第6話 マルくんとベイクドチーズケーキ
まるで夜のとばりが下りたように。
昼だというのにその部屋は、しんと冷える暗がりに満たされていた。
部屋の窓は内側も、外のよろい戸もしっかり閉められ、すきまからかすかに入る光さえ分厚いカーテンがさえぎっている。その状態なら、本来ならば部屋は真っ暗闇だ。だがそこに、ゆらゆらとゆらめくほのかな明かりがいくつか灯っている。
小さな炎がゆらり、ゆらりと、薄暗く部屋を照らす。部屋のすみの暗がりが、それに合わせて大きくなったり小さくなったり。部屋がゆったりと脈動している。ゆっくりと静かにうごめいている。
その明かりの元は、部屋を占領しているいくつものテーブルの上の、小さなランプ。テーブルにはたくさんガラス容器が並べられ、様々な色の溶液が入っている。そのうちのいくつかが、ランプの火にくべられて、こぽりこぽりと音をたてていた。
特に部屋の中央のテーブルに置かれた大きめの容器には、とろりとした深い緑色の、際立つにおいを放つ液体があった。
それを取り囲むように三人の人影。
部屋の各所でゆらめくランプの明かりに照らされて、三人の影もゆらゆらとゆれる。
その一人、淡い色の髪を波打たせるナーナが、顔をしかめた。
「ねえサキ。このにおい、なんとかならないの?」
「ならない」
袖口を顔に近づけて、ナーナは文句を続けた。
「このままだと、たきしめられて服にこのにおいが移っちゃうよ。火を止めない?」
「だめ。反応が止まる」
「じゃあ、せめて窓を開けようよ」
「だめ。強い光に反応する」
内心のいらだちを映して、ナーナの声のトーンがひとつ上がる。
「いったい何なの、これ?」
「ウチの主力商品になる予定。例のほれられ薬」
立て続けにバッサリと拒否されて、不満をかくすこともなかったナーナの表情が、サキのその言葉に固まった。すっと、目をそらせて何か考えている様子。薄暗い光ではよくわからないが、その頬が赤く染まっているように見える。
そしてぽつりとつぶやいた。
「……それじゃ、仕方ないね」
それはナーナだけではない。他の二人、マイラも、サキまでも、うつむき加減で、もぞもぞと身じろぎしている。
「例のほれられ薬」とは、マルトがサキに飲まされて、ひっくり返ったあの薬だ。三人はあの時のマルトの様子を思い出していた。
ほんのりと桜色に染まる頬。つややかなしっとりとした薔薇色の唇。長い睫毛。ううんとうなる声までが、鈴を転がしたような聞き心地。こちらはどきどきと心臓が高鳴り、愛おしい気持ちがどうにも止められなくなった。今思い出すだけでも、心拍数が上がる。
うん、あれなら売れる。
「あれっ? でもさ、こんな色だったっけ? もっとすきとおったきれいなピンク色じゃなかった?」
あの時の様子を最初から見ていたマイラが、首をかしげる。
「……これから調整する」
答えるサキは苦々しげな様子。
サキはマルトのこととなると、言環理に邪念が紛れ込むのか、なぜかおかしな効果が出てしまう。あの薬もねらってできたものではないので、うまく再現できていないようだ。
新商品発売までの道のりは、まだ長い。ナーナは苦笑いしながら話を切り出した。
「まあ、それじゃ始めようか。音もれはしてないよね?」
「うん、大丈夫」
マイラが答える。この部屋に張り巡らしたのは、言環理を使った隠形の術。音の振動を壁際でシャットアウトし、外へもらさない。
聞かせてはいけない相手は、マルトとメイ。
二人にないしょの話をするため、ナーナたちはこの、ふだん部外者立ち入り禁止のサキの実験室に集まった。先日ナーナが出会った、カリウスの話を三人で共有するためだった。
「それじゃあカリウス兄さんは、白の言環理師とは関係ないと言ったの?」
マイラがナーナの話を聞いて、一番重要なところを確認する。
「ええ、何か他の、もっと重大な秘密を、ロイ兄さんとアリス姉さんが抱えていたと思っているみたい」
「それは何?」
「全然わからないわ。見当もつかない。カリウス兄さんは、手掛かりを求めてあの家を家さがししてた。ただ、あの口調だと、はっきりとした証拠は見つけてないんじゃないかな」
「ロイ兄さんとアリス姉さんが秘密を抱えているのは確定なの?」
「ええ。私もそうだと思う。でなければアリス姉さんの死に方が不自然すぎる。あんな殺し合いをする必要がないもの。確かに相手はロイ兄さんの仇よ。でもグレイブリッツと事を構えれば、せっかく均衡状態を保っていたメイの身辺も怪しくなるし、そして何よりマルくんも巻き込まれるわ。あの二人はそれを恐れて別れて暮らしていたのだから、姉さんなら復讐したい気持ちもこらえたはず。何か相手に言いがかりをつけられたとしても、知らないことであれば知らないで通していたはずよ」
ナーナはそこで、一息ついた。二人から視線を外して、窓の方を見る。
まるでその向こうに真実がかくされているかのように。
やがてぽつりと、つぶやくように言った。
「……そう。復讐で姉さんが戦うはずがない。あるとすれば、口封じ……。何かとても重大なことを抱えていたのよ」
ナーナの断定に、マイラとサキはううんとうなった。受け入れがたいことだ。だが、受け入れざるをえないことでもある。
何しろ二人も、マルトを迎えに行った時、アリスが事切れた戦いのあとを見ている。死闘直後のあの池のほとりは、昨日ナーナが見た時よりもずっと荒れていて、生々しいものだった。
生前のおだやかなアリスの性格を知っていれば、彼女がそんな戦い方をするのは、よほどのことだと想像がつく。何か大きな理由があったはず。それはいったい何だったのだろうか。
「カリウス兄さんが、こちらに情報戦をしかけてるってことは……ないか。一番向いてない人材だもんね」
マイラのつぶやきにサキもうなずく。
「そう。都合の悪いことはだんまり」
その言葉に他の二人は顔をしかめた。
疑惑の中身について、カリウスは「知る必要がない」と、答えなかった。まさに、だんまりを決めこんだ。少なくとも何か、見当はつけているはずだ。
白の言環理師以上に問題になることとは、いったい何だろう。
言環理の力は色力学によって白、黒ふくめた多彩な色に分類される。中でも白の力を持つ者は、すべての色をふくむ、万能の言環理師として尊敬を集め、言環理師の組織の頂点に立つ。言環理師はこの国の軍事力の要でもあるので、その権力は絶大なものとなる。
ふつうは黒とともになかなか生まれずに、各時代にせいぜい一人、生まれなければ近い色の者が代役を務めるぐらい希少な存在なのに、現在この国には、三人の白の言環理師がいる。しかも、年はみな若い。
二人生まれた時点で権力争いが勃発。その最中にさらにメイが生まれた。
メイの才能はすさまじい。稀有な白の言環理師というだけではすまない。その白のあざやかさは傑出している。白い、という形容詞では足らず、「純白」の言環理師と言っていい。
だからこそ、メイを取りこもうとする派閥が現れ、またメイを抹殺しようとする派閥も現れた。
孤児院は言環理の力を持つ子供を集めていた。なぜか戦災孤児には言環理の力を持つ子供が多い。環境が眠れる才能を引き出すのかも知れないが、理由はよくわかっていない。だが、その子の運命に困難が立ちふさがっているのは明白だ。そのような力があるのに立場は弱い。そんな子供は容易に裏社会に取り込まれる。
だから教会ではそういう子供を特に気にかけ、一ヶ所に集めて保護している。ナーナたちもそう。「家族」はみんな言環理師だ。そんな中でも、メイの力は出色で、手放してしまえば、あっという間につらい運命の波に飲み込まれるであろうことは容易に想像できた。
なので、みんなはメイの保護に力をつくしている。
こうしてへんぴな田舎町に、護衛の言環理師を四人つけて。
一番の腕利きだったロイをそばにつけるために、アリスとの夫婦の暮らしを引き裂いて。
なのに一番影響を受けていた二人が、白の言環理師以上の秘密を抱えて、だまっていた? 人柄的にも、そんなことをするタイプじゃないのに?
三人には、それが何だかまったく見当がつかなかった。
「あ、ちょっと待って。誰か、扉の外に……」
マイラが気配を察知して、他の二人に合図する。音を遮断している言環理を解除。
「ご飯だよ」
聞こえたのはマルトの声だった。
三人は言葉なくうなずきあう。会議はここでお開き。重要な情報は共有できた。そして、疑問の答えは思いつきそうにない。
中の気配を断っていたので、開いた扉からマイラを先頭に三人が出てくると、マルトはおどろいた顔をした。
「サキだけじゃなかったの?」
「うん。お仕事の話、してたんだよ。」
仕事と聞いて、マルトが顔をくもらせる。
「また危ないことなの?」
心配そうに、マイラを見上げた。マイラはそんなマルトに、にっこりほほえむと、ぎゅっと抱きしめた。
「心配してくれるの? うれしいなあ」
それはある意味、ごまかすための行動だった。
危険度で言えば、現在の事態は最大級。他派閥との武力衝突もあるかもしれない状態だ。
子供たちにすべてを秘密にする気はないのだが、それでもあまり大きな心配はかけたくない。そもそも白の言環理師の話は、メイ自身には伝えていない。白だの黒だのと国を巻き込む騒動の中心人物であることは、幼い彼女には荷が重すぎる。彼女の色は偽装されていて、ここへも、三人がメイのお世話係だったので、いっしょに任務に連れてきたと話してある。「王宮騎士団の秘密のお仕事」だと思っているのだ。
これだけ事が大きくなってくると、そろそろそんなごまかしも限界だが、それでももうちょっと事情がはっきりしてから話したい。まったく何も知らないマルトにはなおさらだ。
だから深い質問を未然に防ぐ。先手を取ったはずだった。
そしてそれはもくろみ通りの、マルトの反応を引き出した。顔を赤くして、抱きしめるマイラの腕からのがれようとする。
「し……心配なんて……」
そしてそれはもくろみとはちがった、マルトの言動へとつながった。
真っ赤な顔をしたまま、一度マイラの顔を見上げると、突っ張ろうとした腕をゆるめ、おでこをマイラの胸元にくっつける。
そして、小さくつぶやいた。
「……ううん、してる。マイラがけがしたりしたら、いやだもん」
その言葉に、マイラはカチンと固まった。
口元にほほえみを残したまま。
目を大きく見開いて。
顔を真っ赤に染め上げて。
昨日は確かに薬の影響があった。そのせいで、ふだんは絶対しないような言動を取った。 だが、まったく思ってもいないこと、というわけではなかった。やはり心配なのだ。
マルトは恥ずかしさにためらっていたが、やがて。
「無茶しないでね」
マイラにぎゅっと抱きついてきた。
思わぬ天使の再臨に、マイラは固まったまま。顔を赤らめたまま、身動きできず、呼吸さえも止まってしまったかのよう。
そこでナーナが、マルトの肩をトントンとたたいて、助け舟を……
「マルくん、ナーナママのことも心配してくれていいんだよ?」
……助け舟?
こちらにはマルトは激しく反応した。真っ赤な顔をして、ぱっと体をひるがえし、反論する。
「お母さんじゃないし!」
「うん、だからママなの」
「だからって何!」
「マルくんのお母さんはアリス姉さんだから、私は空いているママの座につくことにしたの。ナーナママと呼んで?」
「空いてないよ! お母さんもママも同じ人だよ!」
「つべこべ言わない!」
その言葉通り有無を言わせず、ナーナはマルトをぎゅーと抱きしめた。マルトは赤い顔をして、じたばたもがいている。
ナーナは本当にうれしそう。ただ、からかっているだけではない。天使のマルくんにやられてしまったのは、マイラだけではなかったのだ。
「マルくんかわいいから、ママ、キスしちゃおうっと」
うっとりとした顔で、マルトを見つめてつぶやいた。
そんなことをさせるわけにはと、もがくマルトを、ナーナはなんと言環理でツタを生やしてしばりあげ、身動き取れなくした。マルトは、これはやばいとさらにじたばたと暴れるが、ツタはほどけない。
「はーなーしーてー!」
「そんなにいやがられたら、きらわれてるみたいで、ママ、悲しいな」
暴れるマルトに、ナーナはさびしげな顔を見せた。
半分はいつものマルトをからかう演技だが、半分は本当だった。マルトが抵抗するだろうと予想はしていたけれど、実際に拒絶されると悲しい。なので、その表情の説得力は抜群で、マルトは今度は心をしばりあげられた。
「う……」
「すきあり!」
抵抗できなくなったマルトに抱きついて、ナーナは思う存分口づける。やわらかなほっぺたに。つるつるのおでこに。
「わあ、いいなあ。私にもー!」
「いいよ。はい、どうぞ、お裾分け」
ツタにからめたまま、ナーナはマイラにマルトを手渡す。マイラもさっそくマルトにキスしたが、どちらかと言えば、スキンシップがお望みだったようだ。ほっぺたをくっつけてやわらかさを楽しんだり、鼻の頭をくっつけるようにのぞきこんでみたり、胸元に抱きしめて髪にほおずりしたり。
しかし、マルトはじっとがまん。恥ずかしさに顔から火が出そうだったが、先ほどのナーナの一言が効いていて、拒絶することができないのだ。
「サキもマルくん、かわいがる?」
二人をながめていたサキの前に、気を利かせたナーナがマルトを差し出す。
もうさんざん二人にかわいがられて、このうえサキにもなのかと、涙目で見上げるマルト。
それをじっと見つめたサキは。
すっと手を伸ばして、頭をよしよしとなでると、強制解祝の言環理をつむいだ。
マルトをしばりあげていたツタが、はらりとほどけた。
「「えー!」」
ナーナとマイラからは抗議の声。このチャンスに、マルトはあわててこの場をはなれる。
「ご……ご飯早く来てね! 冷めちゃうから!」
さんざんおもちゃにされ、ふらふらとよろめきながら、マルトは廊下の角を曲がっていった。
「もー、何でサキ、にがしちゃうの?」
「そうだよー! 次からは警戒されて、つかまえられないよ?」
気色ばんだ狩人たちに、サキはいつも通り、冷静な声で答える。
「あれ以上やったら、きらわれる」
この指摘に、マルトを獲物と見なすかのような発言をした二人も、ふと考えこんだ。千載一遇の機会に、のぼせていた感は否めない。
「……そうだね、やり過ぎた」
ナーナがそうしめて、この件はお開きとなった。
ご飯を食べに食堂へと足を向ける。マイラが笑いながら、お腹をさする。
「でも、なんかお腹いっぱい胸いっぱいで、もうご飯いらないかも」
大食漢のマイラが、食事の前にそんなことを言うのはめずらしい。でも、その気持ちもわからなくもない。ナーナが笑って応じた。
「そうだねー。私もだ」
空腹と直接の関係はないのだが、そう思うぐらいに気持ちが満たされている。二人は本当にほくほく顔で、軽やかな足取り。
サキは、そんな二人がうらやましかった。
今回は止めたけれど、本当は自分も二人のような、ああいう過剰なスキンシップを取りたいのだ。いつもと同じような態度を見せながら、心のうちは大きくゆれていたのである。
この間の山賊どもの退治の時には、傷つけられたマルトを見て、怒りにかられていきなり辺りを爆破するぐらいだ。マルトに対する愛情では、他の二人に引けを取らない。
ただ残念ながら性格的に、それを素直に表現することができない。
今もマルトをもみくちゃにする二人をうらやましく思いながら見ていたのに、自らその中に入っていくことができなかった。ようやく自分の元に来た時には、マルトは恥ずかしさのあまりもうすっかり涙目だったので、それ以上、がまんを強いることができなかったのだ。
結果、ちょっと頭をなでただけで、マルトを解放するしかなかった。損な役回りである。
そしてサキのそんな思いも、やはり外には出ない。よくよく注意してみれば、彼女がわずかに肩を落としたのがわかるぐらい。
サキはもともと子供好きな性格だ。口べたなので、うまく交流はできないのだが、子供が自分のわきで笑顔を見せてくれるだけで幸せだ。なので、ふだんからお菓子でつる作戦を決行している。白衣のポケットにはお菓子を常備。あめ玉のお姉ちゃんとして、近所では有名だった。
その上で、さらにマルトは別格だった。兄、姉と慕った大好きな二人の子供。生まれた時には、こんなに愛しい存在がこの世にいるのかと、喜びに胸がいっぱいになった。孤児院は人情にあつい院長の人柄が反映されていて、大きな家族のような雰囲気だった。そこで生まれたマルトも家族。甥のようでもあり、弟のようでもあり。そんな存在だ。
そして、ずっと会えない間に大きくなっていたマルトは、今は亡き二人の面影を受けついでいた。顔立ち全体はアリスによく似ている。ふとしたしぐさにロイを思い出す。そして、その二人はもういない。
子供たちの手前、サキだけでなく、ナーナ、マイラもあまり表に出さないようにしていたが、その喪失感はとても大きかった。そこに現れた二人の忘れ形見、マルトという存在。
あの二人に、もう渡せない分、あの二人が、もうマルトに注げない分、マルトに愛情を注ぎたい。
そんな思いがない混ぜになり、サキのマルトへの愛情が作られている。さらにはマルト自身が、とてもかわいい男の子だ。素直な性格で、意地をはったりひねくれたりしてる時でも、そういうところが顔を出す。今もそうだ。悲しいと一言言ったナーナの気持ちをおもんばかって、恥ずかしいのをじっとがまんしていた。
マイラの、動いているところをずっと見ていたいという気持ちもよくわかるし、ナーナが、からかっていじり倒している気持ちもよくわかる。でもサキもそうしたいのかというと、ちょっとちがう。彼女的には自らのために何かをするというよりは、マルトにだったら何でもしてあげたいし、マルトにだったら何をされてもいいという気持ち。狂おしいほどの献身的な愛情が、彼女の中でわきたっていた。
しかし悲しいかな、二人とちがい、サキはそういう思いを表に出すのが苦手なのだ。今もはき出すことはかなわなかった。サキのマルトへのたぎる愛情は、その胸の内に、たまりにたまっているのだった。
しかし本日は、そんなサキにはうってつけの、大イベントがあった。
おやつの時間に、子供たち二人とケーキ作りの予定なのだ。
口下手なので食べ物でつる作戦、応用編。この作戦はかなり期待できる。
サキが料理を習ったのは、アリス。つまりマルトにとっての、家庭の味。それをサキはついでいた。昨日、サキのふわふわオムレツを食べたマルトは、すっかりごひいきになった模様。マルトに食事のしたくを押しつけていたのが終わったとたんに、サキのターンがやってきたのだ。
おやつの時間はサキがマルトとたっぷり交流できる時間となった。まずは今日のケーキ作りで食べたいものを聞いた時、わがまま言ってもいいのかなと、ためらいがちにリクエストをくれたマルトの愛らしさときたら、それはもうたまらなかった。
「えっと……えっとね、お母さんがね……」
ちょっとうつむき加減でこちらをうかがいながら、口元に指をそえ、それでも期待で少し興奮したように頬をほんのり赤らめて。
ああもう私がマルくんを食べてしまいたい。マイラがそんなことを口走ったことがあったけれど、確かにサキもそう思う。
過剰なスキンシップを取れない分、この時間を堪能しなくては。サキは張り切っていた。表情はまったく変わっていないのだが、微妙に鼻息が荒い。
昼食が終わり、みんなそれぞれの仕事にもどり、しばらくしたのち。(ちなみに、ほれられ薬はやはり失敗に終わった)
サキは台所へ向かった。そこにはマルトとメイが、おそろいのエプロンをつけ、準備万端で待ち構えていた。
「サキ先生、よろしくお願いします!」
声をそろえてごあいさつ。これには表情とぼしいサキも思わず口元をほころばせた。二人そろって並んでいる様子は、昔のことを思い出させる。
本人たちは覚えていないけれど、マルトとメイは一時期、孤児院でいっしょだったことがある。赤ちゃんのうちは言環理の力が安定しないので、まだメイがはっきりと白の言環理師だと確定していなかった時期のこと。今二人がしているエプロンのようにおそろいの産着を着て、二人並んでなかよくお昼寝していた。
サキたち三人はそんな二人のお世話をしていた。ぷにぷにのほっぺをつつくと、マルトとメイはきゃっきゃと笑った。抱いた時に、ふわりとあまいミルクのにおいがした。温かい体は、抱き心地がよかった。哺乳瓶でミルクをあげると、いつも、んくんくと一生懸命飲んでいた。
そのすべてが愛しかった。守ってあげなくてはと、強く思った。
ただ、あのころサキたち三人は、白の言環理師についての大人たちの会議には、参加させてもらえなかった。メイのお世話をしていても、まだ子供で荷が勝ちすぎるとされていたからだ。
今はその三人が、子供たちにないしょで会議する。月日の流れを実感して、サキは感慨にふける。
「準備できたよー」
メイの声がその思いを破った。テーブルの上にはケーキ作りに必要な道具と材料が並べられていた。ボウルに型に計量カップ。小麦粉、牛乳、バターに砂糖、エトセトラ。
サキはそれをざっとながめて、必要な物がそろっているのを確認した。
「じゃあ、始めて」
サキの言葉にメイがうなずく。メイの顔は緊張気味。対するマルトはわくわくと期待がかくせない様子。おそろいの格好をしているが、表情は対照的だった。
なぜならこれは、メイのトレーニングをかねているから。サキがいつもやっているように、言環理を使ってのケーキ作りを、メイが行うのだ。ちゃんとできるだろうかという不安が、顔いっぱいににじみ出ている。
マルトはその助手だ。言環理が使えないマルトは重要な作業を手伝うことはできないので、作っている間にできるのは材料を用意したり片づけをしたりするぐらい。一番大きな役目は味見役だ。おいしいケーキが食べたいなという期待が、顔いっぱいに浮かび上がっていた。
本日のお題はベイクドチーズケーキ。外側のタルト部分と中のチーズクリームの部分で、混ぜる、焼くをくり返すので、トレーニングにちょうどいい。しかも、これはアリスのお得意のレシピで、マルトが食べたいおやつとも一致していた。これがマルトの期待をますます高め、メイの緊張をいっそう押し上げていた。
まずは材料を量るところから。ここはマルトの役割だ。その間、メイは両のこめかみに人差し指を当てて目をつぶりながら、ぶつぶつと、これから使う言環理の祝詞(のりと)を確認していた。
まずは下地のタルト生地。ボウルにかたまりのバターと砂糖、塩も少々。マルトが量って差し出して、さあ、いよいよメイの本番だ。これを混ぜて、なめらかにしなくてはならない。
「ベルヌーイとヘルムホルツの名においてお言環理します。流るる力、渦巻く力、途切れることなく、淀むことなく、大きく、小さく、嵐のごとく静やかに、廻り巡り給え」
メイが言祝ぐ(ことほぐ)と、どこからともなく光の玉が湧きはじめ、ボウルの中を巡りだした。これはマルトがいつも見ていた風景。この間、サキも見せてくれた。しかしそれらと、少々ちがっている。
何か動きが、ぎこちない。
サキの時にはスイスイとなめらかに動いていた光の玉が、ふらふらとたよりなげな動きをしている。かと思えばいきなりひょんっと飛び出して、あわててボウルの上にもどってきたりする。
これはタルト生地を作る次の手順、小麦粉と牛乳を混ぜるところで、さらに顕著になった。粉が飛び散る、牛乳はこぼれる。なるほど、メイちゃんが難しいと言っていたのはこういうことかと、マルトは納得した。
メイは眉根を寄せた険しい顔で、必死に光の玉を操っている。それを見つめるサキはおだやかな顔。内心ではメイのがんばりに感心していた。
最初のころに比べれば、力の制御は抜群に上手くなっている。何しろ初めのうちはボウルごとひっくり返して中身をぶちまけていたのだ。べそをかきながらそれらを片づけていたころに比べれば本当に上達した。
メイの言環理の色は白。すべての言環理をふくんだ色だ。将来、その色により約束された多彩な技を使いこなすためには、細やかな力の制御が欠かせない。メイにはそういった事情は伝えていないが、訓練は進めておく必要があった。真面目なメイは、言い付け通りしっかり練習しているようだ。
よたよたとおぼつかない足取りで回る光の玉で、なんとか生地を練り上げて、メイはほっと一息。こちらのタルト生地は、なじませるためちょっとわきに置いておき、今度は中身、アパレイユの下ごしらえだ。こちらの方が難易度が高い。
クリームチーズを湯煎にかけて混ぜ合わせる。このお湯の温度も言環理でコントロールするのである。言祝ぐのは別々でいいけれど、それを二つとも維持するのだ。お湯の温度はそこまで厳密に管理しなくてもいいのだが、意識の一部を持っていかれるだけでも、かなりの負担になる。
メイはますます険しい表情で、自分の術に意識を集中する。
そのわきにひかえたマルトは、メイの合図に合わせて、クリームチーズに次々と材料を合わせていく。
砂糖、卵、生クリーム、レモン汁、そして小麦粉。ただ、先ほどまでのタルト生地の時とはちがい、ボウルからのおこぼれをつまんでいる。
さっきはバターに、牛乳、小麦粉で、拾って食べてもそこまでしっかりした味がない。今は土台がクリームチーズ。そのまま食べてもおいしいだけに、ぽろりとこぼれた分もなかなかいける。味が変わっていくのを楽しんでいる様子。むしろこぼれないかなと待ち構えている雰囲気で、二人の表情はますます対照的になっていく。
アパレイユの生地は、メイの苦労のかいあって、なめらかに仕上がった。
しかし、ここからが本番なのだ。さらに難易度が上がる。いよいよ焼いていくのである。
「じゃ、タルトからね」
サキがそう声をかけて、自分も腕まくりをした。焼く工程はまだメイ一人では無理だ。サキも手助けをする。先ほどと同様に、二つの言環理を使いこなす必要があり、しかも今度は、両方を細かく制御し続けなくてはいけないからだ。
ひとつはもちろん、ケーキを焼くための加熱の言環理。もうひとつはそこで発生した熱を遮断して、周囲にもらさないようにする言環理だ。
言環理を使わない場合、ケーキを焼くにはオーブンを使う。その場合、中はカンカンに余熱する。それだけの熱を、さえぎるものがない状態の机の上で発生させれば、術者はやけどを負うかもしれないし、周囲のものまでこげてしまう。
「ベナールとレーリーの名においてお言環理します。天つ空に浮かび、土の元に沈み、流るるうたかた、留め蓄え、その胎の内に満たし給え」
サキが型に入れられたタルト生地に手をかざし、言環理をつむいだ。サキの手から淡い光がただようのはいつも通り。しかし、今回はその淡い光の玉はそのまま薄れて宙に消えた。特に何かが変わったようには見えない。マルトは首をひねった。
「いいよ」
サキがそう告げると、メイはますます緊張したように、顔をこわばらせてうなずいた。その口から祝詞がこぼれる。
「ケルヴィン卿とボルツマンの名においてお言環理します。高きはより高く、低きはより低く、拡散と収束、混沌と秩序、その流れ、その営み、我が手に委ね給え」
それを聞いたマルトは、これはサキがスープを温めてくれた時のやつだと気づいた。お母さんもよく使っていた、ものを加熱する言環理。
しかし、サキの時とはちがう部分もある。湯気が出ないのは、あの時はスープで液体で、こちらはケーキで固体だからだとして、おいしそうなにおいがただよってこない。メイが言環理をうまく使えてなくて、温度が上がっていないのかなとマルトは一瞬思ったが、それはちがうとすぐに気づいた。
タルトの回りの空気がゆらゆらとゆらめいている。陽炎だ。
タルトの温度は上がっている。しかもゆらめき具合からして、かなりの温度だ。そして、そのゆらめきを目で追っていくと、このからくりが理解できた。大きくゆらめく陽炎が、くっきりとあるところで途切れている。きれいな四角い透明な箱に閉じ込められているようだ。
ちらりと見ると、マルトの問いたいことがわかったのだろう、サキはこくりとうなずいた。サキの言環理が「見えないオーブン」を作っているのだ。
手を伸ばしてみると、ほんのりとした温かさは感じる。だが、中はずっと熱いはずだ。熱くなった空気が、外にもれないようになっている。
「そろそろかな」
サキがつぶやくとメイはかざしていた手をケーキの上から外した。サキがそれを確認して言環理をほどく。
ぼわんと熱い空気が解き放たれた。本当にオーブンの扉を開けたみたいだ。
サキはまた何やら言環理をつぶやくと、タルト生地を押さえている型を取り上げた。本来なら熱くてとても素手ではさわれないはずだが、型の温度を一気に下げたようだ。
チーズケーキの土台になるタルトが焼き上がった。マルトの鼻腔をおいしそうなにおいが刺激する。ふんわりとあまい、香ばしいにおいだ。思わず鼻がひくひくと動いてしまう。これはなかなか期待できそうだ。
メイはそこに、先ほどのアパレイユの生地を流し入れて整えた。さあ、もう一度焼く工程だ。同じようにサキが言環理を言祝ぎ、メイが続く。ケーキから立ち上る陽炎が、空気の壁に遮断され、四角く切り取られる。
白い生地が、どんどんおいしそうなきつね色に色づいていく。マルトの目はもうくぎ付けだ。
「うん、ちょうどいい」
サキの一言に、メイがかざした手を外すのは、先ほどと同じ。
ただ、今度は。
「ふわあああ」
メイは大きく息をはき出してのけぞると、そのままへなへなと座りこんでしまった。
「メイちゃん? 大丈夫?」
マルトはびっくりして、あわててかけ寄った。メイはすっかり力のぬけた笑顔を返す。
「うん、大丈夫だよー。ずっと緊張してたから、ほっとしちゃって……」
メイは心の底から安堵した顔。だが、その指先が、それまでの緊張を物語るように、まだ細かくふるえていた。
「み……水飲む? くんでくるね!」
マルトは急いでテーブルを回りこむと、コップに水をくみ、もどってメイに差し出した。受けとったメイは、こくん、こくんと、ゆっくり飲みほす。そのうち手のふるえも治まって、ふう、と小さく一息ついた。
それを見て、マルトは言環理の難しさについて、考えを改めた。今まで、母のアリスや、ナーナ、マイラ、サキと、腕の立つ言環理師が術を使うところしか見てこなかったので、言環理の才能がある人なら、簡単に使えるのだろうと思っていたのだ。
けれど、メイの様子を見ていると、それが思いちがいだとよくわかった。メイは真面目な子なので、きちんと練習しているにちがいない。それでもこれだけ苦労する。きっと母も三人も、こういう努力をたくさん積み重ねてきたのだ。
しかし、その苦労のかいはある。
食べる前に散らかった机の上を片づける。その間にも、チーズケーキが、そのふくよかなあまい香りで、マルトに語りかける。
ほら、早くお食べよ、おいしいよ。
まだ食べていないうちから、口の中にあまさとしっとりとした食感が広がっていくようだ。
そんなマルトの様子を見て、サキはくすりとほほえんだ。期待感で胸をいっぱいにして、よだれを垂らさんばかりの顔で、片づけをしながらもチラチラとケーキを見ている。自分たちがアリスにケーキを作ってもらった時といっしょだ。特にマイラはあんな顔、あんな様子で、ケーキを待ち構えていたっけ。
ようやく片づけを終えてテーブルの上をきれいにして、さあ、お待ちかね、ケーキを食べることになった。
マルトはもう、うずうずと体が動いてしまっている。それに対してメイの方は、うまくできたか心配顔。サキがケーキを切り分けて、二人の前に差し出した。
「いただきまーす!」
マルトは元気よく声を上げると、ケーキにフォークを入れて一切れ口に運ぶ。
予想していた通りあまくて、それでいてあま過ぎず、ふくよかで、さっぱりもして、絶妙の味わい。しっとりとした舌ざわり。
「おいしいー! おいしいよ、メイちゃん!」
マルトは興奮してメイに話しかける。しかし話しかけられたメイ本人は、少し難しい顔をしている。
「火の通りにムラが……ちょっとダマもあるし……」
確かにメイの言う通り、焼き上がりには若干のムラがある。タルトの土台でこげてしまって、香ばしいを通り過ぎて苦みが出ている場所がある。アパレイユも、全体的にはしっかり混ぜ合わさっているけれど、そうではなく、クリームチーズがかたまりとしてごろりとした舌ざわりを与えてしまってる部分がある。
真面目な分だけ完璧主義者のところがあるメイにとっては、まだ自分の至らなさを感じてしまう出来なのだ。
「でも前よりもずいぶんうまくなった」
サキがなぐさめの言葉をかける。
いや実際にメイの腕は上がっている。この年の女の子が焼いたケーキとしては、十分以上にうまく出来上がっている。
「……本当に?」
心配そうに問い返すメイに、サキはうんとうなずいた。
「ホントだよ! メイちゃん、おいしいよ! ぼく、おかわり食べていい?」
マルトはあっという間にケーキを一つ平らげて、サキの方にお皿を差し出した。
「じゃあ、ナーナとマイラの分を取っておいて、残りはマルくんに」
それを見て、メイの表情がゆっくりとほころんでいった。ただなぐさめるのではなく、本当にぺろりと平らげて、おかわりしてくれた。その行動は、千の言葉を上回る。
おせじではなく行動で示してくれたマルトを見つめるメイは、とてもうれしそう。マルトも、もう一つケーキをもらってホクホク顔だ。対照的だった二人が、ここでようやく同じ顔になった。
「それにしても言環理って本当に便利なんだね。手で作ったら、ケーキもこんなに早く焼き上がってないよね」
マルトは感心したように言う。今までアリスの作っているところを散々見てきたので、言環理で料理を作ること自体は不思議だとは思っていない。変わったのは自分自身が料理をするようになったからだ。手で作業した時の手間が実感できるようになったのだ。
思い起こせば、となりの家のハルナおばあちゃんが、よくマルトにケーキを焼いてくれたが、オーブンで焼くのにはもっと時間がかかっていた。それをサキに告げると、サキはうなずく。
「外から熱を与えるのではなく、中身全体に熱を発生させるので、火の通りは早く、加熱時間はずっと短い」
「そうかー。すごいなあ」
感心しきりのマルトに、サキはふと思いついて問いかける。
「マルくんもやってみる?」
「へ? 何を?」
「マルくんも言環理、練習してみる?」
「えっ? ぼくが? 無理無理、無理だよ。ぼくにはそんな力はないもの」
「そうなの? 色は出なかったの?」
「色って何が?」
「調べたのでは?」
「調べるって?」
どうも話がかみ合っていない。サキは首をかしげた。
「計測する道具があるんだけれど、使ったことない?」
「なにそれ。ううん、見たこともないよ」
「計ってないけど、力がないと?」
「お母さんがそう言ってた。でもそれがふつうだから、気にしなくていいよって。村の人も誰も使えないでしょうって」
サキはますます首をひねった。
そう言えば、確かにいっしょに暮らしていた時に、マルトの言環理の才能については聞いた記憶がない。それよりもメイが白の言環理師かもしれないということが大きく話題になって、そちらに気を取られていた。
アリス姉さんは計っていたのだろうか。
ただ、赤ん坊のころは能力が安定しないので、一度の計測で力がないと決めつけるのはおかしい。確かに最初に計った時に検知されないのであれば、そんなに大きな力は持っていないのかもしれないが、身の回りの生活に使う程度の力であれば、何年かしてから出現することはよくある。
ふつうは、小さい時に何度か計って確認するものなのだが。
言環理の才能は、他の身体能力と同じように遺伝するわけではない。ただ、母から子へは遺伝するケースが多い。母のアリスはずばぬけて優秀な言環理師だったのだから、まったく遺伝していないというのは、むしろめずらしい話だ。
ちゃんともう一度計ってみようとサキは思ったが、計測用の水晶は、この間、こわれてしまっていた。メイの力が予想以上に強くなっていて、設定をまちがえ、オーバーフローさせてしまったのだ。修道院に連絡して、取り寄せているところ。そろそろ着くはずだ。
サキがそんなことを考えている間にも、マルトとメイの二人はおいしそうにチーズケーキを食べている。メイもマルトにほめてもらって、自信を取りもどした様子だ。
マルトは夢中になって食べている時に、どうもすぐにお弁当がほっぺたに残ってしまうようだ。クリームチーズがくっついている。
サキはそれをつまんでしばらく思いにふけった後、マルトの口先にスッと差し出す。綿あめの時と同じ。あの時は薬の影響があったけれど、どうだろう。
ふだんはスキンシップに恥ずかしがるマルトだが、おいしいものの前だと、ためらいがなくなるようだ。差し出された指をパクリと口にくわえる。ぺろりと指先をなめられる感覚に、サキはぞくぞくと身ぶるいする。
口下手で、愛情をストレートに表すことができないサキにとって、このお菓子作りの時間は本当にごほうびだ。三者三様、幸せな時間。サキだけ少し、その幸せに人には言えない、いびつさがあるのだけれども。
夢中になって食べるマルトは、おかわりの分まで平らげてしまった。空になってしまった自分のお皿を、フォークのはしをちょっとくわえて、悲しそうな目で見つめている。そんなマルトにメイが声をかける。
「マルくん、私の食べかけでよかったら、あげようか?」
「え? そんな悪いよ、メイちゃんの分までなんて」
「ううん、いいよ。自分で作ったやつを、おいしく食べてもらえる方がうれしいから」
そう言って、メイはマルトの前に半分残ったケーキを差し出す。
「うわー、……ありがとう。いただきます」
一瞬断ろうとしたけれど、やはりケーキの魅力に勝てないマルトは、食べかけだなんてまったく気にせず、またケーキをほおばりだした。本当にニコニコとおいしそうに食べている。それを見つめるメイも、うれしそうに頬をほころばせる。
そんなほほえましい二人を見ていると、サキはやはり自分たちの小さなころを思い出す。
アリス姉さんにケーキをねだっては作ってもらっていた。ちょくちょくそこにロイ兄さんがやってきて、みんなのお皿からケーキをぬすみ食いして、さわぎになっていたっけ。ちゃんと自分の分も取ってもらっていたのに。特に食い意地の張ったマイラは大さわぎで、ロイ兄さんはそれがおもしろくてちょっかいを出していた節がある。
そう言えば、カリウス兄さんはああ見えて甘党で、自らねだるようなことはなかったけれども、アリス姉さんのケーキは楽しみにしていたようだった。表情を変えずにもくもくと食べていた姿を思い出す。
ふとサキは、先ほどの三人での会議を思い出す。
あのころは、みんななかよく暮らしていたのに。
カリウス兄さんは、本当にロイ兄さんとアリス姉さんを疑っているのだろうか。
私たちも、あの二人のことを疑わなければいけないのだろうか。
伏せられていた秘密というのは、いったい何なのだろう。
そう考えて、サキはふうとため息をついた。
それはあまいチーズケーキとちがって、苦い味がした。
まるで夜のとばりが下りたように。
その部屋は、しんと冷える暗がりに満たされていた。
外から光が入らない、しめ切られた部屋。いくつか灯るランプの灯りも、しぼられていて、心もとない。ゆらゆらとゆらめくそれが、辺りを薄暗く照らしている。
そこに浮かび上がる二人の男の影。ランプの炎によって作られ、ゆらゆらとたゆたう。
男の一人は見覚えのある姿。カリウスだ。いつものように無表情。背筋の伸びたすきのない姿勢。
その対面に座る男が一人。にぶく灯りを照り返す、銀色の髪。つり上がったするどい目つき。カリウスの仮面をつらぬく視線。椅子に腰かけ足を組むその身体は引きしまっていて、カリウス同様、すきを感じさせない。
男は暗い部屋にふさわしい、暗く冷たい声で言った。
「もし、この件が三つの派閥の力関係にも影響をおよぼすのであれば……」
カリウスが小さくうなずく。
「その場合は、事の前提自体がくずれる。修道院派に対して攻勢を仕掛けることも考えなくてはならない」
表情を変えないカリウスを、男はじっと見つめる。
「……カリウス」
その声はいっそうの冷たさを帯びて、ただでさえ薄暗い部屋が、さらに暗くなったようにさえ感じさせた。
「お前は、妹たちを殺すことができるのか?」
〈続く〉
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