第26話 苦悩する孫尚香

「兄弟、陸路を使えば戦闘に巻き込まれるぞ。」


「確かに連中は我々の帰路を予測して封鎖している筈だ。交州回りで帰国する事は可能だが最後の手段として置いておきたいな。」


魏延と胡車児は荊州へ帰る方法を考えたが良い案は浮かばなかった。主な街道は封鎖される可能性が強いので交州経由で帰る事は可能だが大回りになるうえに交州の気候で体調を崩す者が出る事が考えられるので二の足を踏んでいた。


「心配は無用だ。既に手は打っている。」


魯粛は水軍を準備していると伝えた。魯粛の後を継いで水軍都督になった徐盛が建業に来ていた事が幸いした。徐盛は同盟賛成派に属しており水軍の本拠地である江夏の太守も兼ねている。魯粛が善後策の相談を持ち掛けたところ快諾したうえに襄陽まで送り届ける方が安全だとして水軍の利用を提案した。


「それでは帰国の方法について魯粛殿に一任させて頂きます。」


「任せてくれ。私が責任を持って荊州に送り届ける。」


魯粛を見送って二人は客舎に戻り帰国の準備を再開した。


*****


「兄弟、あの男信用して良いのか?」


帰国の準備がひと段落したのを見計らって胡車児は魏延に不満をぶつけた。


「信用するしかない。軍師殿も言っていただろう。困った事があれば魯粛を頼れと。」


「確かに言っていたが。」


魏延の言葉で龐統から言われた事を思い出したが胡車児はまだ納得出来なかった。


「あの男は呉軍大都督。言葉の重みは心得ている筈だ。」


「あいつが黒幕だったらとは思わないのか?」


「私は魯粛殿を信用する。万が一何か起きれば我が身に変えても奥方には荊州に戻って頂く。」


「分かった。兄弟がそこまで言うなら俺は何も言わん。」


魏延の説得に胡車児も折れざるを得なかった。納得していないが魏延の言う事に外れが無いので信用するしかなかった。


*****


夜が明けるとすぐに魏延は孫尚香が滞在する客殿に足を運んだ。


「奥方様、魯粛殿より呉軍内部で不穏な動きがあると知らせが参りました。」


「私を拐かして荊州に帰れなくするとでも?」


「その通りです。」


孫尚香は魏延の話を聞いて主犯が呂蒙である事を察した。国の事情で仕方ない面もあるが、先般の件で謹慎させた呂蒙を復帰させていた孫権に対して疑いの目を向けざるを得なかった。


「文長殿、荊州へ戻る手立てはあるのですか?」


「水軍を使います。その為に魯粛殿が動いております。」


子敬魯粛には感謝しなければなりませんね。」


魏延とは普段と変わらぬ口調で話をしていた孫尚香だったが孫権や呂蒙に対する怒りのあまり手に持っていた扇をへし折った。


*****


準備を終えた一行は呂蒙ら同盟反対派に見つからないよう夜の間に港に移動して軍艦に乗り込んでいた。夜明けと共に都督の徐盛も点呼を終えて軍艦に乗り込んできた。


「徐盛殿、ご無沙汰しております。」


「交趾でお会いした魏延殿か。お元気そうで何より。」


「この度はご面倒をお掛けします。」


交趾で停戦交渉を行った間柄なのでお互い顔は覚えていたがその時の魏延は礼服を着ていたので徐盛は魏延が名乗るまで分からなかった。


文嚮徐盛、面倒を掛けます。」


「姫様、此度の件は全て我々の不手際が原因です。お気になさらなよう。」


孫尚香に声を掛けられた徐盛は慌てて挙手の礼をして今回の一件を詫びた。


「文嚮、子明呂蒙は孫家を潰ぶすつもりなのですか?」


「あの男は孫堅様の悲願を叶えたいという思いが先走っているようです。孫劉が争うのは愚策だともう一度言い聞かせます。」


「分かりました。しかし玄徳様も度重なる暴挙を許すほど寛容ではありません。」


孫尚香は丁寧な話し方をしていたが怒っているのは傍から見ても明らかだった。それに劉備も自身に加えて夫人も襲われそうになったと聞けば激高して呉と断交・開戦に及ぶ事も考えられる。魯粛や徐盛が呂蒙ら反対派を抑え込む事で劉備の怒りを鎮める事にもなると孫尚香は考えて徐盛に対して厳しい言葉を投げ掛けた。


*****


魏延は休息を取っている侍女に代わって船尾に居る孫尚香の護衛をしていた。孫尚香は建業の方向を物憂げな様子で眺めており、時折ため息をついていた。


「次に呉へ帰る機会があるとすれば単なる里帰りではなく敗戦に打ちひしがれた故郷を案じて帰郷する事になるかもしれませんね。」


「奥方様。」


「文長殿、私がこんな事を言うのは不謹慎でしょうが呉を信用してはなりません。」


「荊州と呉が将来争うとお考えですか。」


「今の呉を見ているとそのような気がしてなりません。仮に子明が大都督になるようなら呉と一戦交える覚悟をしなければならないでしょう。」


孫尚香は魏延に対して劉孫同盟がいかに脆い存在であるかを語った。孫尚香も劉孫同盟が長期に渡って続くとは思っておらず何かを切っ掛けに瓦解すると考えていた。その切っ掛けが前世と同じく呂蒙が大都督になる事だろうと予想していた。呂蒙が前世以上に危険な存在になっている事を魏延は改めて思い知らされた。

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