のサキだ。

 味方とはいえ、相手の領地にもぐり込むには、相手の言環理を押しのけるための相応の圧力が必要だ。マイラの領地を後方からメイがどんどん引き継いでいるのは、マイラがわざと最前線にだけ力を込めて、後方の圧力をゆるめているからだ。

 ところが、マルトはふつうに、全領域に防御のための言環理を注入している。なのでサキがマルトの領地に入っていくには、それなりの困難がある。

 マイラはサキの領地とははなれた側で、マルトの領地にくさびを打ち込んだ。もう一度打てば、マルトの岸まで届く。これを防ぐためには打ち込まれたマイラのくさびを押し返さなければいけない。

 ところがサキはパワー派ではなく技巧派だ。マルトの言環理の圧力を押しのけて、さらにマイラのくさびを押し返すには馬力が足りない。このターンではサキの援軍は間に合わないのだ。

 サキは時間いっぱいを使って、となり合うメイの陣地に一か八かの特攻をかける。波間をぬって、いきなりメイの岸に届く飛び地を作ろうとした。しかし、メイの陣地は防御重視で十分に言環理がつめ込まれている。その圧をはね返し、はなれた場所に飛び地を作るには三十秒では足りなかった。

「わあああ、だめ、だめ、やめてえええ!」

 マルトは顔面蒼白。メイが千載一遇のチャンスに力を込める。

 打ち込んだくさびの中央、マイラがわざと圧を落としてくれていた花道に力を注ぐ。マイラの赤が、メイの黄色に置きかわっていく。先端の部分はマイラの圧が高い。そしてその先に、マルトの力が込められているマスが、あと二列。

 さあ、ここで、メイの力の見せ所だ。マイラの赤をもぬりつぶしかねないほど育ってきたメイの言環理の力。まず、くさび先端が黄色に変わる。そしてマルトの言環理を押しのけはじめた。

 まず一マス色が変わる。残り時間はあと五秒。四、三、二……。最後のコマでせめぎ合う、マルトとメイの言環理の力。

 一。メイの黄色が、マルトの岸へと届いた。

「んっ!」

「やった、メイ! お見事!」

「うわああああん! 負けたあああああ!」

 込めた力の残滓と勝利の喜びが、メイの頬を赤く染めている。マルトはくやしさにテーブルに突っ伏する。そこにマイラの追い打ち。

「ふっふっふ、マルくんは確かにアリス姉さんとずっとこれで遊んでいたから実力はなかなかだけれど、いつも二人だったのが弱点だね。チーム戦にはチーム戦の戦い方というのがあるのだよ」

「ひどいよ、マイラ! ぼくこれで二連敗だよ!」

 涙目でむきになっているマルくんかわいい。大人三人はちょっとほっこり。そこで素早く反応したのはマイラ。

「ごめんねマルくん。そしたら今度は味方になってあげるよ。次は勝とうね」

 きゅっと抱きしめて、よしよしと頭をなでる。しまった、なぐさめるには絶好のポジションだったのに出遅れたと、いつも無表情なサキの苦い顔。ほんとにくやんでいる模様。ナーナはそれを見て苦笑いしつつ、サキと席を変わる。

「それじゃ、今度は私とメイが組むね。この調子で続けましょう」

「今度は負けないよ!」

「その意気だよ!」

 初戦敗戦の相手とまためぐり合い、マルトは雪辱をちかう。それをマイラがあおりたてる。にぎやかにゲームは続いた。

 ただ、表面上は楽しげだが、その裏には複雑な思いがあった。マルトとメイの相手をしながら、ナーナたち三人は、アリスの思いをたどっていた。

 むきになって戦うマルくんはかわいかった。真面目なメイがちょっとずつ自信をつけて行く様子は微笑ましかった。ただ、それを堪能している場合ではない理由も、三人は忘れていなかった。

 アリスの手によってマルトの基礎トレーニングが進んでいたのは朗報だったが、それでも、まだ自分の身を守るには足りない。メイもここまで順調に進んできていたけれど、いっそうペースを上げなくてはいけない。子供には内心のあせりを見せずに相手をするのは、けっこう大変だ。深刻な動機を表に出さず、楽しさを装うのはなかなか疲れる。

 特にアリスはマルトに言環理のトレーニングであることを伝えず、遊びとして行っていたのだから、この苦労はひとしおだっただろう。

 三人は、アリス姉さんもこうして、マルくんを見て微笑みながら、同時に心配もしていたのかなと、思いをはせる。

 そうして思いを引き継ぐこと、思いを引き継げることの喜びと苦しみを、心の内でかみしめる。

 トレーニングは続いた。

 チーム戦の要領をマルトはだんだんつかみ始めて、戦績は向上。この面でのマルトの素質も、なかなかのものだ。

 そしてここでも、メイにとってのマルトの存在は大きかった。いつも年上三人と行っていたので、どこかお味噌気分で負けても仕方ないと思っている節がメイにはあったが、同年代のマルトがいることで、先輩としてみっともないところは見せられないと、集中力が一段上がっている。いつもより技がさえてきた。

 そんな時。

 からん、からん。

 店の扉の開く音がした。

「あら、お客さん」

 表の店は閉めておらず、ゲームから外れている人が順に対応することになっていた。今はナーナの番。

「いらっしゃいませー」

 声をかけながら、ぱたぱたと店先へ向かう。

「お待たせしました……あ!」

 そこにいたのは、意外な人物だった。

 いかつい顔にそり上げた頭、その迫力に見合うがっしりとした体つき。だが身にまとうローブと、額の紋章が、彼が聖職者であると告げていた。


「そろそろ気がついたころかと思ってな」


 彼はジョージ・ハクストン。ハービル修道院の長にして、子供たちに慈愛を注ぐ皆の父。

 そして、今となってはただ一人、事の真相を知る人物。


〈続く〉

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