ちぐはぐ
真名瀬こゆ
ゆっくりと時間をかけて歪みはすれ違いを生む
部屋に差し込む日差しは暖かだが、開け放たれた窓からは寒気が入り込んでくる。
久しぶりの休日だからといって、身に沁み込んだ生活習慣は抜けるものではない。無駄に早起きをした俺は、ただでさえ生活感のない部屋から、更に生きた痕跡を消し去る為の掃除をし終えたところだった。
換気も十分だろうし、と窓を閉めれば、周囲の空気がじんわりと暖かくなっていくのが感じられる。やるべきことはやった、あとは休日の言葉通りに休めばいい。
「ショウ君」
俺が一段落するのを待っていたかのようなタイミング。甘ったるい声に顔だけで返事をすれば、声の主は満足そうに笑みを深くする。
彼女がそうする理由は俺には全く分からなかったけど、その顔は好きだったから俺も笑い返した。
俺より年下であることだけは確かな女の子は、二か月前から俺の家を寝床にしている。親戚でも、友達でも、知り合いでもない。
何の関わりもなく生きていた俺と彼女が出会ったのも同じく二か月前。
気力もなく、疲れた歩き方で家へと帰る途中に俺は彼女を見つけた。
俺も彼女も下を向いて歩いていたらしく、ぶつかりそうになるまで、お互いの存在には気付いていなかった。突然視界に入ってきた人影に、自然と足は止まる。続けざまに彼女も足を止め、俺を見上げた。
お世辞にも綺麗とは言えないワンピース、履き潰したスニーカー、ぼさぼさに伸びきって痛んだ髪。俺の肩にも届かない背の小柄な少女は、見ただけでその日暮らしをしていると判断出来る様相をしていた。
葬式帰りで、かっちりとスーツを着込んだ俺とは正反対だったから、よく覚えている。
「……」
食い入るように見つめる俺の目線を受けても、彼女は嫌そうな顔はしなかった。きょとん、とした顔で首を傾げ、無言のままの俺を真っ直ぐに見つめ返されたのだ。
「君、……どこに行くの?」
思い返せば、不躾にも程がある。でも、俺にはそれしか言うことが出来なかった。言葉になっていただけマシだったと思う。
「うーん、分かんない」
他人事のような返事を聞いたのと、彼女の手を取ったのは同時だった。
汚い身なりでふらふらと歩きまわっていた彼女を連れて帰ったのは、衝動買いと同じ心境。連れて帰りたいと思ったから、連れて帰ってきた。
彼女も行くあてがなかったようで、人攫いに違いない俺の行動をすんなりと受け入れて見せた。後に聞いた話だが、彼女は買われたつもりで俺に着いてきたらしい。心外だ。
「ショウ君!」
「何だよ」
強い口調で名前を呼ばれる。
俺の思考が目の前の自分を無視して、他に向いているのが気に入らなかったんだろう。とは言っても過去の彼女の事なのだから、俺にしてみれば他とも言い切れない。
二ヶ月も一緒にいれば、見たくもないボロは自然と見えてくる。それは彼女にとっても同じだと思うが、彼女が顕著な意思表示をするのはこういう時だけだった。
「……なんでもなあい」
間延びした話し方は嫌いだった。けれど、文句を言う気にはならない。一つ切り出せば、際限なく言い続けてしまいそうだからというのもあるが、それも彼女の個性と思えば、なんとなく受け入れられそうな気がしていたから。
「今年は暖冬なんて、嘘だよねえ」
「暖冬暖冬って、ここ数年毎年聞いてる気がする」
「うんうん」
窓際から離れ、部屋の中心に置かれているソファーに沈み込む。ようやく一息つける。
頃合いを見計らっていただろう彼女も、両手にマグカップを持って隣に座った。彼女の出来る数少ない事の一つが「俺にコーヒーを入れること」だった。
「そろそろ、コーヒー以外にも掃除くらいはしてもらわないとな」
「前に灰皿落とした時に、もう掃除はいいって言ったじゃん」
「あれは酷かった。カーペット買い替えたし」
彼女は家事一つろくに出来やしないし、電話や宅急便の対応も出来ない。不器用と言うよりは無知に近いのかもしれない。
でも、俺には今までどうやって生きてきたのかとか、そういうのに興味はなかった。彼女にそこまで干渉するつもりはない。
「ねえ、ショウ君」
彼女はよく俺の名前を呼ぶ。さっきみたいに意味なく呼ぶ事も少なくない。
「写真、撮ろうよ」
俺の視界いっぱいに突き出された物は、俺の携帯電話。それを通り越して彼女を見れば、何を考えているかはすぐに分かった。
彼女は俺の思い出に対抗しようとしている。これ見よがしに机の上に置かれている写真立ての中身に。
俺と姉さんとが映る写真、照れくさそうに笑っている自分が気持ち悪い。でも、あの瞬間が幸せだったのは本当のことだ。
その幸せを今はもう味わえないのも本当のこと。
「別に撮っても良いけど、飾らないからな」
「えー。じゃあ――」
「待ち受けも却下」
む、と不満そうに閉口した彼女は、納得してはいないようだった。それでもカチカチと人の携帯をいじっているのを見ると、写真だけはどうしても撮りたいらしい。
「よし。カメラ見てー」
「はいはい」
ぐいぐいと俺を押すように側に寄ってきた彼女は、腕を真っ直ぐに伸ばして携帯を構える。写真に映るのは久しぶりだ。もしかしたら、飾られている写真以降、初めてかもしれない。
「はい、笑ってえ」
考えが遠のいているうちにシャッター音が耳に届いてくる。これが卒業アルバムの撮影なら、撮り直しを要求したいところだが、今回は別に構いやしない。彼女の機嫌取りみたいなもんだし。
「表情固い」
「そんなの知らない」
彼女は手元の携帯と写真立ての中身とを見比べて、がっかりしていますと公言するように肩を落としている。感情表現が大袈裟な所は嫌いじゃない。見ていて分かりやすいし、無反応よりは反応が有るに越したことはない。
「やっぱり、私はショウ君のお姉さんにはなれないなあ」
「……そんなの当たり前だろ?」
俺が彼女を連れてきたことの理由を彼女が悟ったのは、あの写真を見たからだったと思う。俺からは何も言ってない。むしろ、連れてきたのは衝動だったのだから、理由なんて説明できない。
彼女は本当に姉さんの代わりになれると思っているのだろうか。姉さんの代わりになることが俺への恩返しになると思っているのだろうか。
だとしたら、なんて自意識過剰なんだろう。
「にしたって、ちっとも笑ってないよ」
でも、一番滑稽なのは俺。
恩なんて言っても、もしかしたら連れて来られたのは彼女にはいらぬ世話だったかもしれない。現に彼女は二か月前までどうにかして生きてきた訳だし。
この子は知らないふりをしているだけで、きっと俺がどう思っているかを全部分かってる。少なくとも、写真を見ている以上、何も知らない訳ではないのは確かだと言える。それでも、こうして俺に接してくれる。彼女のそういう所は、結構好きだ。
だから、姉さんの顔をしているこの子とじゃなくて、偶然知り合っただけのこの子と仲良くしてみたい、と思ってしまう事もない訳じゃない。
「なあ」
懲りずに携帯を睨みつけていた彼女は、目線だけを俺に寄こした。
「名前、なんていうの?」
間髪を入れずに、彼女は俺に携帯を投げつけてきた。全力で投げたのだろう、正直、携帯の当たった腕は本当に痛かった。けれど、そんなことに構ってはいられない。
俺よりも数段に痛そうな顔をしていた彼女は、逃げるように自室へと走り去る。その背中にかける言葉は見つけられなかった。
「……なんで今まで自己紹介もしてなかったんだろ」
独り言は寂しく響く。後悔しても遅い。俺は傷つけてしまった彼女への謝罪の言葉を必死に考えた。
*****
私がショウ君について知っていることは少ない。
一つは、名前がショウっていうこと。本人から聞いた訳じゃなく、勝手に電話をとったら相手が彼をそう呼んでいた。
もう一つは、ショウ君が私をここに連れてきたのは多分、お姉さんの代わりだということ。これも本人に聞いたことはないけど、写真の中のお姉さんは私と瓜二つだし、その隣で笑っているショウ君は見たことがないくらい幸せそうだ。
「ショウ君」
それから、名前を呼べば、絶対に何かしらの反応を返してくれる。無視された事は一度もない。試しに、考え事をしている時に名前を口にしてみたけど、一度の呼びかけで必ず応えてくれる。何度試したって、結果は同じ。それだけで、なんだか私は幸せだった。
二ヶ月前に手を引かれた事は今でも覚えてるし、忘れるつもりはない。
手を引っ張られて連れて来られた家は、綺麗で立派で、私には一生縁もないようなところ。掴まれた手が暖かいなあ、なんてぼけっとしていたら、彼の家まで連れて来られていた。
変にふわふわと足場のなかった思考が急速に冷え切っていく。
生きていく為の手段の一つとして、身売りを考えたことはあった。けど、それを実行に移す覚悟も勇気も私にはなかった。
家に入る前に逃げないといけない。意を決して、手を振り払おうとした途端、私の手の拘束は解かれた。
「え?」
「コンビニ寄ってくればよかった」
ぽつり、と呟かれた言葉はきっと独り言だったのだろう。彼は財布を取り出すと、ついさっきまで彼が握っていた私の手にそれを持たせた。
「女の子が必要なもの分かんないし、分かっても買う勇気ないから、自分で買ってきて。あとついでになんかお菓子も、あと煙草も――って、君には売ってくれないか」
自嘲気味に笑ったショウ君の横顔は、可愛げがあった。毒気のなさに流され、私は考えもなしに頷いていた。
満足そうな顔で送り出され、言われたままにコンビニで買い物をした私は、お会計の時に驚きすぎて思わず声を漏らしてしまった。店員さんは不思議そうな目で私を見たけど、あれは初対面の私にカードから免許証まで入った財布を持たせたショウ君が悪い。現金の多さも衝撃的だったけど。
それを持って逃げる気は、ちっとも起きなかったと言えば嘘になる。でも、ショウ君のところに帰りたいと思う方が強かった。
本当のことを言えば、なんで連れてきたのか、ちゃんと問い詰めたい。けど、そのせいでショウ君と離れたりするの嫌だ。元は何の関わりもなかったけど、こうして一緒にいられるのを自分から壊したくはない。
それなら、代用品としてでも良いと思ってた。
でも、ショウ君と撮ったばかりの写真を眺めていると、段々と欲が湧いてくる。私の隣にいる彼が、机の上の写真よりも幸せそうに笑ってくれたらいいのに。
却下されたけど、そんなのお構いなしに待ち受けに設定した。でも、ショウ君はきっと怒らない。私が掃除に失敗したって、勝手に電話に出たって、怒ったことは一度もない。
ショウ君は必要以上どころか、私から歩み寄らない限り、私と接しようとはしてくれない。話しかければ応えてくれるし、話して欲しい雰囲気を私が出していれば、空気を読んでくれる。
でも、ショウ君が私に興味を持っていない。それは言い切れる。
「なあ」
だから、どうしたらいいか分からなかった。
「名前、なんていうの?」
初めて私に向けられた言葉。
感情がぐっちゃぐちゃに混ざり合って、自分のことなのによく分からなくて。嬉しいはずなのに、涙が溢れた。そんな不細工な顔、ショウ君にだけは見られたくなくて、手にしていた彼の携帯を思いっきり投げつけて部屋に逃げ込んだ。
ぎゅうぎゅう締め付けられる胸が痛くて痛くてしょうがないのに、すごくすごく嬉しかった。
ちぐはぐ 真名瀬こゆ @Quet2alc0atlus
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