第8話 マルくんとマイラの誓い

「ふうん、そんなことがあったんだ」

 マイラがリンゴのシャーベットをひとさじすくいながら、サキの話にあいづちを打つ。

 居間には大人三人がくつろいでいた。夜もふけて、子供たちは先に寝かしつけられている。大人だけのおしゃべりの時間。少し胃袋にすきまができたように感じたマイラは、言環理(ことわり)でリンゴをこおらせて一気にくだき、ちょいちょいと味付けして即席デザートを作った。

 料理に言環理を使うことに関して、一番の腕を持つのはサキ。得意な言環理とも、かみ合っている。マイラも言環理の向き不向きでは、むしろ向いている方なのだが、性格的に繊細さがいまいちだ。だが、こういうちゃちゃっと手早く作るものであれば、その強みが十分生かせる。

 ほおばったシャーベットの冷たさとあまさをたんのうしつつ、マイラは続ける。

「確かにめずらしいかもね。両親はあれだけの言環理師なのに、マルくんに才能がまったくないなんて」

 聞いていたのはサキのケーキ作りの最中の話。マルトは言環理の力をまったく持っていないと、アリスに言われていたという。

「検査水晶がこわれたって、修道院には連絡してあるんだっけ?」

 これはナーナ。問われたサキがこくりとうなずく。

「送ってくれるって?」

 マイラの問いにも、サキはうなずく。

「そしたら、そろそろ着くかもね」

 マイラはソファーに深く背を預けた。

 シャーベットをもうひとさじ口に運びつつ、マルトの言環理の力を確認するのは盲点だったなと思い返す。

 メイには白の言環理師であるという事情があるので、早くからトレーニングを始めている。だがふつうはそれほど急がない。言環理の力は身体の成長と連動しているのか、安定するのはもう少し先の年齢になるからだ。

 マルトにいろいろかくしごとをしていて、仕事にからみそうな話はさけていた、というのもある。だから、まあ多分マルトも力があるんだろうなぐらいで、マイラも他の二人も特にふれてこなかった。

 サキが話を振ったのは、マルトが言環理の力に感心していたから。興味が出たころあいならトレーニングを始めてもいいかな、という程度の軽い気持ちだった。そして、そこで意外な返事が返ってきたのだ。

 サキが感じた通り、両親があれだけ腕の立つ言環理師なのに、その子供にまったく遺伝していないというのは、めずらしいケースだ。

 この話の背景は少し複雑だ。言環理の力は遺伝するとも、遺伝しないとも言えるからだ。

 マイラ、ナーナ、サキの三人もメイも、国境沿いの紛争地域で身寄りを亡くして、幼いころにハービル修道院に引き取られた。両親も親戚も言環理師ではなかったとわかっている。そのようにぽつん、ぽつんと出現する方が、言環理師としてはふつうである。この点からは、言環理師としての才能に遺伝はあまり関係なさそうに見える。

 ただ両親ともに言環理師だった場合は、高確率で子供も力を持つ。ここでは遺伝があるように見える。派閥の中にはそれをねらって、政略結婚的に子供を産ませているところもある。

 ところがそのような、家畜の繁殖にも例えられそうな当人たちが望まぬ結婚の場合には、遺伝の確率ががくんと下がる。それでも何もしないよりはまだ一応出現確率は高いのだが、単純な遺伝の話なら、こうはならないはずだ。何か法則があるはずだが、解明されていない。この単純ではない遺伝の仕方は、力を求める派閥の中では悩みの種だった。

 これについて、修道院の長ジョージ・ハクストンは、そのいかつい顔にまったく似合わない、だが修道士としてはふさわしい言葉を、常々口にしていた。

「言環理の力は愛なのだ」

 戦災孤児に言環理師が多く現れるのも、そのような苦しい立場に立たされた子供に対する神の慈愛なのだ、と説く。

 言環理師の育成、供給を期待されているハービル修道院に対しても、戦力増強のための繁殖行為を求める声はあった。だがハクストンは、「愛のないところに言環理の真の力は生まれない」と突っぱねていた。

 もし申し入れを聞き入れていたら、高い資質を持つマイラたち三人は、当然むりやり相手をあてがわれていただろう。だが、ハクストンは三人に、「お前たちも愛を感じる相手といっしょになりなさい」と告げていた。

 ハクストンの主張するように愛の力なのかどうかはわからないけれど、ただ、言環理師同士の、特に恋愛結婚した夫婦の子供は、能力の大小はあれど、ほぼ言環理師として生まれてくるのは確かだ。その点では、マルトはまさにうってつけのパターンだったので、三人はマルトが力を受け継いでいることを疑っていなかったのである。

 生まれてすぐに出現しなくても、ちょっと大きくなってから力に目覚めることもある。なので、アリスがないと言い切って、マルトが覚えている限り検査をしていないのは不思議なことだ。

 だがそれも測ってみればはっきりする。この時三人は、この問題を、例えれば子供の成長を確認するために体重を量る程度のことだととらえていた。

 なので、この話題はここでお終い。話はよそへと移る。

「それにしてもさー」

 しゃくしゃくとりんごシャーベットをほおばっているマイラに、となりからナーナがあきれた声をかける。

「確かに、おいしかったけどさ。さっきも言ったけど、自分もおかわり食べたいからもう一度焼いてくれとか、そんなわがまま言って、大人としてどうなの」

 ケーキ作りの時の話から、マイラの行動を蒸し返すそのあきれ声の中には、おどろきと、そしてねたみも少々混じっていた。

 それだけたっぷりおやつを食べて、夕食も完食したばかりかそこでもおかわり。なおかつ今、小腹がすいたからとシャーベットを作って食べている。底なしのマイラの食欲。ずっといっしょに暮らしているからよく知っていても、それでも見せつけられればびっくりする。

 そして、いつもそんなに食べ続けているのに、マイラは三人の中で一番引きしまったスタイルを維持しているのである。

 ナーナも別に体形がくずれているわけではなく、十分に、いや十分以上に魅力的なスタイルなのだが、たまにはおなかのお肉が気になって、ちょっと食べる量をひかえたりすることがある。そんな努力とマイラが無縁なのは、理不尽としか言いようがない。

 しかし、ナーナの言葉に潜むそのような気持ちにはまったく気づかず、マイラはけろっとした声で答えた。

「えー、だってさ、あんなにおいしいのをマルくんだけおかわり食べてるの、ひどくない? ちゃんとみんなで分け合わないと」

「だから子供と張り合うなって」

「食い意地の悪さが、子供のころからまったく治ってない」

 ナーナ即座の反論。しかもサキの追撃まで入った。マイラが唇をとがらせる。

「みんなマルくんがかわいいからって、あまやかし過ぎだよ? 食べ物のうらみは恐ろしいんだよ? そういうところはちゃんとしつけないと。あのマルくんの食い意地は、ロイ兄さんの遺伝だね。まったくマルくんはそういうとこはお父さんに似てるんだから。似なくていいのに……」

「まあ、確かにマルくんはちょっと食べ物に執着するタイプかもね」

「あまいものに弱いのも同じ」

 ロイの遺伝というところは、ナーナもサキも賛同した。ただし、マイラに突っ込みを入れていた時とは、口元の角度がだいぶちがう。ほほえましい気持ちが唇の端からあふれている。大好きだった兄と同じとなれば、あまやかしすぎと言われても、むしろもっとあまやかしてしまいたくなる。本当にかわいくて仕方ないのである。

 マイラにとってもそれは同様。兄のことは大好きだった。特に活動的で人なつっこいマイラは、小さいころから上の兄たちにくっついて、いっしょに表をかけずり回っていた。そんな兄のかわいい子供は、愛おしくて仕方ない存在だ。

 しかし、食事に関しては話は別だ。マイラの食い意地が問題というだけではない。ロイの子供であることは、むしろマイナスに作用する。何しろロイとマイラは食べ物で、子供の時から激しい戦いをくりひろげてきたのだ。

 大好きな兄だったが、食事に関してはライバルだった。自分の分は自分で守らなければいけない。じゃないと、ひょいっと自分のお皿から、おかずやおやつが取られてしまう。修道院が子供たちに食事を満足に与えていなかったということではないので、ロイがマイラをからかっていた要素が多分にあるのだけれど。

 マイラが楽しみにしていたおやつを、ロイが食べてしまうということは日常茶飯事。ハービル修道院では、またかとみんな取り合わないレベル。だいたいロイがおれて、ご機嫌を取って終わることを、みんな知っているからだ。



 そこでマイラは思い出す。

 そう、あの日もそうだった。


「兄さん! プリン!」

「なんだー、マイラー、兄さんはプリンじゃないぞー」

「とぼけないで! 私のプリン、食べたでしょう! 仕事のあとのお楽しみに取っておいたのに!」

 赤黒い長髪で引きしまった体つきの美しい女性が、赤みがかった短髪のあまい顔立ちの男性に対峙する構図。

 マイラとロイ。見た目はうるわしい絵面だが、話す中身でだいなしだ。おたがいもういい大人なのに、言い争いの始まり方は、口調も内容も子供のころと変わらない。

 ただ、そのころとちがって、マイラもロイがからかっているのだということはわかっているので、心底本気でなげき悲しんでいるわけではない。

 けれど大人になった分、ロイのあの顔がマイラの反応を楽しんでいるからだとわかるので、今度はそれに腹が立つ。

「まったく、そんなにあまい物ばっか食べて、太っても知らないぞ。兄さん、それを心配してあげてるんだよ」

 これまた上から目線の挑発である。

「それは兄さんも同じでしょう!」

「そう。そんなリスクを負ってまで妹の心配をする、このうるわしい兄妹愛。妹がわかってくれなくて、兄さん、悲しいなあ」

 ああ言えば、こう言う。そして、にやにやと笑う表情は内容とはちがう本心を物語っている。さらに腹が立つわけだが、マイラも長い付き合いで、口げんかでは勝てないことはわかっている。実力行使に出ることにする。

「だいたい、心配されるいわれなんてないっての! どこが太ってるっていうの! 見ろ!」

 いきなりブラウスをまくって、大きく胸元まで素肌をさらす。ナーナもねたむ、引きしまった身体。健康的で血色のいい肌。

 これにはロイもあわてたようだった。

「うわ、ばか、しまえ!」

 マイラの手首をつかんで、引き下ろす。

「お前もいい年なんだから、子供みたいなことしてるんじゃないよ」

 自分の行いは棚に上げ、そんなお説教。それに対してマイラは、べえと大きく舌を出す。

「わかった、わかった。これから買い物に出かけるところだから、コリンズさんちのプリンも買ってくるよ」

「うん、まあ、それでは二つで手を打とう」

 ちゃっかりと数を増やしたマイラの食欲にあきれた顔をしながら、ロイはうなずいた。まあ、だいたいいつもと同じ幕切れだ。怒らせたり、喜ばせたり。くるくる変わる表情がかわいい妹への、ロイの愛情の裏返しなのだ。

 そしてマイラも、けんかするほど仲のいい兄に、望まれていたとびきりの笑顔を素直に見せる。けんかなどしていなかったかのように満面の笑みで、買い物に出かけるロイを玄関先から見送った。

 プリン、プリン、しかも二つ!

 コリンズさんは角のパン屋。競争の激しい都会へ行っても大繁盛まちがいなしの、激ウマパン屋さんである。職人さんの技には言環理師もかなわない。料理の腕に自信のあるサキは対抗心があるようだが、マイラは素直に脱帽だ。パンの他にお菓子もちょこちょこ置いてあり、こちらの味もまた絶品なのだ。

 プリンを一つ食べられてしまったが、それが二つに増えたのだから得をした。マイラは上機嫌である。

「プリンをたたくとプリンが二つー、も一つたたくとプリンが四つ―」

 上機嫌のまま、おかしな歌をおどりつきで歌っていると、「えっ、プリンたたきつぶしちゃったの?」とメイがけげんな顔を向けてきた。

「そうじゃないよ」

 メイにそう答えたところで、マイラははたと気づいた。

 しまった、メイの分も頼めばよかった。そしたら、このプリンがあるという至上の喜びが、メイにも伝わったにちがいない。伝わっても、恥ずかしがりなメイは、いっしょに喜びの舞いはおどってはくれないだろうけど、うん、でも、喜びはみんなで味わった方が、二倍、三倍、おいしくなる。ロイ兄さんが気を利かせて、みんなの分も買ってきてくれればいいなあ。

 まだかな、まだかな、プリンはまだかな。

 子供の時と同じような純真さで、マイラはロイの帰りを待ちこがれていた。

 その後起こることなど、少しも予想することなく。


 頭の片隅で、ちりっと何かが燃えている感じがした。

 言環理が使われた感覚。しかもこの感じはロイのもの。近い。玄関先だ。何かを焼いたみたい。

 何をしてるのだろう。

 壁の向こうを透視できるわけではないのだけれど、マイラは思わずけげんな顔をそちらに向けた。

 言環理師は言環理の力を感じ取ることができる。言環理とはこの世の理に干渉する技。この世界を形作る力をねじ曲げるので、そのゆがみが波動となって広がっていく。訓練を積んだ言環理師であれば、それを感じることができるのだ。

 何をしているのか疑問はあったけれどロイが帰ってきたのは確かなようなので、とりあえずマイラは玄関にむかえに出た。

 ロイはこちらに背を見せて、玄関わきの植え込みの方を向いていた。手には買い物のために持っていったかご。上からちらりと頭を出しているのは、野菜と、それからプリン。ロイはちゃんと気を利かせて、みんなの分も買ってきてくれたようだ。

 だが、そのことよりも、マイラはロイの様子が気になった。

 表情は見えないけれど、その後ろ姿には、緊張感がただよっていた。

「兄さん?」

 マイラの声にロイは振り向いた。

 表情は、後ろ姿の印象とはちがっていた。にこやかで、快活な、いつものロイらしい顔。そして、いつものロイらしい明るい声で答える。

「ああ、マイラ、ただいま。ほら、買ってきたぞ」

 だが、長くいっしょに暮らす家族である。マイラはその表情が少しこわばっていることを見逃さなかった。

「兄さん、どうしたの? 今、言環理使ってなかった?」

 マイラの問いに、ロイは一瞬顔をしかめた。

「玄関先にゴミが落ちてたんだよ。そうだ、マイラ。兄さん、ちょっと出かける用事ができたから、メイといっしょにおやつ食べといて。もしかしたら夕食にも遅れるかもしれない。そしたら、みんなで先に食べちゃっててよ」

 そう告げてロイはまた出かけていった。最後の方の口調はだいぶ急ぎ足で。

 そのあわただしさに口をはさめないまま、マイラはその姿を見送った。

(何だろう……? あんなに急いで、何の用事……?)

 ふと、玄関わきの植え込みを見ると、ちらりと白いかけらがのぞいていた。

(……紙?)

 そっと拾い上げると、指先よりも小さなそれは、やはり何かの紙の燃え残りだった。よく見れば、植込みの葉にはパラパラと灰が残っている。ロイはやはり、ここで言環理を使い、何かを燃やしていたようだ。

(ゴミって言ってたけど……?)

 やはりどうしても、ロイの様子が気にかかる。

 今思い返せば、マイラはこの時、もっと早く、そしてもっと強くこの疑念を持つべきだったのだ。

 そして、ロイが隠そうそうとしながら隠し切れなかった何かを、ここで白状させるべきだったのだ。


「ねえ、メイ、相談なんだけどさ」

 二人なかよくおやつの時間。マイラだけではなくメイも、コリンズさんのお店のプリンは大好物だ。おいしいねとほおばって、食べ終わった時。

 マイラが深刻な顔で、メイに相談を持ちかけた。

 何か重要な話が始まる気配。その表情に居住まいを正すメイ。そこにマイラが言葉を継いだ。

「ここにプリンが二つあるじゃない?」

「? あるね」

「半分こしない?」

「!」

 メイはびっくりして、思わず大きな声を出す。

「だめだよ! ロイ兄さんがみんなの分を買ってきてくれたんじゃない!」

「大丈夫だよー。メイがだまっててくれれば、わからないよ」

 なんと共犯者へのおさそいである。

 いつもであれば研究室で何か作っているサキは、今日は用事があって出かけている。ナーナも仕事で外出中。つまり今この家には、マイラとメイの二人きり。そこでこっそり食べてしまおうという悪魔のささやきだ。

「だめだめ、だめだよ! これは二人の分だよ!」

 プリンの身の危険を感じたメイは、かばうようにして二つとも引き寄せた。

「そんな! メイさま! お腹をすかせたあわれなおいらにお慈悲をー!」

「今二つも食べてたじゃない!」

「二つ食べたら三つ食べたくなるでしょう?」

「自分の食欲がふつうみたいに言わない!」

 そんなこんなで、すったもんだとしている時。

 マイラはまた、頭の隅で、焼けるような感じを覚えた。

 しかも今度のそれは、ちりっと小さなものではなく、痛いくらいに強い。

 しかも二つ。

 一つはロイの言環理の感触。

 もう一つは知らないものだ。

「マイラ……」

 メイが不安そうに見上げている。

 メイの才能は質、量ともにかなりのもの。まだ、探知のためのトレーニングは積んでいないが、これだけ大きな波動だと、それでも感じることができるようだ。

 そしてそれは、緊急事態を表していた。

 ロイがだれかと戦っている。

 ここで店を構えているのは、王宮騎士団の秘密の仕事をうけおう仮の姿だと、メイには伝えてある。

 仮の姿は本当だし、辺りの山賊を平定してほしいというような、王宮騎士団からの依頼も実際に引き受けてはいる。

 けれど、本当の目的は幼い白の言環理師、メイを守ることだ。メイを亡き者に、もしくはかどわかそうとする、そんなライバルたちや他の派閥の目を多少なりともあざむくための、仮の姿。ここはメイのための砦。自分たちはメイのための騎士。まずメイを守らなくては。

 ロイのことも心配だったが、そちらが最優先だ。激しい戦いがくりひろげられているのが、言環理の波動でわかる。すぐにも助太刀にかけつけたい。でも、メイを一人でこの家に残しておくことはできない。

「大丈夫だから。みんなきっとすぐ、もどってくるから」

 おびえるメイをぎゅっと抱き寄せる。

 そうしているうちに、血相を変えてサキが飛び込んできた。はずむ息、乱れる髪は、大あわてで帰ってきたことを表していた。いつも落ち着いていて、感情の起伏がとぼしいサキにはめずらしい表情。それが事態の重大さを、ことさらに物語る。

「ロイ兄さん?」

 言葉少ないサキの問いにマイラはうなずく。

「だれ?」

 また短い問い。それでも長い付き合いの二人の間では通じる。逆にこういう非常事態の時には話が早い。

「相手はわからない。でも言環理使いであることは確か。ナーナもすぐに帰ってくるはずだから、ここでメイを見てて! 私は兄さんを助けに行く!」

 そう話している間にも、戦いの波動が激しくなっていく。うなずくサキの顔がこわばる。

「頼むね」

 そう言ってマイラは玄関を飛び出した。そこでちょうど、もどってきたナーナとはち合わせになる。

「ロイ兄さん?」

 ナーナの方は非常事態とわかっていての、無駄を排した短い問いだ。マイラがうなずく。彼女たちはメイを守るためのチーム。こういう襲撃の可能性は、きちんと意識できていた。

「私が助けに行く! メイを守って!」

「わかった!」

 阿吽の呼吸の役割分担。二人が家にいてくれれば安心だ。懐に飛び込んでの戦闘力はマイラほどではないが、拠点を構えての防衛戦で遠隔攻撃となれば、二人の連携は超一級。メイをしっかり守ってくれる。

 あとは急いでロイの元へと駆けつけなくては。

「ガリレイとニュートンの名においてお言環理します。全てを纏め、形作る力。空を歪ませ、引きゆく力。其を絞り巡らせ、我に自由を与え給え」

 マイラが言環理を言祝ぐ(ことほぐ)と、光の輪がマイラの腰の周りをぐるりと巡った。風が舞っているわけでもないのに、マイラの長い髪がふわりと広がる。それだけではなく、服の袖や裾も、風にたなびくようにふわりとふくらんでいる。

 言祝ぐ間目を伏せていたマイラは、上空を見上げると、だんっと地面を蹴り、飛び上がった。

 ふつうの跳躍であれば、やがて頂点をむかえ、落ちてくるのだが、マイラの身体は落ちることなく、むしろそのまま加速して上空へと舞い上がっていく。

 飛行の言環理。浮遊馬車を浮かせているのと同じものだ。馬車の場合、車輪に言環理が刻み込まれていて、力を注ぐだけで効果が出るようになっている。生身に言祝ぐ方が難しいのだが、マイラはそれを難なくこなす。ふだんも移動に使っている、得意の言環理なのだ。

 これならば、ロイの元までそう時間がかからずにたどり着ける。ただ、そのためには、戦いがくりひろげられている場所を見つけなくては。

 マイラは一気に高度を取る。見通しのいい方が探しやすい。

 感じる言環理の様子からして、街中ではない。けっこう離れているはずだ。

 なのにこれだけ強烈に感じるのは、本当に緊急事態だ。ロイが全力をつくしていることを表している。

 ロイは、マイラたち三人で束になってかかっても勝てるかどうかという、修道院派随一の言環理使いだ。三人が弱いのではなく、ロイがこの国でも五本の指に入るレベルで強い。メイの護衛の件がなければ、かなりの高額で有力派閥に雇われていただろう。そういう申し入れは実際にあった。

 それだけの実力者だけに、ロイの方が押してはいる様子。だが、圧倒しているわけではない。対抗している相手も十分な手練れ。かなりの強敵の気配がする。ロイであっても安心だとは言えない。

「森の向こう……あの辺りか」

 マイラは当たりをつけると、その方向へ向かって加速。同時に言環理のべき乗展開、重ねがけをする。

 言環理の弱点は言祝ぐための時間がかかることだ。先に発動してかけっぱなしにしておくことで、それは克服できる。言環理を先にいくつ展開して維持しておけるかどうかが、言環理使いの戦力としての評価につながる。

 その点でマイラは一流だ。飛行制御をしながら、得意の瞬発力強化の言環理と硬化の言環理、それに炎の言環理も展開する。

 炎を操る赤の言環理使いとして、マイラの術は超強力。辺り一面焼きつくす。だからふだんは使いどころが難しいのだが。

 街から離れた森の中で、相手が一人であれば遠慮はいらない。一気にケリをつけてやる。

 そう意気込んでマイラは前方の様子を探る。近づけば探知もそれだけ正確になる。

 しかしそんなものは、すぐに必要なくなった。

 展開される言環理がともなう、色とりどりの光が見えたからだ。森の梢の上高くまで湧き出して渦巻いているそれは、夕暮れ時の薄暗くなった空に映える。

 美しい光の乱舞。

 だがその光景は、ただ美しいだけではすまなかった。上空を飛びかう鳥たち。光の竜巻の方向から、群れを作る余裕もなく、ちりぢりに逃げている。その必死の様子が、光の中心で行われている戦いの苛烈さを物語っていた。

 言環理の波動から感じ取ってはいたが、実際に目にすると、そのすさまじさにマイラは身震いする思いだった。これだけのロイの全力の言環理は、長くいっしょにいるマイラも見たことがなかった。それだけの相手、それだけの事態だということだ。

 とにかく急がないと。逃げまどう鳥たちの一部が、マイラの方に押し寄せる。それをよけながら、光の根元を目指してマイラはさらに加速する。

 近づくにつれ、竜巻はただ光が渦巻いているだけではなく、本当の嵐をともなっていることがわかる。ごうごうと逆巻く風がマイラを翻弄する。

 梢の向こうの切り開かれた空き地に、その光の竜巻の中心があった。片方はロイ。もう片方は遠目ではよくわからない。男性。細身。ロイに対抗しているのであればかなりの手練れだろうという推測を、その身からあふれ出す光の量が裏付ける。

「兄さん!」

 マイラは大声で呼びかけて、おのれの到着を知らせる。

 ロイの肩がかすかにぴくりと動いたが、こちらを振り向くことはない。相手はこちらをちらりと見上げた。細身の身体と同じ細いあごの神経質そうな顔。ねめつける目つきの悪さ。マイラの姿を確認しても、言環理を途切らせるようなことはなかった。

 言環理師同士の戦いは、基本、世界のねじ曲げ合いになる。世界の理を上書きしてねらった現象を引き起こす。それに対して防御する側は、その効果を打ち消す言環理で、さらに世界をねじ曲げる。

 相手の祝詞(のりと)を聞き、効果が出る前に追従するのが基本だが、そのためには最初の部分でどの言環理だか判断する、知識と速さが求められる。当然それでは間に合わない場合もあり、予想される攻撃に対しては先に防御壁を張っておく。ここで、べき乗展開の能力が問われる。

 そして攻撃する側には、その防御を上回る力、もしくはそれを回避する技が求められる。隙をついて先に当てる。もしくは力ずくで押しつぶす。もしくは相手の知らない希少な言環理を使い、対応させない。速さ、強さ、うまさ。これが攻守ともに求められる基本の戦略だ。

 だからマイラは上空から呼びかけた。上から奇襲をかけることも考えたのだが、声をかけ、相手を驚かせて隙を作ることを選んだのだ。

 だが、相手はこちらを見上げても言環理を止めることはなかった。驚かなかったのはこちらの事情を事前に知っており、援軍が来ることを想定していたからだとしても、ここで少しも隙を作ることなく言環理を展開し続けたことは、称賛に値する。やはりかなりの手練れである。

 ならばと、マイラはロイのそばに降り立った。

「兄さん! 援護する!」

 ロイはマイラと似たタイプ。色も同じ赤の言環理師。基本戦略は力押し。

 アリスとナーナは赤と補色関係の緑の言環理師。サキは青。ちがう色のコンビではおたがいの隙を補い合う形になるのだが、同系色のロイとマイラの場合は、取る戦術はシンプルだ。同じ力の力押し。共通して得意な所でゴリゴリ行く。食べ物に関してはけんかばかりの二人だが、共闘する時の息はぴったりなのである。

 ただ、この時マイラは、かすかな違和感を覚えた。いつもとちがうロイの気配。どこかマイラの登場を、歓迎していないような……?

 この微妙な呼吸のすれちがいが、大きな代償を生んだ。

「ロイ!」

 その瞬間、木陰から女性の声がした。

 三人の周りは吹き荒れる熱と嵐で焼き払われ、森が開けた状態になっていた。その向こう、かうじて生き残っている木々の陰から、縛られて、男に連れられている女性の姿。

 遠目なのと、熱でゆらめく陽炎によってよく見えなかったが、その姿は。

「アリス姉さん?」

 マイラは驚いて声を上げた。声も姿も、アリスのものに思えた。

 ロイもぎょっとしてそちらを向いた。

 二人とも、十分に訓練を積んだ実戦経験豊富な言環理師だ。そのように驚いた時でも、展開している言環理がゆらぐようなことはない。

 だが、意識を割かれた影響が皆無というわけにはいかない。事に相手が、ねらってこの隙を作った場合には。

 これは相手が仕掛けた罠。自分より格上の相手を倒すための策。

 その可能性に気づき、警戒態勢を作るのが、一瞬遅かった。

 ロイの身体が、地面から生えた灼熱の炎の剣によって貫かれた。

「ぐあっ!」

「ロイ兄さん!」

 マイラの悲鳴と同時に、その足元からも二本目の剣が伸びる。

 しかし、マイラの反応の方が一瞬速かった。一本目の時には、木陰の女性に気を取られていて気がつけなかったが、剣を作り出す言環理の展開を感じると、まだかけ続けていた飛行の言環理で、宙へ飛びあがった。

 感じ取ったのは、地面を溶かすほどに範囲を鋭く収束させた、加熱の言環理。

 ここまで相手は、ロイの作り出す灼熱の炎風を打ち消すことに力を注いでいた。つまり、温度を下げる冷却の言環理を中心に使っていたのである。攻撃もその線に沿って極度に温度を下げて作り上げた氷の砲弾によるものだった。

 ロイの作り出す、空気までもが輝きだすほどの高温により、その大部分は溶かされてしまうが、十分な大きさと速さがあれば、溶け切る前に相手に届く。その高温と低温の戦いが、激しい嵐を周囲に巻き起こしていたのである。

 それも相手の張った罠の一つであったのだろう。はっきりちがう効果を生み出す言環理は、当然まったくちがう色と波動を持ち、容易に感知できる。それに慣らしておいての同系色の言環理。ロイとマイラの言環理にまぎれ、探知しづらいことをねらった、本命の一撃。

 それがマイラにかわされてしまったということで、今度は相手の意識が一瞬の硬直におちいった。

 本当に、ほんの一瞬。意識できるかどうかのほんの刹那の間。だがその一瞬は、ロイやマイラのような歴戦の言環理師の前では致命的だ。

 呼吸を合わせた、同系色の言環理。冷却が間に合わないほどの、超高温にあぶられた光り輝く空気の刃。それが二つ、角度を微妙に変えて相手を襲う。最大出力の冷却でも間に合わないと瞬時に判断したのは、相手をほめるべきだ。さもなければ、それこそ一瞬にして、跡形もなく焼きつくされていただろうから。

 だか、身をかわし、軌道をそらす空気の防壁を張っても、効果をすべて防ぎきるわけにはいかなかった。

「ぐわあああっ!」

 焦土と化した空間に悲鳴が響き渡る。相手の右腕が、一瞬にして焼かれ、それこそ焚火のあとの燃えさしのように黒こげになった。

 けれど、最大のチャンスにロイからの追撃はなかった。

 溶岩の剣に内臓を焼かれたロイもまた、大きなダメージを受けていたからだ。

 剣から身体を抜いたけれど、それ以上動くことはかなわず、そのまま地面に崩れ落ちた。

「兄さん!」

 今度はマイラの悲鳴が、辺りに響き渡った。

「このっ!」

 怒りに満ちたマイラの言環理が、腕を押さえてひざまずく相手に襲いかかる。

 それは怨嗟の獄炎。ふだんにも増して超高温の光渦巻く激しい気流は、すべてを燃やしつくすはず。

 だった。

 相手は激痛のあまり、新たな言環理を言祝ぐ余裕はなかった。また、言祝いでも間に合わなかったはずだ。

 それは事前に仕込まれていたのだろう。突如として氷の防壁が、大地を割って現れた。

 マイラの怒りに後押しされた膨大な熱量と、大量の氷の激突。結果起きたのは、大規模な水蒸気爆発だった。

 大地をゆるがす衝撃と、辺り一面吹き飛ばす爆風。大量に発生した水蒸気は一気に膨張し温度が下がり、今度は大量の霧となって辺りを包む。

「しまった!」

 視界をさえぎられ、マイラは反撃を予想、防御を固める。立ち上がる言環理の波動がないかと、知覚を研ぎ澄ます。

 しかし、その様子はない。それよりも。

 相手の気配も消えている?

 マイラは急いで言環理を紡ぎ、風を起こして辺りの霧を払う。

 再び現れた風景の中に、もう敵の姿はなかった。木陰の方を振り向くと、まだ女はいるが、そこにいた男の姿もない。退却したようだ。

 あの防壁は最後の手段として取ってあり、あれを使うことを合図として撤退に入ることが、事前に決められていたようだ。

 ならばとマイラは急いでロイの元へかけつける。

 身体を起こす。溶岩の刃によって焼かれた傷は、体を貫通していた。焼かれているから、むしろ出血はない。しかし、重要な臓器がやられているのは明白だ。

 マイラは震えるおのれの身体をむりやりに押さえつけ、治療のための言環理を言祝ぐ。焼けただれた傷口から、組織を再生させなくてはならない。時間はない。急がなくては。

 先ほどの獄炎の時に勝るとも劣らない量の光の泡が、マイラの身体からあふれ出す。力が枯渇してもいい。とにかく、出せる限りの全力で。

 今、これだけの力の放出をしていれば、ナーナやサキなら、ここの様子を察してくれる。治療の言環理を使っていることを感じ取ってくれれば、戦いが終わったことはわかるはずだし、そして、治療が必要な事態になっていることもわかるはず。自分が力尽きても、すぐに二人がかけつけて、後を引き継いでくれるはず。 

 お願い、早く来て。

 切実にそのことを願う。


 力が、足りない。


 ロイの命を縫い止めようとするマイラの術より、ロイの命がこぼれ落ちていく方が速い。

「マ…イラ……」

「しゃべらないで! 大丈夫、助かるから! 私が、助けるから!」

「マイラ……マル…ト……を」

「大丈夫! がんばって! もうすぐみんなも着くから! そこまでがんばれば、大丈夫だから!」

「マルト……を…た…の……む…………」

 そして、命が、命の最後のひとかけらが。


 その手から、こぼれ落ちた。


「……兄さん?」


 マイラの腕の中の、まだ温かい体。

 だが、そこには命がもうないと。

 何か、大切なものが抜け出てしまったと。

 それだけは、はっきりと、伝わってきた。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 マイラの慟哭の叫びが、焼きつくされた森のしじまに響き渡った。

「マイラ!」

「兄さんは?」

 ナーナとサキがメイも連れて空から降り立った。やはり飛行の言環理を使い、急いでかけつけたのだ。あふれだすマイラの言環理の光を目印に。

 そしてみんな、マイラの様子を見て状況を把握する。ナーナとサキがこわばった顔で、力を使い果たしたマイラに代わり、二人がかりの蘇生を試みる。

 だが、やはりこぼれ落ちた命が、その器にもどることはなかった。

 信じたくない現実。

 みな言葉を失う。

 言環理師が危険な仕事をうけおい、命を落とすことは、ままある。自分たちが、そういう危険な仕事についているのだ、という自覚もある。

 それでも、目の前に横たわるロイの姿が信じられない。

 大人になっても子供のようにいたずら好きなロイが、「驚いた?」と笑いながら、起き上がってきてくれることを願ってしまう。

 でもそんなことは起きなかった。

「ロイ……ロイ……」

 初めて間近に人の死を見たメイは、ぼろぼろと止めどなく涙を流しながらロイの名を呼び、立ちすくんでいる。

「……メイ」

 ナーナは唇をぎゅっとかみしめて、やはり涙を流しながら、泣きじゃくるメイを抱きしめている。

「う……く……」

 サキは、いつもの無表情とは打って変わり、大きく顔をゆがませて、嗚咽をもらしている。

 だが、マイラはもう泣けなかった。

 涙はもう、こぼれてこなかった。

 自分が失ったものの大きさに、心の中が空っぽになってしまったようだった。

 悲しみのあまり風景が色を失い、目の前を通り過ぎていくようだった。

 そんな状態だったからだろう。四人の悲しみが深く垂れこめる中、マイラはふと、あの女性のことを思い出した。戦いの最中、マイラたちに声をかけた女性。逃げ出した男二人組とは、行動を共にしなかったようだった。

 振り返ると果たして、彼女はその場所に座り込んでいた。近づくマイラにおびえた様子を見せる。

 取り残されたならちがうのであろうが、それでももし、敵の一味であれば生かしてはおかない。

 そんなマイラの内心が、その表情にもれ出ていたからだろう。

「あ、あの、私……」

 おびえた声でマイラに話し始めた。見ると、足首の腱が傷つけられ、この場から動けないようにされている。傷はまだ新しく、彼女をこの場に縫い留めて、追手の動きを遅らせようという算段なのが見て取れた。

 卑劣な。マイラは唇をかむ。

 その表情がまた、女性をおびえさせ、必死の言い訳をさせる。

「あの、私、ノースポットの村の者で、あの二人に無理やり連れられてきて! 何が起きてるのか、まったく知らないんです! 合図されたら、一言大声で呼びかけろって言われただけで!」

 見た目は確かに、アリスに似ている。年はもっと若い。マイラたちより年下だ。声はこうして聞いてみると、そこまで似ていない。多分、言環理を使って声の調子を変えて、アリスに似せていたのだろう。効果を絞った小さな言環理であれば、あの激戦の中、その発動を見落とすのは仕方ない。

 そして言うとおり、彼女は連れ去られてきたのだろう。相手は、ロイと戦うために周到に準備してきた。ロイの実力は知れ渡っている。そうでなければ、メイをかくまうための牽制にならない。相手は自分の実力よりロイの方が上だと冷静に判断して、その実力差をくつがえすための策を用意してきた、ということだ。

 あの溶岩の剣も、氷の防壁も、使う場面やタイミングを綿密に計算したうえで用意されていた。使う言環理、使われる言環理、その中にまぎれるように。

 そして腹立たしいことに。

 マイラの援軍も、その計算に入っていたはずだ。街から離れていたとしても、ロイの力、マイラたちの力量を考えれば、言環理が検知されるのは当然。あの家のメンバーからマイラがまずやってくるのも当然。その援軍による、若干の気の緩み。それをきっかけに混沌を生むのが、この目の前の彼女の役割。そこにかくし球の一撃を賭けた。

 自分がロイの死に一役買わされた。

 その許しがたい事実に対する怒りが、また表情に出ていたのだろう。

「あ……あの……」

 目の前の女性は泣きそうな目でマイラを見上げていた。

 いけない。彼女は巻き込まれただけの被害者だ。

「大丈夫」

 マイラはそう声をかけ、彼女のもとにひざまずく。治療の言環理を言祝いで、彼女の足の傷を癒す。極限の緊張感から解放された彼女は、わあわあと泣きはじめた。

「大丈夫」

 そう声をかけるマイラの心の中は、空っぽのまま。

 彼女の足の傷は癒されていく。

 けれどマイラの傷は癒されない。

 マイラの傷は、癒されない。


 治療が終わり、彼女の傷はきれいに治った。こちらに気づいた他の三人に事情を話し、彼女を連れて、街へもどる。

 街の商会に寄って、事情を話し、彼女が村へ帰れるように手配した。そこで、都合の悪い詳細はごまかしながら、ロイの死も伝えた。

 山賊との戦いでロイは亡くなったと、街の人たちには告げた。気さくな人柄で慕われていたロイの死は、街を悲しみに沈ませた。

 アリスにはすぐ連絡を取った。彼女とロイは離れて暮らし、メイの白の言環理師の件にマルトが巻き込まれないようにしていたが、完全に連絡を絶っていたわけではなかった。その時は二人が秘密を抱えているとは思わなかったので、ロイが殺された理由はわからないと告げた。


 だがアリスには分かっていたのだ。そしてその追求の手が自分にもおよぶことも。


 アリスを襲ったのも、あの男だと考えられる。戦場あとにあの忌まわしい溶岩の剣があった。アリスは繊細な言環理が得意なタイプで、戦闘力はそれほど高くない。そこはマイラの方が上だ。なのにあの相手に刺しちがえたのは、それだけアリスに強い思いがあったということだ。

 一つはロイの仇を取るという思いだろうが、もう一つ、二人が抱えていた秘密が関係しているはずだ。

 そもそもロイが、あの街から離れた森の中に出かけたのは、秘密を餌に呼び出されたからだと思われる。でなければ、あの時マイラに告げていたはずだ。玄関先で言環理を使って燃やしていたのは、それに関する手紙だろう。

 ロイを殺し、アリスに殺されたあの男の死にも関わる、その秘密。

 なぜ二人とも、私たちには打ち明けてはくれなかったのか。

 最初から共に戦っていれば、大好きな二人を殺させるようなことは許さなかったのに。

 マイラの心の空白は、二人の死によってますます広がっていた。

 大切な二人を失った悲しみは、マイラの心の容量を超えていた。

 だからこそ思う。


 マルくんを守りたい。


 自分たちも寝ようと、居間から引きあげた三人は、特にだれが口にするともなく、みんなそろって、そっとマルトの寝室に向かった。

 子供たちの寝顔を確認するのが、大人たちの日課。自分たちが守っているものの幸せを、その寝顔で確認する。

 すやすやと眠るマルトの寝顔。

 愛おしい。

 大好きだった兄、ロイの子供。

 大好きだった姉、アリスの子供。

 本人も、素直で可愛らしい、みんなの弟。

 二人の面影を色濃く残すマルトに村で再会した時に、空っぽだったマイラの心はゆさぶられた。アリスの残したものを見て、ようやく、悲しみを受け止めることができた。

 大切な人が残してくれた、愛すべき存在。

 それが、悲しみがうがったマイラの心の空白に、すっぽり収まった。

 多分それは、他の二人も同じだろう。

 さらにマイラは、思い出す。

 ロイの死に際。

 託された思い。

 マルトを頼む。それがロイの最後の言葉だった。

 その願いに応えたい。

 だからこそ。


 何があっても、マルくんを守りたい。


 愛おしい寝顔を見つめながら、マイラは心に誓う。

 毎晩、毎晩、心に誓う。


「それじゃ、グレイブリッツの連中も、てめえの手下が暴走した理由はつかんでいねえってことか」

 ぶっきらぼうな口調で、少年が周りの大人に確認する。

 大きな屋敷の一室、周囲の者は品のいい身なりで、しっかりと着飾っているのに、その中央でまるで王のように席についている少年だけは、道ばたの貧民のようにラフないでたちだ。その見るからに身分の低い少年の言葉に、貴族とおぼしき者たちが敬意を払っている様子は、不思議に思えた。

「いいねえ、いいねえ、やばい匂いがプンプンすらあ。大歓迎だぜ。そういうところに、儲け話ってえのは転がってるもんだ」

 少年はにやりと不敵に笑う。その顔つき、体つき、そして表情は、獲物を前にしたネコ科の猛獣、しいて言うなら豹のような、しなやかさとどう猛さを感じさせた。

「これは、動くぜえ。この状態には、もう飽き飽きしてたんだ」

 ほめられたものではない喜びをかくせない彼の名は、エイバル・ロジェス。

 ライバルであるメイの命をねらう、白の言環理師。


〈続〉

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