第5話 マルくんとお母さんのショール

「よくもまあ、自分が殺した相手の最後の場所に、のこのこと顔を出せるものね。カリウス兄さん」

 ナーナにそうなじられた男は、表情一つ変えることなく、答えた。

「アリスを殺したのは、アレニウスだ。俺じゃない」

「そういうことを言ってるんじゃないわ」

 相手のはぐらかすような答えに、ナーナは柳眉をつり上げた。だが、男は一つも動じる様子がない。短髪にがっしりとした首、鍛え上げられた体躯。軍人かなにか、戦う人種であるのが見て取れる。しかし、その立ち姿にも表情にも、好戦的な印象はない。人形のような無表情、すっと伸びてはいるがどこにも力みのない姿勢。

 じっとにらみつけていたナーナだったが、相手のあくまで自然体の様子に、ため息を一つついた。

「はあ……わかってるわ、兄さんはそういう人だってこと。こんなことを問いつめたってむだよね。別の話をしましょう。アリス姉さんの家に行ってきたけれど、家捜しされたあとがあったわ。多分私が来る直前まで。あれは兄さん?」

 男は無言のまま返事をしない。ただ、いっしょに育ったナーナにはわかっている。兄は良くも悪くも、うそをつくことができない性分だ。自分でなければちがうと言う。だんまりなのは肯定と同じ。

「なぜ急に、ロイ兄さんとアリス姉さんを襲ったの? 今までは私たちが大人しくしている代わりに、そちらからも干渉しないという暗黙の了解があった。それをくずしてまで攻めてきたのはなぜ?」

「状況が変わった」

「ロードフォート派との間で何か? 私たちは全然聞いていないけれど」

「白の言環理師のことではない。別の疑惑がある」

 カリウスのその一言は、ナーナにとって大きな衝撃だった。

 白の言環理師。

 すべての言環理使いの頂点に立つ存在。

 その存在が、ロイとアリスを引き裂き、みんなの人生を決めた。そうだったはずだ。

「メイのことじゃないの? それは何?」

 あせるナーナに、男はまったく態度を変えずに答える。

「まだ本当に小さな疑惑だ。お前たちが知らないというのであれば、それでいい。我々の間でもアレニウスだけが強く主張していた。奴は派閥の中でも秘密主義で、その根拠は広く知らせていなかった。俺もくわしくは聞いていない。だが……」

 そこで男は視線を移し、戦いの痕跡を見た。

「アリスが命を懸けてアレニウスを倒し、その肉片一つさえも残さなかったというのであれば、その話の信憑性は増す」

 男はナーナにもう一度視線をもどした。

「何も知らなければそれでいい。今までどおり、何もするな。お前たちの白の言環理師と共にあればいい」

 そう言うと男は空を見上げた。小さな声で言環理(ことわり)を言祝(ことほ)ぐ。体の周りに光の輪が浮かび上がった。男の体もフワリと浮かび、その姿は木々の梢の上に、やがて小さく空の彼方へと消えた。

「体一つで飛んできたんだ……。冷えるでしょうに……。そういうのを気にしないのは兄さんらしい……」

 ナーナは大きくため息をついて、体の緊張を解く。

 何を考えているのかよくわからないのは昔からだが、たもとをわかった今は、害意の有る無しも読めない存在になった。

 ナーナは自分が優秀な言環理師だと自負しているが、カリウスがその気になれば、彼女を蹂躙することができるだろう。ナーナが優秀とはいえそこそこ程度、ということではない。カリウスが頭抜けているのである。近接戦闘が得意なマイラを、サキと二人で援護して懐に飛び込ませれば、かろうじて勝機はあるというレベル。

 そんな相手に、万が一の事態、正面きっての戦いになることを、ナーナは覚悟していたのだ。

 カリウスの所属するグレイブリッツ派と、ナーナの所属するハービル修道院派は、表だっては友好を保っているが、白の言環理師の一点で、深い対立をしている。

 ハービルの孤児院で寝床を同じくして育ったのだから、カリウスにもこちらについてほしいのだが、彼は愚直に雇われた派閥に従う。

 それにしても。

 白の言環理師が争点ではないという言葉は、本当に衝撃だった。この十年、ずっとその前提で動いてきたのだ。

 白の言環理師がすべての言環理師の頂点に立つと言われるのは、言環理の理論、色力学による。言環理の力の源を解いたこの理論によれば、言環理はいくつかの要素の組み合わせで表すことができ、それゆえに、人によって生来所持している各要素の大小による得意不得意が生じる。

 白の言環理師は、この要素の偏在がない。

 であれば、言環理の得意不得意を持たない。

 言環理の力を真に極めうる存在なのだ。

 なので、白の言環理師は言環理師から崇められ、その一言は集団を動かす。言環理師の組織の頂点に立ち、政治的な力も持つようになる。

 だが、そんな希有な人材が、ぽんぽん産まれてくることはなく、白の言環理師はめったに見られない。一世代に一人、下手すれば、なるべく白に近い者を代わりに据えることさえある。

 ところが現在、その希有なはずの白の言環理師が、複数名存在する。

 結果、権力争いが生じていて、政情が不安定になっている。

 グレイブリッツ派は、その中で、自分たちの担ぐ白の言環理師が頂点に立つためには、他の暗殺も辞さないという超強硬派。

 それに反対するハービル修道院派の主戦力が、ロイとナーナたち三人。

 そして、ナーナたちの白の言環理師がメイだ。

 赤ん坊のメイにその素質があるとわかった時、ロードフォート派もグレイブリッツ派も、幼い赤子を差し出すように迫った。だがどちらも、混乱の元となるこの存在を闇に葬ろうとしていると知って、ハービル修道院の長ジョージ・ハクストンは申し出を断り、中立を選んだ。それはすべての派閥を敵に回す決断だったが、孤児を育てている孤児院の長でもあるハクストンに、子供を犠牲にする選択はありえなかったのだ。

 もちろんナーナたちにも、かわいい妹を差し出す気など、さらさらない。辺境に居を構えたのは、中央の勢力争いから遠ざかるため。あの家は、メイを守るための砦なのだ。

 だがそれは同時に悲劇も生んだ。ちょうど当時、ロイとアリスにはマルトが生まれたばかりだった。メイの周囲に連れていけば、幼いマルトを危険にさらすことになる。

 この争いに巻き込まないために、ロイは愛する妻と子供と別れた。愛しい子供を守るために、アリスは愛する夫と別れた。

 そういう事情のはずだった。

 それがちがうというなんて。

 さらに言えば、あの口ぶりだと、ロイ兄さんとアリス姉さんも、そのことを知っていたことになる。

 いや、それどころか、私たちには秘密にしていたということに……?

 大きな疑問を抱きながら、ナーナは踵を返してアリスの家へともどった。

 何度か村に寄っているので、顔見知りとなった村人があいさつしてくる。アリスの結界で、彼らが村の外れで起きたことに全く気づいていなかったことは、すでに以前、確認している。今日のカリウスの訪問も、たくみに隠蔽されていて、村人は気づいていないだろう。

 先ほどの池のほとりでも、カリウスは隠形を施していた。ナーナのレベルだから気づけたのだ。アリスは自分の出自を村人には語っていなかったというし、そちらの線から手がかりを得るのも難しい。そう考えながらアリスの家にもどり、辺りを見渡した。

 家捜しをカリウスのしたことだと決めつけたのは、そのあとが「見えなかった」からだ。ナーナといっしょに家に来た村人は、部屋に入ってもまったく気づかなかった。ナーナにもぱっと見わからなかったぐらい。

 アリスの死に疑問を持っているので、こういう事態もあるだろうと、家の各所に仕掛けを施した。家捜しがあったことはそれでようやく気づいたのだ。

 ただしこれをカリウスの仕業と断定したのは、これが隠形の術の結果ではなかったから。何かの術を使った形跡はなく、人の手によるものだったからだ。

 そこかしこを乱暴に引っかき回すようなことはせず、ていねいに一つ一つ片付けてある。兄らしいことだとナーナは思った。

 そんな兄が、白の言環理師と共にあれば今までのように手出しはしない、と言ったことは信用できる。

 だが他の疑惑があり、ロイとアリスが殺されたのだと言う。

 ナーナは机の中の記憶水晶を取り出し、机の上に置く。言環理を言祝ぐとありし日のみんなの姿が浮かび上がる。この間見た、マルトといっしょに写っている物の他にも、いくつもの思い出がしまい込まれていた。

 その中には若いカリウスの姿もあった。

 この記憶水晶には、見つかれば必ず調べられるだろうと、言環理を施しておいた。やはりカリウスがそれを解いたあとが残っていた。

 彼はこの映像をどういう思いで見たのだろう。

 触れたあとを残さないように、きれいに整えられたアリスの寝室。

 この部屋を片付けていたカリウスに、せめてアリスに対する愛情が残っていればと、ナーナは願った。


 予定外の遭遇があったが、ナーナは当初の目的、マルトの冬物の服をまとめ始めた。

 ただ、育ち盛りの子供だと、去年の服はもう入らないかもしれない。

 一応、この間マルトにスーツを用意して着せ替えに興じたので、サイズはだいたい把握している。一つ一つながめながら、着れそうなものを選別していく。

 ここは小さな村で、見たところ、専門の仕立屋はなさそうだった。どの服もアリスの手によるもの。しかもアリスは息子を溺愛していたようで、お手製の服がたくさんあった。

 アリスは料理裁縫何でもござれの家庭的なタイプの人だった。昔、いっしょに住んでいた子供のころ、ドレスを作ってくれたことを思い出す。お姫様みたいな服が着たいというナーナたちの要望に、アリスが応えてくれたのだ。

 当然もう着れなくなってしまったけれど、実は今でも取ってある。あれ、そろそろメイが着れるんじゃないだろうか。ふだん着る機会は少ないだろうけれど。

 そんなこと考えながら見ていると、目の前のマルトの服にも愛おしさが増してくる。

 それにマルトはもう、アリスに新しい服を作ってもらうことはないのだ。これはお母さんが作ってくれた最後の服たち。

 そう考えると、持っていく服の選別は、ますます難しくなっていった。

 やがてとっぷりと日が暮れたころ、ナーナはようやく服の選別を終え、今度は厳重にアリスの部屋の戸締りをして、やっと帰路に着いた。

「ただいまー」

 家に着いて、玄関を開けて声をかける。出る前にマルトに言ったように、帰りは大荷物になっていた。マルトの冬物だけではなく、他にも入り用の物や思い出の品など、ついつい積み込んでしまったのだ。

 帰りが思ったより冷え込みそうだと、ナーナ自身もアリスのショールを一つ、拝借していた。アリスの物に肩を包まれていると、小さなころ、アリスに抱きしめられたときのことを思い出して、じんわりと心も暖まった。

 あの家はアリスが建てたのではなく、貸家だそうだから、そろそろ荷物を整理して、引きはらわなければならない。アリスの私物を形見分けしてほしいけれど、お母さんの物を私たちが身に着けることを、マルくんは許してくれるだろうか。

 そんなことを考えながら荷物を運び入れていると、ふと違和感を覚えた。

 いつもであれば、すぐさまおかえりと返事をして、パタパタと出迎えに来てくれるマルトの声がしない。姿も見えない。

「おかえりなさい」

代わりにひょっこりと顔を出したのはメイだ。ナーナはたずねた。

「マルくんはどうしたの?」

「えっとね、寝てるの」

 そう答えるメイの顔は少し困惑気味。ただ寝ているだけではない様子。違和感が増して、ナーナは質問を重ねる。

「もしかして体調でも悪くした?」

 ナーナの問いに、困ったような顔は変わらず、メイは答えた。

「体調は悪くしてないと思うんだけど……ううん、やっぱりなんか悪いのかもしれない」

 メイの返事の歯切れの悪さも、いつものしっかりとした様子とちがっている。何事だろうと心配になって、メイに連れられて台所に向かった。

 台所に入ると。

 そこには椅子に座っているマイラの後ろ姿と、その脇で眉をひそめて立ちつくしているサキの姿。

「いったいどうしたの?」

 ナーナはサキのとなりに行き、マイラをのぞきこんだ。

 顔を赤らめ恍惚とした表情でふぬけているマイラと、その胸に抱かれて眠っているマルトがいた。

「……どうしたの、これ?」

 ナーナもサキと同じように、眉をひそめた。これはある意味、異常事態だ。お姉さんたちに散々もてあそばれているマルトは、いつもなら恥ずかしがって、こんなあつかいにあまんじていることはない。

 いったい何事、といぶかしんでいると、視点の定まらない顔で、マイラがつぶやいた。

「天使が……」

「?」

「……天使がね……マルくんに降りてきたんだよ……」

 マイラは何を言っているのか? ナーナは頭の上に大きなはてなマークを出して、メイを振り返った。

「天使っていうか……マルくんが帰ってきたマイラにやけに優しくて、自分からご飯を作ってあげると言ったり、けがしたマイラの右手に気がついてご飯を食べさせてあげたり、最後はこんなふうに抱きついたまま寝ちゃって……考えてみたら、今日はちょっとおかしかったんだよ。私のことも急に師匠とか呼び出したし。いつもより、気持ちの上がったり下がったりが激しい感じで……」

 説明するメイも、とまどっている様子。

「躁鬱気味だったの? 昨日あんなことがあったからかな?」

 ナーナも、マイラの思考のあとを追う。孤児院には、ナーナたちをふくめて戦災孤児が多くいた。来たばかりの小さな子供が情緒面で不安定で、夜泣きをしたり、幼児返りをしたりということはよくあることだ。

 ただ、メイの言った「師匠」が気にかかる。不安をうったえるだけでなく、気分が上がる方向にもおかしいのだとしたら、何か別の要因がありそうだ。

 これが大人だったら、変なクスリでもやってるのかと思うところ……。

 そう考えてナーナは、はたと気づいた。

「サキ! 朝、マルくんに飲ませていた薬は何?」

「あれは……栄養剤と、昨日のことがあったから、気持ちを上向きにさせる薬」

「「それだ!」」

 ナーナとメイが声をそろえる。

「でも、あの薬はそんなに強くないはず。ちょっと神経を興奮させる程度の……」

「そう言うけどサキ、あなたいつもマルくんにあげる薬の時だけ、変な効果が出ちゃってるじゃない。神経に効く薬ならまさにそれだわ。そのせいで気持ちの上下動が極端になっちゃってるのよ」

「マイラが帰ってくる前に、お仕事の話をしてたよ。いつもあんなに危ないことしてるのかって、マルくんは気にしてた。三人そろってはめずらしいけど、マイラはふだんからそういうお仕事してるって私が言ったから……」

「それでかー。サキ、この薬は本来そんなに強くないんだよね?」

「大丈夫。一晩寝れば抜けるはず……はず」

「ちょっと不安だけれど……じゃあ、もうこのまま寝かしちゃいましょうか。マイラ、マルくんをベットに運んであげて」

 恍惚とした表情から立ち直って、マルトの異変の原因について聞き入っていたマイラだったが、このナーナの言葉にはぶんぶんと首を横に振った。

「マイラ?」

「ダメ。マルくんが抱きついてきてくれたのがうれしくて、起こさないようにずっとこの姿勢だから、足が……足がしびれて立てない」

「もう」

 ナーナはあきれた声を上げ、マイラの膝の上からマルトを抱き上げた。

「あ、天使! 私の天使がー!」

「しょうがないでしょ。ほら見なさい。立てないんだから」

「うわああああん」

 天使のマルくんを取りもどそうと立ちあがりかけたら、足のしびれでひっくり返りそうになって椅子にしがみついたマイラがさわいでいると。

「ううん」

 マルトが身じろぎして、まぶたを薄く開けた。

「あー、ごめん、うるさかった?」

 そっとかけられたナーナの言葉に、マルトが顔を上げる。

 マルトと同じ色の、アリスによく似た淡い色のナーナの髪。それもあって、本当の姉妹みたいだとよく言われた。そして寒い帰りのために借りてきたアリスのショール。

 だからだろう。

「お母さん」

 マルトはそうつぶやくと、にっこりとほほえんだ。

 そしてナーナの胸元に顔をうずめて、またおだやかな寝息を立てる。

「お母さんって……。マルくん、寝ぼけてるんだね。……ナーナ?」

 マイラの見上げた先で、ナーナは赤い顔をして、マルトの顔をじっと見つめ、立ちつくしていた。

「……ダメ。天使がいるわ。私も動けない。動きたくない」


 翌朝。

 目覚めたマルトは、布団にくるまったまま、身もだえしていた。

(ぼく、いったいどうしちゃったんだろう?)

 昨日のことを思い出していた。何か一日ずっと、テンションがおかしかった。

 マイラが危ない仕事をしていると知って、心配するところまではいい。それは今でも、そう思う。

 しかし、心配のあまり、ぎゅっと抱きしめたりとか、マイラに優しくしたくなってあーんとしたりとか、胸に抱かれて眠ったりとか。

 あげく、ナーナを「お母さん」と呼んだ気がする!

「うわああああ」

 マルトは恥ずかしさのあまり、布団を頭の上まですっぽりかぶって、中でじたばたと暴れた。

「マルくん、起きたの?」

「!」

 その音が聞こえたのだろう。扉が開いて、ナーナが顔をのぞかせた。

 やばい、昨日のことを言われる! マルトは身を固くして身構えた。

 だが、その予想は外れた。

「ご飯食べないでまた寝ちゃったから、おなかすいてるでしょ。朝ご飯できてるよ」

 ナーナはそれだけ言うと、ベッドのわきに寄ってきた。その顔はあくまでも優しく、いじわるくからかう様子はみじんもない。

(気がつかなかったのかな?)

 マルトは一瞬そう考えたが、いけない、いけないと、その考えを打ち消した。相手はナーナだ。油断をさそっているのかもしれない。

 じっと布団の中から様子をうかがう。

 ナーナはそんなマルトに、ちょっと小首をかしげると、こちらにかがんで両手を差し出してきた。マルトを抱き上げて起こそうとしている。

 それはよくマルトが、寝坊した時にお母さんにされていたやつだ。

「ち、ちがうからね!」

「?」

「お、お母さんって言ったの、ちがうから! ナーナがお母さんのショールしてたから、寝ぼけてまちがえただけだから! ナーナがお母さんみたいだって話じゃないから!」

 マルトはとっさに言い訳をした。

 ナーナはきょとんとした顔でこちらを見ていた。

 やがてゆっくり口の端を上げると、瞳にいたずらっぽい光が宿る。

 マルトは自分が墓穴を掘ったことに気づいた。

 両手を広げたナーナは満面の笑みで言った。

「マルくん、お母さんにおはようのキスしてくれないの?」

「!!!!」

(本当にもう、かわいいなあ)

 真っ赤になって、また布団を頭からすっぽりとかぶったマルトを見守りながら、ナーナは思った。

 ナーナには当初、昨日のマルトの様子をからかうつもりはなかった。

 特にお母さんについては、触れるつもりはなかった。

 母親を亡くしたというデリケートな問題が、マルトの心にどういう影を落としているのか、そこは注意深く見なければいけないところ。無造作に触れるつもりは、まったくなかったのだ。

 それに亡くなったアリスとは、自分たちも親しかった。彼女自身の心にも、アリスの死は影を落としていた。軽々しくあつかえるものではない。

 でも真っ赤な顔をして必死に言い訳しているマルトを見ると、そこまでの配慮は杞憂だったようだ。母の死の悲しみが、まだマルトの心に残っているのは確かだ。母の夢を見ていたらしく、ひとすじ涙を流しながら、小さく寝言で呼んでいた様子を見たこともある。

 でもそれにとらわれて、がんじがらめになってるわけでもない。

 マルトの本意ではないかもしれないが、こうして私たちがからかって構うことで、少しずつ癒されている。

 きっとそれが、あの二人が、私たちにマルくんを託した理由。

 そして同時に、あの二人が、私たちにマルくんを残してくれた理由。

 愛おしさいっぱいに、でもそれを素直に出すことはできず、ついついからかうようにナーナは恥ずかしがって逃げようとするマルトをぎゅっと抱きしめて、ほっぺたにたくさんのおはようのキスをしてあげた。


 二人がマルトを託した理由。

 この時はまだ、そこに大きな秘密が隠されていることを、ナーナは知るよしもなかった。


〈続く〉

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