第二章 散ったハナびら 椎名花火
第一話 仲間意識
女子は苦手だ。正確には女という存在そのものが受け入れがたいもののように感じる。何を考えているのかわからないし、気まぐれで、すぐ癇癪を起こすし、できれば人生で関わることはないことを常日頃から願っている。
俺が幼い頃に両親は離婚した。母親に引き取られ、俺たちは新築だった家を出た。まだ物事の善し悪しさえ区別がつかなかった俺には離婚の理由を知らされなかった。小学校に上がっても尋ねることはなかった。父親のことを訊くと、急に不機嫌になって母親は怒鳴り散らすからだ。
極力女子との交流を避けている俺でも同い歳の女子を一度だけ泣かしたことがある。
小学三年生の春だった。
初めてのクラス替えで新しくなったクラス。俺は期待と不安の両方を胸に教室の扉を開いた。知らない奴、親しい友だち、顔見知り程度の奴、様々な存在が入り乱れていた空間だった。
『花火、はよー』
一番に挨拶してきたのは一・二年と同じクラスだった
『なんか転校生来るっぽいよ』
『転校生?』
聞き慣れない言葉だ。転校生。頭の中で反芻する。どんな奴だろう。新しくなったばかりのクラスでまた新しい奴が増える。誰も知らない、名前も、顔も、声も、なにもかもが未知な存在だった。
『男だといいなー、そしたら休み時間にドッチボールしようぜ』
繰斗の言葉に俺も頷いた。ちょうど予鈴が鳴って繰斗は自席に戻っていた。
騒ついた教室は扉を開く音で静まりかえる。担任が入ってきて転校生の存在を告げた。
教室の扉が遠慮がちに音を立てた。白い鼻先と肩より長い黒髪が姿を現わす。小さな背中は赤いランドセルを背負いながらまっすぐに伸びていた。
『
特別目立つような奴ではなかった。他の女子と変わらない普通の女の子。だけど、そう名乗った彼女の声はなぜか耳に残った。
千種の席は窓際の一番後ろだった。後づけしたような机にランドセルを置き、教科書を出している。隣の席は繰斗だった。繰斗はぎこちなさそうにしながらも千種に話しかけている。知らない相手でもすぐに話しかけられる繰斗は本当にすごい。俺なんてクラスの女子と話すだけで手汗が尋常じゃないくらい出る。
休み時間は千種の周りに人が集まった。遠くから彼女へ視線を送る生徒もいる。きっとみんな物珍しく感じているのだろう。転校生なんて初めてだし。
俺はというと、完全に蚊帳の外だった。女子が苦手だから千種と話すこともできず、繰斗と話すにもあの人だかりへ飛び込んでいく勇気もない。繰斗は輪の中心で千種のマネージャーの如く転校生へ群がるクラスメイトたちをさばいている。俺も繰斗みたいになれたら、こんなところで一人寂しく休み時間を持て余すことはなかった。
俺が繰斗だったらいいのに。
昼休みにクラスの女子たちは千種をつれて校庭へ駆けだしていった。いつもなら男子が我先にとボール遊びのために教室を飛び出していくのだが、今日だけは違う。千種にこの学校のことを教えたくて、千種と遊びたくて、たった一人の女の子が転校してきただけなのにクラスメイトの女子たちは新しい玩具を与えられた子どものようにはしゃいでいた。
慌ただしい日々も半月が過ぎると、落ち着いて千種も転校してきて間もないが、クラスに馴染んでいた。
女子には特有の友だちの作り方がある。絶対に一人ではなく誰かといっしょでないといけないという暗黙のルールがあり、誰もがきちんとそれを守っていた。〝誰かといっしょ〟を確立できるのは始めが肝心で、機会を逃したらぼっち確定と言っても過言ではない。
クラスでも女子のグループは四つに分かれていた。
クラスの中心、俺たち男子とも交流が深い一軍グループ。気が強い女子がこのグループに多い。どのグループよりも群衆力があり、何をするでもみんないっしょなのだ。少し気持ち悪い。転校初日に繰斗と交流があったおかげか千種は一軍女子グループに所属していた。
全体でも発言力がそれなりにあって、リーダーシップも発揮し一軍女子とも交流がある二軍グループが二つ。派閥は異なるがそれぞれの仲は良好である。
残りがおとなしい女子たちが集まった三軍グループ。本当に残りものが集まりましたって感じのグループだ。結束力は固いが、ひとりひとりの力は一軍より劣る。
女子はこんなピラミッド社会を誰が決めたわけでもないのに強いられて生きている。俺ならこんな苦しい生活は一日も送れない。大人がやっているように他人へ気を配って神経削って誰よりも自分の立場を守ろうとする。そんなの、生きづらくないのだろうか。
ある日の放課後、俺は忘れものを取りに教室へ戻った。扉は開けっ放しで中に入ると、千種が窓の外を覗いていた。他に教室に残っている生徒はいない。
『千種』
普段なら苦手意識が働いて女子に話しかけるなんて到底できないことだが、今は自分でも驚くくらいすんなりと言葉が口から出た。
俺の声に驚いて千種は肩を震わせる。ほとんど反射で振り向いた顔は目を丸く見開いていて、俺を見た途端に安堵した普通の瞳へ戻っていく。
『ごめん、びっくりさせて……』
無言で首を横に振る千種。
『なにしてたの?』
『……ちょっと』
曖昧に言葉を濁らせて千種は窓の外へ向き直ってしまった。
空は既に茜色に染まっている。橙に彩られた雲が風で流れている。もうすぐ日が暮れる。千種に帰る気配はなく、俺は忘れものをランドセルにしまうと教室の扉前で足を止めた。
『帰んないの?』
なんとなく訊いてみた。不思議といつも女子に感じるような緊張はなかった。
窓の外を見つめたまま千種はなにも答えない。答えたくないのかもしれなかった。そう思ったとき、変に俺は期待してしまった。千種も家へ帰りたくないのでは、と。
俺は家へ帰りたくないから今日は繰斗と他の男子たちとで放課後遊びをしていた。下校時刻間近でみんなが帰って、俺は忘れものを思い出して戻ってきたというわけだ。
家に帰りたくなくなるのは今日に限ったことではない。母親は働きながらひとりで俺を養っている。毎日のように計算機と家計簿を食卓へ並べてはにらめっこをしていた。母親が数字で頭を抱える姿を俺は見て見ぬふりしていた。なにか言えば、すぐ母親は怒って俺に暴力を振るうのだ。きっと仕事がらみで疲れているのだろうと俺はなにも言わなくなった。
正直、母親とは話したくなかった。俺が女子、というか女の人に対して苦手意識を抱くのは暴力的な母親が原因だった。
年月が経つにつれて母親は『あの人に似てきたね』と冷たい視線を注いでくる。俺がそんなに嫌いなら引き取らなければよかったのにと何度も思った。でも、父親に引き取らせるわけにはいかなかったのだろう。母親を見ていれば察した。父親も誰彼構わずに暴力を振るう人間だったのだ。離婚前は母親が俺の代わりに父親に殴られていた。離婚後は今まで父親に蓄積されたストレスを父親に似た俺で母親は発散していたのだ。
毎日殴られるわけではない。仕事で嫌なことがあった日や俺の顔を見て無性に腹が立った日、不機嫌で精神が不安定な日だけだ。俺を殴った後は決まって母親は俺を抱きしめて必死に謝る。俺はただ殴られて抱きしめられて謝罪されるという一定の作業を無言でやり過ごすだけだった。
『帰りたくないの?』
期待を込めて尋ねてみる。家が虚無の空間なのは俺だけではない。血の繋がった親が殺人鬼みたいだなんて俺だけが感じているわけではない。俺の家は普通なのだ。変なんかではない。自分に言い聞かせるように俺は心の中で何度も同じ言葉を繰り返した。本当は千種に味方になってほしかったのだ。もしかしたら同じ痛みを知る同士かもしれない。そんな彼女に俺自身を理解してほしかった。
千種はゆっくりと俺を振り向いた。
少しの間だけ見つめ合って、千種はランドセルを背負うと言った。
『帰るよ』
あくる日、千種は学校を休んだ。
クラスメイト一人が休んだくらいで教室の空気は変わらない。それが一軍女子のメンバーでも。千種はもともと一軍グループに無理して所属していたようにも思えた。おいていかれないように後ろをくっついて、なにかあっても決して波風を立てずに人に合わせてしまう。自分の意見をグループ内で言えていないようだった。
昨日の教室で千種ともっと話をしていれば、今日彼女が休むことはなかったのではないか。このまま彼女が学校へ来なくなってしまったらどうしよう。そんなことばかりが頭の中をぐるぐるして授業に集中できなかった。
千種は学校を三日間欠席した。先生は体調不良で休んでいると言っていたが、俺は嘘だと思った。根拠はない。俺も一度予期せぬ欠席をしたことがある。その際は計四日間学校を休んだ。母親に暴力を振られ、思っていたよりも怪我が残ってしまった。病院へ行くこともできず、痛いのを家でじっと我慢して、傷口が塞がるのを待つのだ。そして、人様に見られてもいい訳できるくらいまで治ったら登校を再開する。意外と人間の自己治癒力は優秀で早く傷口は塞がる。
千種もなにかあって登校できないでいるのではと気が気ではなかった。別に彼女から虐待を受けていると聞いたわけでもない。ただ、なんとなくそんな予感がしていた。
彼女が登校してきたのは週明けの月曜日だった。見た感じは休む前と変わっていなくて本人も元気だった。久しぶりに挨拶を返してきた彼女の笑顔はうさんくさく感じたが、俺はなにも訊かなかった。
放課後になると、また千種はひとり教室に残っていた。今度はノートを広げてなにかを熱心に書き込んでいる。
俺は近づいて千種に声をかけた。千種は一瞬だけ驚いた顔で俺を見上げたが、すぐに微笑んだ。なにを書いているのか尋ねたら、千種は快くノートを俺に見せてくれた。
小学生ではあまり見かけないキャンパスノートに筆圧が濃い黒で文字が書きなぐられていた。記された文字は《みんな死んじゃえ》という簡素な文章。ノートの線なんて無視して乱暴に何度も繰り返したように同じ文章が重なっていた。
なんでもないよというように俺に微笑みかける千種を見て俺は背筋が凍った。小学三年生の女の子がひたすらに同じページに《みんな死んじゃえ》と書いているのは普通ではない。しかもそれを隠すこともなく俺に笑って見せたことが信じられなかった。いったい千種はなにを思って俺にこれを見せたのか。
『ち、ぐさ?』
『おもしろいよ? 椎名くんもいっしょに書く?』
千種朝音はおもしろいと言った。今確かにそう告げて笑っていた。狂っている。
既に千種はおかしくなっていた。手遅れだった。この間休んだことがきっかけなら嫌な胸騒ぎがしたときにすぐに千種の家へ行けばよかったのだ。
『なんで……こんなこと』
千種の顔から笑顔が消えた。目は冷徹そのものだった。抜け殻のようで、同じ文章を書くだけの機械だった。
『みんなのこと嫌いなの』
それだけ呟くと千種はノートを閉じてランドセルの中へしまった。
みんなって? 俺たちのこと? 学校の人たちのこと? 家の人たち? それとも他に誰かいるのか。
そういえば、今日の千種はなんだかクラスの奴らと距離をとっているように見えた。必要最低限の会話しかしていなかった気もする。
『千種、もしかして……いじめられてる?』
かなり踏みこんだ質問だった。直球すぎて答えてもらえないかもしれない。俺では力になれないかもしれない。
千種は黙ったまま答えない。
『いつもいっしょにいる女子?』
無言で千種は首を振った。
『じゃあ誰が』
『違うの。誰もいじめてない』
『ならなんでみんなのこと嫌いって』
思わず千種の腕を掴んでしまった。『いたい』と千種の顔が歪む。俺は咄嗟に放す。『ごめん』と小さく謝ってうつむいた。
なにも言ってこない千種を見ると、彼女はまだ痛そうに掴まれた腕をさすっていた。痛みが残るほど強く掴んだ覚えはない。俺が思っていたよりも力が入ってしまったのだろうか。
『ごめん、千種。痛めたか?』
『ううん。大丈夫。もともと……』
もともとの続きはなんだ。千種は口を閉じてしまい言葉の先を教えてくれなかった。
長袖でわからないがもしかして腕を怪我しているのか。
『千種ちょっと腕見せて』
『なんでもない。大丈夫だから』
俺がもう一度千種の腕を掴もうとすると、千種は背を向けて阻止した。
『そうじゃない。見せてほしいんだ。服の下、怪我してるんじゃないの?』
図星をさされたみたいに瞠目して千種は俺を振り返る。
『千種』
俺は自身の服を捲ると素肌の背中を彼女に見せた。後ろを向いているから千種がどんな表情をしているかはわからない。俺は今、母親の暴力によって負った怪我の痕を見せている。誰にも見せたことはない大きな傷痕。生傷のまま放置したから痕が残ってしまったのだ。怪我を負わされたのはかなり前だからもう傷口は塞がっているが、たまに疼いて痛む。
服を正して振り向くと、千種は泣いていた。大粒の涙で顔はぐちゃぐちゃになっている。
『ご、ごめん! 気持ち悪かったよな⁉ ほんとごめん!』
俺は馬鹿だ。いきなり生々しい古傷見せられて、平気でいられる女子小学生なんていない。千種に本当のことを話してもらうにはこれが手っ取り早いと思ったのだけれど、失敗に終わった。そもそも怪我をしていたとしても千種が俺みたいに理不尽な暴力を受けているとは限らない。
『あ、あのっ……ちが、うの、ほんとうは……っ』
必死になにかを伝えようとしているが嗚咽まじりの言葉を理解できるわけもなく、俺は千種が泣きやむのを待った。
千種が落ち着いてから俺たちは学校を後にして公園へ寄り道した。
ベンチにふたりで腰かけて、俺はじっと地べたを見つめている。
『私ね、本当はみんなのこと嫌いじゃないの』
口を開いたのは千種が先だった。
『椎名くんの言うとおり腕、怪我してて』
怪我は休んだときに負ったもので、やはり両親による暴力だった。千種の場合は俺と違って悲惨なものだった。家にいる間は自由に行動することも許されず、両親の視界に入らない所でじっとしているらしい。
俺と決定的に違うところは暴力の種類だ。俺の母親のように機嫌が悪いときにだけ衝動的に起こるものでなく、千種の両親は意図的に計算して彼女をいたぶるようだった。だから、ぱっと見ではなにもわからない。きっと服で確実に隠れる部分を狙って攻撃するのだろう。
お腹辺りが熱くなって俺は拳を握りしめた。心の底から湧きおこる怒りを俺は初めて感じた。
両親からの虐待は小学生になってから突然始まったそうだ。原因はわからないし考えても見当がつかないと千種は言った。ノートに死んじゃえと書いていたのはあんなふうにしていると気が楽になるらしかった。
きっと感情のコントロールがうまくできないのだ。両親からの暴力は身体だけでなく心にも怪我を負わせにくる。学校でいじめに遭っているのとは比べものにならないくらいの恐怖を帰宅して気が緩むときに味わうのだ。
《みんな死んじゃえ》の《みんな》の意味は感情の矛先が両親の他にクラスメイトしかなかったから。心が壊れた千種は恐怖で両親へなにかをぶつけることができなくなっていた。自分はこんなに苦しんでいるのに毎日楽しそうに家族の話をするクラスメイトたちが羨ましくて憎らしかった。そんな気持ちから《みんな死んじゃえ》という文章をただひたすらにノートへ書くことがわずかに残る自尊心を保つ手段だったのだ。
千種の話を聞いてから俺も自分のことを話した。千種は自分と同じ境遇の俺を深く労わってくれて、俺は千種の存在が心の支えになった。そして、俺も千種の心の支えになろうと誓った。
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