第9話 マルくんとナーナママの愛憎
エイバル・ロジェスは、ロードフォート派の白の言環理師(ことわりし)である。
日に焼けた肌に、むぞうさに散らかる黒髪。大きい、つり上がった目。大きな口には、もはや牙と呼びたい八重歯がのぞく。不敵な表情と、一見だらしなく見えてその実すきのないしなやかな身のこなしが、エイバルにネコ科肉食獣、例えるなら豹のような印象を与えている。
獰猛で、それでいて相手をじっと待ち構えるねばり強さと狡猾さ。
その印象はまちがっていない。実際エイバルはそういう人物だった。
それは生来の性格と、そして育ちによるものだ。言環理師によく見かけられるように、エイバルもまた、戦災孤児であった。一度、ハービル修道院に連なる会派の孤児院に収容されたことがある。もし、エイバルが素直でおとなしい性格であれば、言環理師の才のあった彼は、ハービル修道院へと送られ、修道院派には白の言環理師が二人、ということになっただろう。
だがエイバルはおとなしい性格とはとても言えず、またその孤児院の長はジョージ・ハクストンのように子供に慈愛を注ぐタイプでもなかった。劣悪な環境に嫌気が差したエイバルは、院をぬけ出し路上に暮らす浮浪児となった。
それは彼にとってはたいしたことではなかった。飲んだくれて暴力を振るう父親の支配していた元の家庭でも、状況は似たようなものだったからだ。
そして路上暮らしで流れ流れてたどり着いたロードフォート領で、言環理師の才能を見いだされ、屋敷にむかえられることとなる。
したたかな彼が、自分の才能が武器になることに気づくまでは、ほんの数刻であった。屋敷に来た時点で、自分の存在がこの家に利益をもたらすこと、それが自分の立場を強くすることに気づいていた。
ロードフォート家は弱小派閥で、人材にもとぼしかった。そんな屋敷を掌握するには、そう長くかからなかった。
ただし、それが現在は悩みの種となっている。
(まったく、このジジイどもの臆病さは何とかならねえもんかね)
自分の言葉におびえたような表情を見せる周囲の様子は、エイバルをいらつかせた。いつもそうだ。白の言環理師を手に入れ、覇権に手が届くかもしれないというのに、ためらってばかりいる。
エイバルはその育ちからして、強い上昇志向を持っている。この国の実権をにぎることができるかもしれない時に、ためらう気持ちがまったくわからない。
しかも、ライバルの白の言環理師たちは、エイバルの目から見ればくみしやすい。言環理の色が白だというだけで、二人ともおとなしい少女。性格的に戦える人間だとは思えない。
それにエイバルには、白という色だけでなく、もう一つ、他の言環理師にはない戦闘向きの特性がある。戦闘能力では、国内最強を争うのだ。
白の言環理師が乱立する時代は乱世になるという。だとすれば、その中で生き残るのは自分だ。ひ弱な少女たちではない。むしろ、言環理師の現トップ、灰の言環理師グレン・ファレルの方が強敵だろう。
じゃまな存在だった他の白の言環理師を排除するのに、今の混沌とし始めている状況は、好都合に思える。もっとかき回し、混沌を極め、すきを突いて二人を殺してしまえばよい。
弱肉強食の世界で育ったエイバル・ロジェスは人を殺める事にもためらいを覚えない。
まさしく印象通りの肉食獣であった。
これからのおのれの運命を知ってか知らずか、そのものたちは行儀よく並んでいた。
その前に、これからそのものたちを刹那のうちに切りさく処刑人が立っている。
お行儀よく、まな板の上に並んでいるのはニンジンさん。
その前に立つのは、ナーナ。
みんなの朝食を作るところだった。
淡く波打つ長い髪を後ろでゆるくまとめて、明るい色のブラウスにふわりとしたロングスカート、そして白いエプロン。全体的に明るい色調が、台所の窓から入る日差しによく映える。家の中ではだらしないかっこうをしていたりするナーナだが、こういうきちんとした家庭的な雰囲気もよく似合う。やわらかな面差しでまな板の前に立つ姿は、若いお母さんといったふう。
さて、「刹那のうちに切りさく処刑」とは、こういうことだ。
ほほえみを浮かべながらナーナは、並んだニンジンの上にその手をかざす。
「ファンデルワールスとムーアの名においてお言環理します。小さきものの集う力。小さきものの結びゆく力。其を解き放ち、錨を上げ、間隙を穿ち、幾多のものへと分かれさせ給え」
一瞬、手元に光の泡が現れ、すぐさまぱちんとはじけた。
そこでナーナがすいっとなでると、まるで手品のように、並んでいたニンジンがパラパラと断片に分かれる。
言環理の力によって切断したのだ。
ぱっと見ているだけでは簡単そうに見える術だが、その実、高度な技術が仕込まれている。それが現れているのが、小さなさいの目にそろえられたニンジンのきれいな形だ。
料理にも使える切断の言環理。というより、切断の言環理のトレーニングのために、料理がよく使われる。まず一番簡単な最初に学ぶ術は、すとんと半分に切ること。切断面は一つ。この時点では言環理を言祝ぐ(ことほぐ)分、包丁で切った方が断然速い。
次にレベルを上げて、輪切りを習う。一度の言環理で複数の切れ目を入れる。この辺りで、包丁を使うふつうの調理の速度に追いつく。
そして今、ナーナが見せたように、複数方向からの切れ目を入れて一気にねらった形にするのは、より高度な技術だ。ここまでくると、調理時間は相当に短縮される。
さらにナーナは、ニンジンの部位で太さがちがうことも考慮に入れて、切り分ける数も場所により変えている。さいの目に切るためには、前後、左右、上下の三方向すべてから切れ目を入れる必要がある。その際、先端の細いところから根元まで、太さに応じて切れ目の数を変え、断片がみんなだいたい同じ大きさになるようにしてある。こうすることによって、ニンジンへの火の通りが均一になり、おいしさにつながる。
だが、そのためには、一度にかなりの数の切れ目を、しかも正確な位置に入れなければいけない。確かに言環理を使えば時間短縮になる。しかし、それには高度な修練が必要なのだ。
それを身をもって知っている子が、やって来た。
「おはようー。うわあ、あいかわらず、すごいね、ナーナ」
あいさつの後、感心した声を上げたのはメイ。台所に入ってきて、ナーナのとなりに立ち、手元のニンジンの様子をのぞき込んでいる。言環理修行中のメイには、ニンジンのきれいな形が、難しい術を使いこなしている成果だということが、よくわかる。一つ取り上げて、どうしたらこんなにきれいに切れるのかなと、その断面を食い入るようにながめている。
「おはよう、メイ」
ナーナはかがみこんで、そんな生真面目さんのメイの頬に、おはようのキスをした。
メイは大人が起こさずとも自分で起きてこれる、えらい子だ。ナーナより先に起きて、朝食のしたくにかかっていることもしばしばある。
(こういうところを、マイラは見習ってほしいわ)
お手伝いしようと自分もエプロンを着け始めたメイをながめながら、さっぱり姿を見せない大人の姿にナーナはため息をつく。そう思うのも無理はない。ふだんマイラが先に起きて朝ごはんのしたくをしていることなど、ほぼない。とにかく朝に弱いのだ。あまりの遅さに起こしに行ってもなかなか起きず、ようやく起きてきたかと思えば、寝ぼけなまこで着くずれした、だらしないかっこうのまま降りてくる。
それでいて、仕事に遅刻しそうになれば「なんでもっと早く起こしてくれなかったの!」と八つ当たりすることもしばしばだ。まったく、メイとどちらが大人なのか、わかったものじゃない。
サキはそんなことはなく、先に起きて朝食を用意してくれるメンバーの一人なのだが、今日はまだだ。昨日は寝る前に何か思いついたらしくて、研究室にもどり何やらごそごそとやっていた。たぶん遅くにベッドに入っただろうから、もう少し寝かしておいてあげようとナーナは考えた。
さあ、すると起こさなくてはいけないのは、二人。
そう考えて、ナーナの心はふわりと浮き立つ。
「じゃあ、メイ。ここで交代してくれる? マイラと、マルくんを起こしてくるわ」
「うん」
明るい声でメイに料理を引き継ぐ。メイがうなずいて、場所を開けたナーナの代わりにまな板の前に立ち……
「あ、ちょっと待って」
包丁を手に取ったところで、ナーナが止めた。
「メイ、今日から包丁禁止ね」
「えっ!」
「だいぶ言環理がうまくなってきたから、もうそれでお料理するようにしなさい。重ねがけはまだ難しいから、オーブンは使っていいけど、スープの加熱もコンロを使わないでね」
「でも……」
メイはまな板の向こうに用意されている食材に目をやった。
ニンジンはもうナーナが切った。他にタマネギと塊肉のベーコンが用意されている。ニンジンがさいの目に切られているということは、具材は細かく、小さく切って大きさをそろえる予定だったのだろう。朝ごはんなので、ごろりとした食べ応えよりも、消化がいいことに配慮したレシピだ。
ベーコンは何とかなる。一度で等間隔に切るところまではできるようになっているので、二、三手に分ければ、ちょうどいい大きさにできるだろう。
問題はタマネギだ。
タマネギを小さなさいの目に切りそろえる。いつものように包丁でやるのなら半分に割り、それを切断面を下にして置いて、まず水平に切れ目を入れる。そして次に縦に切れ目を入れる。切りはなしてしまわないのがコツだ。あとは輪切りにしてやると、もともと鱗片で分かれているタマネギは、細かい角切りになる。
包丁でやるならまったく問題なくこなせる。ただ、それを言環理で再現するのは難しい。ねらった所で正確に切れ目を止めないといけないからだ。
根元を残して完全に切りはなさないようにするのは、タマネギをばらばらにせず、手でそろえる手間を減らすための工夫だ。それがきちんと言環理でできるかどうか。ばらばらにしてしまって、手でそろえ、押さえておくことになった場合、ねらった所で止められない腕前では、今度はその手ごと切りかねない。そこを気にして押さえずに、またばらばらになれば、細かくなるにしたがって、次を整えるのに大幅に手間がかかる。
実は食材の切断に使う言環理には主に二種類ある。メイが多少なりともうまく使えるのは、細い空気の刃を作って切る方法。感覚的には刃物で切るのと同じだ。ただ、術の繊細さは包丁さばきにおよんでいない。ねらった所で止められるかどうか、自信がない。
それに対して、ナーナが使っていたのは、切るというより、分割する方法だ。物質自体の接合する力をなくして、ねらった面で分ける。力の効果の範囲を先にしっかり決められるので、手を切る心配もなく、使いこなせればこちらの方が正確だ。
そして、こちらの言環理の方が難しいのである。
そんなメイの悩みをナーナは正確に読み取っていた。そしてそのうえで、優しく声をかける。
「大丈夫、もうできるよ。自信もって」
はげまされて、メイは一瞬とまどう表情を見せたが、だがすぐに意を決して、うなずいた。
タマネギを前に、メイが言環理を唱える。まず縦に半分。これはいつもの言環理だ。その半分をまな板に置き、次に唱えるのは。
「ファンデルワールスとムーアの名においてお言環理します。小さきものの集う力。小さきものの結びゆく力。其を解き放ち、錨を上げ……」
ナーナと同じ、物質分割の言環理。挑戦することにしたようだ。
ナーナはそれをほほえましく見つめ、そして台所をはなれる。
マルトによってすっかり自信をつけたメイ。唱える様子からそれがわかる。だいぶ力も伸びているようだ。言環理の力を測定する検査水晶は、そろそろ届くんだっけ。
ちなみにこののち、せっかくみがいた包丁さばきを封印するのはおしいと考えたメイは、包丁を使いながら言環理を言祝ぎ、二つの下ごしらえを同時に行って、ふつうの言環理使いのさらに倍速を達成、という超高等技術を身に着けるのだが、それはもう少し先のお話である。
さあ、これで朝ごはんはいいとして、私はねぼすけさんたちを起こさないと。ナーナは、はずむ足取りで階段を上がる。まず先にマイラの寝室だ。勢いよく扉を開け、声をかける。
「マイラ、朝だよ。ごはんできるよ。起きて」
毎度のことだが、一度声がかかったぐらいでは、マイラは起きる気配がない。気持ちよさそうに高いびきである。
ちなみに子供のころから寝相は悪く、今も体がななめになっていて、片足がちょろっと布団からはみ出している。いつもと変わらぬその姿にナーナはまた一つため息をつくと、ベッドサイドに歩みを進め、その肩をゆする。
「ほら、マイラ、起きて」
「ううーん……もうちょっと……」
「ほら、そんなこと言ってないで」
「だいじょーぶ……今日は仕事ないから……むにゃ……」
仕事がないとか、そういう問題ではない。朝ごはんに起こさないと、今度は食事が冷めていておいしくないと文句を言うのである。めんどくさいのだ。
ほんとにもう、私はあなたのお母さんじゃないんだぞ。
ナーナは強硬手段に出ることにする。
「ガリレイとニュートンの名においてお言環理します。全てを纏め、形作る力。空を歪ませ、引きゆく力。其を絞り巡らせ、我に自由を与え給え」
光の泡が布団を包む。すると布団は重さを失ったように、ふわりとめくれ上がった。ナーナは窓に手をかけて、ガラス窓もよろい戸も開く。ぴゅうとふきこんだ朝の冷たい風が、かろうじてマイラの上に留まっていた布団をするするとはぎ取り、部屋のすみへと運ぶ。
「ちょ、何するのナーナ!」
「はやく起きないと、風邪ひくよー」
ナーナはしたり顔でマイラを見下ろす。こうなってしまうと、窓を閉め、布団を解祝しないと、もう一度くるまることはできない。つまり、いやでも一度起きないといけないのだ。
「ひどいよ、何この雑なあつかい」
マイラは、はだけておへそが出ていた寝間着をもどしながら、文句を言う。
だが、それはナーナにとっては当然。マイラなんかに手間をかけている場合ではない。何しろこの後がお楽しみ。浮き立つ心もはずむ足取りも、この後の朝のメインイベントのためなのだ。
ぶうぶう文句を言うマイラを捨ておいて、マルトを起こしにとなりの部屋へ向かう。
マルトもマイラほどではないが朝は弱い方だ。このあいだまでは食事のしたくを全部押し付けられていたのでがんばって起きてきたけれど、それがなくなってからは元通り。すっかり朝寝坊となっている。
けれどナーナにはそれを責める気はまったくなかった。
ねぼすけマルくんが、かわいかったからだ。
寝ぼけたマイラをかわいいだなんて全然思わないけれど、マルくんだったら寝顔も、起きたての寝ぼけ顔も、とってもかわいい。早起きは三文の徳というが、それを見ることができるのは三文では済まないお得な役割。実際、マルトが来てから、ナーナはその役を逃すまいと、ちょっと早起きになっているぐらいだ。早起きの鳥は虫を捕らえる。朝の時間は口の中に黄金。世界は早起きする人のもの。
そしてかわいいだけではない。寝ぼけたマルくんは、からかった時にとてもいい反応をしてくれる。真っ赤になって目を真ん丸にして、あわあわとしてこちらを見上げている顔は最高だ。今日はどんな意地悪しようかしら。
ナーナはうきうきとマルトの寝室へと向かった。
いじわるすることを楽しみだなんて、性格が悪く聞こえる話だが、これにはちょっとした事情がある。
ナーナはマルトのことが大好きだ。
だが同時に、ほんのりにくらしくもあった。
それはアリスの息子だから。
アリスとは仲はよかった。大好きだった。
だが同時にロイも大好きだった。愛していたのだ。初恋だった。
その彼をアリスにうばわれたのだ。
その日のことを、ナーナは鮮明に覚えている。
「ナーナ、私ね、今度ロイと結婚することになったの」
「えっ」
アリスの突然の告白があったのは、夕食のあと、二人で並んで、食器を洗っていた時のことだった。
ナーナの手元で食器がふれあい鳴っていたカチャカチャという音が、ぴたりと止まる。心臓を包むようなひやりとした感覚は、指先にふれる水の冷たさのせいだけではなかった。今その手に持つ皿を取り落とさないようにするのに、ナーナは強い意志の力を必要とした。
いつか来るとわかってたことじゃない。自分自身に言い聞かせる。
笑わなくちゃ……。
笑わなくちゃ……。
笑って、お祝いの言葉を言わなくちゃ……。
永遠とも思える刹那の逡巡ののち、ナーナは言葉をしぼり出した。
「……そっ、そうなの。素敵! よかったね! おめでとう!」
「……ありがとう」
うまく笑えただろうか。ナーナには自信がない。
アリスはそんなナーナをぎゅっと抱きしめた。
「ナーナも、いつかそういう人が現れるよ」
「……うん」
多分アリスは、わかっている。
ナーナの気持ちに、気づいている。
ナーナを抱きしめる腕から、それが伝わる。
それを知っていたアリスも、ナーナ同様に悩んだだろう。優しい姉のことだ。ナーナを押しのけて自分がという気持ちには、なれなかったにちがいない。今だって、二人きりの時にみんなより先に、まず最初に打ち明けてくれたのは、ナーナの気持ちをおもんばかってのことだろう。
けれど妹に優しい姉だとしても、ナーナ自身もそうだったように、恋心はそう簡単に消したり点けたりできるような、あつかいが簡単な物じゃない。アリスとナーナ、おたがいのことを想いやりながら、それでもふき消してしまうことができない炎。
結局は、ロイがアリスを選んだ。それがすべてだ。
片付け物が終わって、みんなのいる居間にもどる。
「みなさんに、大切なお知らせがあります」
もどってきたアリスのもとへとロイがやってきて、その肩を抱きながら、緊張した声色で告げる。
何事かと二人を見つめる子供たちは、やがてわっと歓声を上げ、二人を祝福するために走り寄ってきた。
それを戸口からながめて、ナーナも祝福の拍手を送る。
精一杯の祝福の笑みを、その顔に張り付けながら。
やがて喧騒がおさまり、みんなが床に就いたころ。
ナーナは一人、みんなの寝息の中で枕をぬらした。
大きな声では泣けない。孤児院は大家族のようなもの。一人一部屋のような贅沢はできない。この部屋にも、マイラ、サキの他、いっしょに寝ている子供たちがいる。
部屋に押し込められた三段ベッドで、小さい子供たちは団子になって丸まっている。もう大きくなったからと一段を一人で使えているナーナはいい方だ。壁の方を向き声を殺せば、他の人には気取られない。
ロイに恋心を抱いたのは年頃になってからだが、その種がまかれたのは、多分最初に出会った時だ。
ナーナは赤ん坊のころに、戦禍にのまれ、両親を失った。当時辺境の地では隣国との紛争が絶えず、引き取られた孤児院までもが、その後また争いに巻き込まれた。
最初の時の記憶はないが、二度目の戦場の様子は覚えている。
真っ赤に燃える街並み。せまる火の手。おびえて物陰にかくれた幼いナーナは、逃げる大人たちに見落とされ、取り残されてしまった。
誰もいなくなった孤児院で、ナーナはか細い声で助けを呼んだ。
だが、答えてくれる声はなかった。
「せんせえー、どこーシスター? だれかあー」
泣きじゃくりながら建物の中を探す。
表からは大きな爆発音。時折かけていく騎兵の蹄の音と、激しくののしる怒声。おそわれた女性の、助けを求める悲鳴。
「だれかあー、だれか……おいてかないでようー……」
火の手がせまり、施設の中でも煙が立ち上り始めた。
外に逃げなくてはと思った時には遅かった。扉の向こうではぱちぱちと炎のはぜる音。この部屋の窓は高い位置にあって、幼いナーナの背では届かない。もう逃げられない。
パニックにおそわれ、大きな声で泣き始める。だがやはり、その声に応える人はいない。
火が建物に回り、壁の板の間から、炎の蛇がその赤い舌をちらちらと見せながら、幼い獲物にはい寄り始めた。充満する煙を吸い込んでしまい、けほけほとナーナはせき込む。炎が回り、安普請の屋根が一部、がらりと焼け落ちてきた時。
「トリチェリとオイラーの名においてお言環理します! 高き力、低き力、その狭間を流れ、澱み、荒ぶり、全てを巻き込み吹き飛ばし給え!」
力強い、言環理を言祝ぐ声がしたかと思うと、ものすごい突風が、扉も辺りの炎もふきはらった。
炎がまるで道をゆずったかのように、さあっと開ける。
そこをかけてきた少年がロイだった。
たまたまハービル修道院の一行についてこの街の教会に来ていて、この紛争に巻き込まれ、大人の言環理師といっしょに街の人たちの避難を手伝っていた。当時のロイは今のマルトより少し上ぐらいの年だったが、すでに大人顔負けの言環理の力を持っていたので、救助を手伝っていたのだ。
「大丈夫?」
ここまでの苦労をしのばせるすすけた顔をぬぐいながら、でもそんなことは感じさせない優しいまなざしで手を差し伸べてくれたロイの姿は、今でもナーナの脳裏に焼き付いていて、鮮明に思い出せる。
この瞬間から、ロイはナーナにとって特別な人となった。
助けられたナーナは、言環理の才を認められ、ハービル修道院で暮らすことになった。その時からずっとそばにいる、大好きなお兄ちゃん。大好きの中身は、ナーナが大きくなるにつれて少しずつ変わっていき、やがてそれを恋だと気づいた。そんな特別な人だったから、ナーナにとってロイは運命の人で、これは運命の恋だった。
ただ、残念なことに、ロイにとってはちがったのだ。
そのことに、ナーナは薄々感づいていた。自分がロイを見つめる時と同じ熱を、ロイとアリス、二人が交わす視線の中に感じていたから。
でもわかっていたって、それが決定的となった悲しみが和らぐわけではなかった。
ナーナは泣いた。
一晩中、眠ることができず、ナーナはただ、涙を流し続けた。
そんな思いを抱えているので、マルトの存在はナーナにとって、最初から複雑だった。
「わあ、かわいいー」
生まれたマルトは修道院のアイドルとなった。母になったアリスを取り囲み、その腕に抱かれる赤ちゃんをみんながほめそやした。
けれどナーナはそう思えなかった。
一応その輪の中にいて、称賛の言葉を口にはしたけれど、やはり気持ちの底に残るものがじゃまをしていたのだろう。全然かわいくない。しわくちゃで、真っ赤な顔をしたおさるさん。素でそんなふうに思ってしまった。
ところが、ある日のこと。
マイラとサキがマルトの寝ているベッドをのぞき込みながら、きゃあきゃあとはしゃいでいた。
「どうしたの?」
「あっ、ナーナ! 見て見て! マルくん笑うんだよ!」
興奮が覚めやらぬ様子で、マイラが手まねきする。いつも表情にとぼしいサキまでも、顔を赤らめ、うっとりとしている。どうやら、それまできょとんとしているか泣くかばかりだったマルトが、笑うようになったらしい。
どれどれとナーナがのぞき込むと。
ナーナに気づいたマルトが、まっすぐこちらを見つめ。
やがて、ふわあっと、顔いっぱいに笑みを広げた。
「!」
その笑顔に、ナーナは息をのむ。
胸が、きゅうっと音をたてた気がした。
そのあと、そのきゅうっと収縮した胸の中心から、マルトの笑みが広がったのと同じように、暖かさが、愛しさが、ふわあっと身体中に広がっていった。
ロイとの出会いを運命的だったと感じていたが、ナーナはこの時、それに負けない出会いをマルトとの間に感じた。あの初めての笑顔が脳裏をはなれない。また見たくて、何度もベッドをのぞきこんでしまう。
それからはナーナはマルトにぞっこんだった。どんどんと目元がぱっちりしてきて、どんどんと笑顔がかわいくなっていく。他の人に負けずおとらず、いや、もしかしたら両親にさえ負けず、ナーナはマルトを愛しいと思うようになっていった。
ぱっちりしたおめめ、血色の良いぷくぷくしたほっぺ。こちらを見て笑い返してくれるその表情にいろいろバリエーションが出てくるようになると、もうそばにべったりくっつくほど夢中になった。
ハービル修道院に併設された孤児院には、言環理の力を持った子が集められている。小さい時に力が認められてやって来る子はいるが、生まれたての赤ちゃんはほぼ来ない。
ナーナにとっては、初めての赤ちゃん。
彼女の心をいやす無垢な天使。
そう、ナーナの心の底にはにごりがあった。幸せそうな二人を見ると、やはり心の奥底にチクリと痛みが走った。
アリスだって、大切な姉だ。アリスはお世話好きな面倒見のいい性格だったので、ナーナら妹たちの面倒を、小さいころから本当に親身になってしてくれていた。単に、同じ孤児院で暮らしている疑似家族だから姉と呼んでいるのではなく、いつもそばにいてくれる、優しくて大好きなお姉ちゃんだった。
特にナーナは、三人の中でも一番アリスにべったりくっついていた。髪色が同じで、風貌にも似たところがあるので、本当の姉妹のようだと言われることに、無上の喜びを感じていた。
だから、本当は自分が一番、アリスの幸せを祝福しなくてはいけないのに。
なのに、気持ちを切り替えて喜んであげることができない。
そんな自分が、ナーナはいやだった。
その時、まるでナーナの気持ちがわかっているかのように、マルトは笑う。
にっこりと、無垢な笑みで、ナーナを見つめる。
ささくれだったナーナの心を、そっと優しくなでつけるように。
わき上がるナーナの悲しみを、そっと優しくぬぐうかのように。
やがて孤児院には二人目の赤ちゃん、メイもやってきた。二人がお行儀よく並んで寝ている様子は、本当にかわいらしかった。ナーナは一生懸命二人のお世話を買って出た。
まるでそれがナーナの罪を贖うかのように。
ナーナに許しを与えるかのように、二人は笑う。
ナーナに癒しを与えるかのように、二人は小さな手をいっぱいに伸ばして、ナーナを包む。
けれど、その優しい贖罪の日々は、メイの白の言環理発覚とともに終わりを告げた。
ロイとアリスの幸せな家庭も、終わりを告げた。
メイを助けるために、まだ少女だったナーナたち三人も、戦力としてロイとともに辺境へと向かった。
マルトを災いから遠ざけるために、アリスは母子二人で、辺境へと向かった。
それからの年月、ナーナは日々の生活と極秘の任務に追われ、あの葛藤を思い出すことはなかった。
だがロイに続きアリスも亡くなり、マルトを引き取りに行った時。
アリスによく似たマルトの風貌に、哀しみにぬりつぶされた心の片すみに、ぽつりとあのころのにごりが浮かび上がった。
大好きなアリス姉さんによく似ている。
私から兄さんをうばったアリス姉さんによく似ている。
なので、ついついからかっていじめてしまうのだ。大好きな気持ちと一点のくもりがそうさせる。
しかし相手も強敵だ。
とにかくかわいい。
この間、寝ぼけてお母さんと呼ばれた時。
あの笑顔は反則だ。
だってあれは最終兵器。
ナーナの心をつかんだ、あの赤ちゃんの時と同じ笑顔なんだから。
さらにお母さんが禁句ではなくなっていると気づいて、自分のことを「ナーナママ」とか言った事に至っては、完全に自爆だった。
その時はからかえて楽しかったのだが、後になって、「あれ? 私がママって、もしかして兄さんとの恋が実っていたら、マルくんは私の子?」などと、おかしな妄想までわきだしてきた。もし結婚したらなんて、そんな恥ずかしい妄想は、あの多感な少女時代以来のものだ。むしろ恥ずかし過ぎて、永遠に封印しておきたい黒歴史なのだ。
また、マルトがアリスによく似ているのもいけない。
ナーナとアリスは、血がつながっていないのに、実の姉妹とまちがえられた。マルトとナーナもどこか似ていて、母子に見えないこともない。
小さなあの赤ちゃんが自分の子供で、自分がお腹を痛めて産んで、自分がおっぱいあげて……。
小さなかわいいマルくんが、一生懸命胸に吸い付いているのを、自分がそっと抱いている……。
そんな光景を想像していたナーナは、あわててぶんぶんと首を振って、それを頭から追い出した。
いけない、あのころよりも妄想のレベルが上がっているかもしれない。
深呼吸して、頬の火照りを落ち着けて、マルトの寝室の扉をそっと開ける。
起こさないようにそっと足音を立てず、静かにベッドサイドに歩み寄る。
起こしにきたのに起こさないようにと配慮している時点で、大きく矛盾しているのだが、そこは気にしない。
だって本当の目的はちがうのだから。
その目的のマルトの寝顔を、じっと見下ろす。
やばい。
寝顔天使。
だいぶ大きくなったけれど、マルトの寝顔はあの赤ちゃんの時と同じく無垢で、ナーナの心をいやしてくれる。
額にかかる前髪をそっとかきあげる。
「ん……」
もぞもぞとみじろぎして、むにゃむにゃと口元が動く。
かわいい。
どきどきする。
もうわき上がる愛しさをおさえきれず、そっと顔を寄せて、額に口づける。
「……ん……へ、あ、な、何?」
目を覚ましたマルトは、すぐそばにあったナーナの顔におどろいた様子。
ナーナはもう一度身をかがめてナルトの頬にキスする。
「おはよう、マルくん」
そして両手をすっと広げる。
「何?」
「ナーナママにもおはようのキスして?」
「ち! ちがうでしょ! お母さんじゃないし! ママでもないし!」
あわてるマルト。真っ赤になって目を真ん丸にして、あわあわとしてこちらを見上げている。それこそ、ナーナが求めていたものだ。
でも、いつもであれば、いたずら成功と楽しむところが、今日は少しちがった。
そういう気持ちもあるのだが、拒絶されたことがなんだか悲しい。
「マルくんは、私じゃいやなの? 私のこときらい?」
「え、ち、ちがうよ」
「じゃあ、なんでキスしてくれないの?」
だまされてはいけない。これはいつものからかいのはず。あわてながらもマルトはそう思ったが、ナーナの顔を見ていると、つい本当に悲しんでいるのではないかと心配になってくる。
以前であれば、それはナーナの演技力にやられてしまったということなのだが、この日はまちがいではなかった。
この間もそうだった。マイラのことをマルトが心配して抱き着いた時、ナーナは初めて自分をナーナママと呼んだのだが、そこでもいやがられて悲しくなった。
本当にこれは自爆ワードだ。ママはマルくんのこと大好きなのにと、自己暗示がかかってしまう。とらわれた妄想とはいえ、それぐらいマルトが愛おしいのは本心なのだから、その悲しそうな顔の破壊力も増大する。
マルトは、あーうーと散々ためらったあげく、思い切ってナーナに抱きつくと、大急ぎで頬にキスをした。
ばたばたと飛び出していくマルトを見送り、ナーナはそのキスされたあとをそっと押さえて、幸せをかみしめる。
(あーもーおかしいな、こんなはずじゃなかったのに)
そう思いながらもにやけてしまうのは止められない。
「ふああ……、もう、ナーナがお布団に言環理なんてかけるから、起きぬけから解祝なんてしなくちゃいけなくて大変……。あれ、どうしたの、ナーナ」
階段でいっしょになったマイラが、ナーナの表情に気づいた。
「ちょっと、マルくん! ナーナだけずるい! 私もしてほしい!」
そして事の次第を聞けば、当然マイラも自分にもとぐずる。しかし、朝から恥ずかしいのは、ナーナの分だけで十分だ。マルトはしどろもどろで防戦を試みる。
「だ、だって、マイラはお母さんじゃないし……」
「ナーナだってそうじゃん! それにお母さんじゃなくても、お姉ちゃんにだっておはようのキスはするでしょう。ちなみに本当の家族じゃないっていうのはなしだよ。私たちは孤児院の出だからね。いっしょに暮らしている人が家族なの。さあマイラお姉ちゃんにキスをしなさい」
「うっ……」
ナーナのはからかうための言いがかりだが、マイラのは正論だった。
両腕を差し出し期待感のあふれ出す満面の笑みのマイラに、マルトはしぶしぶと歩み寄ると、覚悟を決めてエイッとキスをした。
当然マイラは大喜び。「お返し!」と、胸元にマルトをぎゅうっと抱きしめて、その十倍のキスの雨。マイラはいつも通り、起きぬけのだらしない寝間着姿だったので、薄手の生地を通してやわらかさや温かさを感じて、マルトはもう恥ずかしさで何が何やらわからなくなっていた。
マイラにキスをすると、ちょうどそこに起きてきて事情を聞いたサキも、当然物欲しそうな視線をマルトに向ける。そのいじらしい無言のプレッシャーにも、マルトは耐えられない。何かを言われる前にと、自ら急いで駆け寄ってごあいさつ。
そして、その場にはもう一人。
「も、もしかしてメイちゃんもしたほうがいい?」
「いいよう、恥ずかしいし。あっ、もしかして、マルくんはした方がいいの? 私も、みんなにはしているから」
「えっ、ぼくもいいよ。恥ずかしいから」
本当は朝のあいさつなので、そこまで恥ずかしいものではない。実際マルトはお母さんにはしていたし、外で出会えばとなりのおばあちゃんにだってしていたぐらいだ。
ところがスタートがナーナのからかいから始まっているので、その場の雰囲気が変わってしまっている。意識しすぎて、まったく別物になってしまっている。そんなのみんなの前でできるわけがない。
じゃあ、やらなくていいよね、と二人の間で合意ができかけた時。
そこに待ったをかけたのはナーナである。
「だめだよ、二人とも、そんなことじゃ。二人も家族なんだから、朝のあいさつはちゃんとしないと。」
あの顔。悪いことを思いついた顔だ。
「えっ、でも……」
「いいこと、マルくん」
ナーナはマルトの前にひざまずき、その肩に手を置いた。
「マイラも言っていたけど、私たちは、孤児院の出なの。身寄りはいない。今はマルくんもそうでしょう? そういう人間が集まって、本当は血のつながりがないのに、家族として暮らしている。だからこそ、家族としてやらなきゃいけないことは、おろそかにしちゃだめなの。つながりを大切にしないとだめなのよ」
言っていることは正論。表情は真剣。しかし、目が、目元がちがう色を出している。明らかに、マルトがうろたえるのを楽しんでいる。
そう、マルトにちょっとだけ意地悪なナーナは、真っ赤になってとまどうマルトの姿が大好物。こんな獲物を逃がすわけがない。
先ほどは自分も愛おしさにやられちゃって痛み分けだったので、なおさらである。
「え、でも……あの……」
もじもじと歯切れの悪いマルトを見て、参戦してきた者がいた。マイラである。
「そうだよ、マルくん! あいさつは人間関係の基本だよ! ちゃんとメイにもおはようのキスをしてあげないと!」
もうこちらは、わくわく感をかくしていない。もじもじ照れるマルトがかわいくて仕方ないのだ。
困り果てたマルトがサキを見やると。
こちらもうんうんとうなずいている。サキは他の二人に比べれば一見常識的だが、マルトを盲愛していることにかけてはむしろ負けていない。朝のあいさつのキスが日常になるなんて、すばらしいことだ。
万事休す。
事情を理解したメイが「え? え? え?」と、真っ赤になってとまどっている。メイは完全にとばっちりなのだが、もじもじするマルくんかわいいとわくわくしている三人に、これは必要な犠牲であると割り切られてしまったようだ。
マルトとメイは三人がしっかり見守る中、朝のあいさつ。
すっかり意識してしまって、その日一日、二人とも挙動不審だった。
その初々しさを、三人が思う存分たんのうしたのは、言うまでもない。
そのころ、ハービル修道院。机の前に座っているのは、がっしりした体つきの男。身なりは聖職者のものだが、第一印象としてはだいぶ違和感がある。
体つきだけではなく、顔つきもいかつい。そりあげた頭がむしろ迫力をかもし出している。額には彫りこまれた教会の紋章。神職に身をささげた証のはずだが、それさえも威圧的だ。
「ふむ」
手元の書類をながめてつぶやく一言。その声も低く、太い。
どう見ても、神職よりも騎士団などの戦闘職が向いている風貌だが、それもあながちまちがいではない。
彼は修道院の長にして、この国でも指折りの戦闘力を持つ言環理師、ジョージ・ハクストン。
有力派閥の要求も、王宮騎士団の要求さえもはねつける、豪胆な戦士。
ハクストンが見ていたのは、各所との荷物のやり取りを記録した書類だ。そこにはサキから新しい検査水晶を送ってほしいと連絡があったこと、そしてそれを送り出したことが記されていた。
まったく聖職者には見えない、いかついハクストンの風貌。だが、その中でただ一点、それにふさわしいところがあった。
自分の子供たちのことを想うとき、その眼元には慈愛に満ちた表情があふれる。
「そろそろかねえ」
彼はジョージ・ハクストン。
豪放磊落にして、恐れ知らずの猛者でありながら、その子供たちに限りない愛を注ぐ、生粋の守護者。
〈続〉
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